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2000年 5月21日 「善いサマリア人の譬」

2000年5月21日 「善いサマリア人の譬」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 10:29)

 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。(ルカによる福音書 10:29)

 今朝私たちに与えられましたルカ福音書10・25以下の物語は、一人の律法の専門家と主イエスとの「問答の物語」であります。律法の専門家が主イエスに先ず問いました。「先生、永遠の命を得る、つまり救われるためには、何をしたらいいですか。」そう問いますと、逆に主イエスに問い返された。「律法には何と書いてあるか。」27「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」律法の専門家です。直ぐ答えました。そうしたら、主イエスは、その通り、満点、合格!、答えは正しい、後あなたに残されたことは、それを実行することだけだね、そうすれば命を得られる。そう言われました時に、律法の専門家が主イエスにもう一度、尋ねたのが、「では、わたしの隣人とは誰ですか」という問いであります。

 その後、「善いサマリア人の譬」として知れ渡っている話が登場しまして、その譬を語り終わった直後、もう一度、主イエスは専門家にお問いになられる。36「さて、あなたはこの三人(祭司、レビ人、サマリア人)の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」それに専門家は、「当然です、追い剥ぎに襲われた人を、助けた人です」、と答えたところ、主は、ここでも、満点、合格!としながら、28節と同主旨のことを、もう一度言われる。ではあなたに、後、残されたことは、一つだけだね。37「行って、あなたも同じようにしなさい。」そしてこの「問答の物語」は終わるのです。

 この問答は、律法の専門家が、最初、自信に溢れて、先ず、主イエスを、25節「試そうと」する、そこから始まりました。しかし、主イエスに問う度に、逆に問い返され、それに対して律法の専門家ですから、その知識を駆使して、一々満点の答えをしたにもかかわらず、何か、この物語の最後の印象は、専門家は、結局、落第点を取ったように、自信喪失し、沈黙し、とぼとぼと肩を落として去っていく、そんな読後感を私たちに与える、そういう物語だと思います。

 29節、ここに「彼は自分を正当化しようとして」と記されていますが、別の訳では、「自分自身を義とするために」、という言葉です。この問答全体が、律法の専門家にとって、自分を正当化したい、自分を義としたい、そういう思いに貫かれていると言ってよいと思う。まさに、彼が専門とする「律法」とは、自分で自分を義とする営み、自分の力で自分を救う営みであると、そしてそれは、最初調子よくて、最後に破綻する、落第する!と、私たちは主イエスと使徒パウロから教えられてきました。

 「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20)

 ここでも、律法の専門家は、主イエスの前で、「自分を義とする」企てに破れてしまっている。律法の優等生であります。鼻高々であった優等生、しかし、主が「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた時、彼は挫折する。黙る。もはや主に試み、問う力を失う。それは、主の言われる善いサマリア人の