日本基督教団 西片町(にしかたまち)教会へようこそ!バリアフリーの教会です。 どなたでもいらしてください。

2000年 6月 4日 「御国が来ますように」

2000年6月4日 「御国が来ますように」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 11:1~13)

 先週、私は青年会合同修養会の準備のために、韓国に行きました。そこでやはり徐道燮牧師が私に問われたことは、森首相の「神の国」発言についてであります。「日本人の中に、あの言葉に共感する思いがあるから、森首相は堂々とあのような発言をすることができたのではないか」という問いであったと思います。

 そうかもしれないと思いました。日本において「神の国」という言葉が発せられる時、それは日本人が限りなく驕り高ぶっている時代であります。


 昨日の朝日新聞の「天声人語」に、太平洋戦争の時の国民学校二年音楽教科書に、こういう歌があったと紹介されていました。「日本よい国、きよい国。世界に一つの神の国」。そして、その教師用の指導書にはこうある。「我が日本の世界無比の国体を歌わせ、国民精神を昂揚し、愛国の熱情を養う。」あるいは、三年生の修身には、こうある。「世界に、国はたくさんありますが、神様の御血筋をおうけになった天皇陛下が、おおさめになり、限りなく栄えて行く国は、日本の他にありません。」

 私は、訪韓中、「ナヌムの家」に連れて行って頂きましたが、このような神の国理解の中で、日本軍慰安婦に対する途方もない人権蹂躙が起こったのだということを改めて思わずにおられませんでした。一方、新聞には、森首相の言葉を皮肉ったこういう読者の声も記されていた。「神の国」、結構、そうであれば、この神々の住む美しい日本の自然、その山河を、公共事業の名目で根こそぎ蹂躙し、破壊しまくってきたのは、どちら様ですか、というような批判であります。

 日本人の驕り高ぶり、それは人と自然を蹂躙することに繋がる。使徒パウロは「山を動かすほどの完全な信仰」(コリント一13:2)と言いました。それは、絶対に動かないはずの山をも動かす力が信仰にはある、そういう意味です。古代人であるパウロが、人間の力では絶対に不可能と思って例えた、「山を動かす」ということが、今、私たちの国土で現実に起こっている。昨年あった山が今年はどっかに消えてしまった、ということが起こっている。「信仰によって」ではない。金とブルドーザーの力によってであります。「成人した世界」と誰かが申しました。現代人は、子ども時代を脱した、この20世紀に人類は「成人」したと言うのです。

 子どもは小さい頃は、父親にねだるのです。「あれが欲しいの」と。願いが叶えられるためには、ひたすら父に頼る他はなかった。しかし子どもはだんだん大きくなりますと、そんな当てにならないことより、自分でアルバイトして、さっさと欲しい物を手に入れるようになる。就職し独立でもしたら、電話一本かけてこなくなったりする。成人すると父は不要になる。呼びかけなくなる。願わなくなる。祈らなくなる。父なる神に頼らなくても、山を自力で動かすようになるのです。それを「成人した世界」と呼ぶ。もう我々は神から独立した、という誇りを感じさせる。しかし、この言葉を聞いて私たちが思い出すのは主イエスの言葉でありましょう。「子供たちをわたしのところに来させなさい。…神の国はこのような者たちのものである。」(ルカ18:16)。「神の国は大人の国ではない。幼子のような者の国」。森首相が、この主イエスの言われる「神の国」について、その人生の中で一度でも学んでいたら、あんなことは決して言えなかったと思う。教会の伝道の貧しさを思う。政治の中枢に教会の伝道が少しも及んでいないのです。

 今朝の御言葉ルカ11:11~13aにこういう言葉がありました。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。」人間の父でさえ、これくらいのことはする。まして天の父は、あなたがたに最良のものを下さる。子どものようになって求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる。そういう神信頼の言葉であります。私はこれを読んで思いました。私たち日本人・現代人は、その奢り高ぶりの中で、自らせっせと、魚を得ようとして蛇を作りだし、卵を得ようとして、さそりを招いてしまった、そういう世代なのではないか。

 私たちは、大東亜共栄圏を作ろうとして、夥しい慰安所を作ってきたのではないか。日本軍「慰安所」分布図を、私はナヌムの家で見ました。アジアのいたる所に印が付けられている。解説者は、そこにいた見学者の中で唯一「日本人であり、男である」私を見つめながら言いました。「これは分かった場所のみです」と。あるいは、私たちが、ブルドーザーの力を得た時、国土だけではない、その被害は、今他の国にまで及んでいる。日本の金と技術を用いて、今、フィリピンや中国で凄まじい環境破壊を生み出す、超巨大ダムが建造されています。一体どこまで山を動かせば気が済むのかと思う。

 先ほどから引用しています、パウロの言葉「山を動かす」という言葉はどういう文脈で語られるか、開いてみたいと思う。それはコリント一13:1~2「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」

 私たち現代人は、自分を大人になったとどんなに自称しても、相変わらず愛においては幼稚園児のままなのです。日本は愛の幼児であります。だから力があればあるほど、返って世界中で問題を引き起こしてしまう。魚の代わりに蛇を、卵の代わりにさそりを差し出してしまう。しかし、そのような自分のどうしようもない貧しさ、欠乏を真に知ることこそ、祈りの始まりであろうかと思う。そこで私たちは祈ることを学び始める。

 森首相は宗教が大切だと言う。しかし、高ぶりの中で、日本を神の国などと呼んでいる限り、宗教心などというものが生まれるはずはない。宗教を求める思いと、自らの貧しさを知ることと一つであります。魂の渇望と飢餓に悩む時だけ、宗教は生まれる。祈りは始まる。

 愛に渇くからこそ祈るのです。この国に愛が現れますように。その政治のただ中に愛が貫かれますように。開発援助の中に、真の愛が現れますように。何よりも私の心のただ中に愛が生まれますように。私たちは、愛の幼児として、そしてそれを自らが作り出す何のすべもない時、神に祈り求める他はありません。そこで、初めて成人した世界などという寝ぼけた自惚れから目覚めることができるのであります。

 ある人はこの譬、11:5~6「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』」、ここをこう解釈しています。旅人が真夜中にようやく目的地にたどり着く。宿屋もない。誰かを頼りにするより他ない。つてを頼って、誰かの家の扉を叩く。扉を叩かれた者は、その時家の中を見渡した時、旅人に与えるパンがなかった、というところからこの物語は始まっているのです。人に与えなければならないものが自分にはない。その欠乏を知るところから全ては始まる。

 つい数週間前、「善いサマリア人の譬」を私たちは読みました。旅人に与えた善いサマリア人の愛の物語です。そしてこのサマリア人とは、主イエスキリストである、隣人への愛を持ち合わせている主イエスご自身だと学びました。善いサマリア人は私たちではないのです。何故か。愛に欠乏しているからです。この11章の譬で、パンがないとは、愛がないという意味なのです。特にこの物語は真夜中の話であります。私たちは昼間なら、かろうじて、訪ねてくる人に、愛らしきことをすることがあるかもしれない。そして自分も少しキリスト者らしくなった、などと思うかも知れない。しかし私たちは、真夜中の訪問、いや、夜の電話すら、好まないところがある。やっと一日の仕事を終えて、くつろいでいる時に訪問があった時、私たちは、本当に重い腰をようやく上げるってことがある。夜遅くにもつれ込んだ仕事を机に向かって必死でしている時、電話一本によってどれほど心乱されるか。そのような気持ちを相手に知られないようにするのに、疲れ果てるところがある。そういう中で、夜中の来客が帰った後、電話を置いた後、自らの愛の貧しさ、欠乏に途方に暮れます。困り果てて門を叩いたあの人に、何も与えられなかった自分の無力に絶望するのです。

 主イエスは、その譬を語られる前に、主の祈りを教えて下さっています。11:4「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」赦しに関わる祈りであります。赦すということがどれほど難しいか。友を赦すということがどれほど自分たちはできないか。どんなに大人になっても、私たちは人を赦せないところがある、いや、年を取るにつれて、益々、人を赦す心が消えていくようにすら思えるほどです。このような心を、現代は、成人した世界などと呼んだ人は、どうその人の心を計算の中に入れたのだろうか、と思う。

 11:3「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」この前、ここで説教して下さった、国際飢餓対策機構総主事・神田英輔牧師はこの祈りを重んじます。そしてこう言われた。ここで祈られているのは、「私に必要な糧を」というのではない。「私たちに必要な糧を」、そう言われてどれほどこの世界に飢餓が溢れているか、それに対して、どれほど私たち日本人が病気になるほど食べているか、この日本の繁栄と、世界の飢えとは直結していると語られた。どうしてこんな矛盾した世界ができあがったのだろうか。どこが成人した世界なのであろうか。どこが、神の国なのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。途方に暮れる。今夜も食卓に並ぶご馳走を前にして途方に暮れる。本当に自分の無力を、その愛のなさ知恵のなさを嘆かざるを得ない。未だ「神の国」は見えません。この地上に見えません。どこを探しても見えません。それとは全く裏腹な世界が見えるばかり。だから祈るほかない。11:2「父よ、…御国が来ますように。」愛もない、赦しもない、人の痛みを知るその想像力もない、その欠乏、魂の飢餓の中で祈る他はない。主の祈りを祈る他はない。

 11:5「友よ、パンを三つ貸してください」。これはその時、私たちの上げる祈りの言葉であろうかと思う。「神様、私は何も出すものがありません。友の飢えを満たす何の持ち合わせもありません。だからあなたの愛を分けて下さい。あなたの持っておられる優しさを、少しでも分けて下さい。」そして私たちは、真夜中に門を叩く。神の家の門を叩く。主イエスは少しもうるさがらず、ご自身のものを分けて下さる。そしてこう続けられる。11:13「まして 天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 私たちは、次週、聖霊降臨日を迎ます。この日、この主の約束の言葉に差し掛かったのは、神の導きであろうかと思います。それに応えて、この後、讃美歌21―三五〇「来たれよ、聖霊」を皆で歌います。この歌は、英語原歌詞は18世紀を生きたイギリスの牧師アイザック・ウォッツによるものです。元の題は「聖霊をあえぎ求めて」であります。聖霊への渇望が歌われ、最後に「われらの心を燃やしたまえ」と繰り返される祈りが記されています。そうです。何よりも私たちに欠けているのが、聖霊なのです。それが故に私たちは、1節「心が冷たく」、聖霊がないが故に、2節「はかなきかげのみ、追い求め」、死にそうであり、3節、賛美にも力が入らないのであります。息もたえだえなのです。息もたえだえのはかなき世界を作ってしまったのです。はかなき家庭を作ってしまったのです。はかなき人生をつくっているのです。

 教会における祈祷会の衰退が言われて久しい。それは、私たちが自らの本質的渇望を忘れてしまったからかもしれないのです。しかし、今朝の御言葉によって、はっきり思い出されたと思う。私たちがどれほど貧しい存在か。そして、この貧しさは、ほっておいたら、大変なことになる貧しさであります。それは私たちが隣人を失う貧しさであり、世界の中で、最低の国と呼ばれる貧しさであります。祈らなければなりません。愛を分けて下さい。私たちに糧を与えて下さい、「神の国」が来ますように、聖霊が与えられますように心から祈る一週間でありたい、そう願うのであります。


 祈りましょう。  私たちに祈る心を回復させて下さい。御子が祈る姿を見た弟子たちが、深い憧れをもって、祈りを教えて下さいと願ったように、御子の知る祈りの喜びと充足を教えて下さい。あなたの愛と赦しと霊を貸して頂いて隣人とあなたに仕える歩みをなすことができますように。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




a:938 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional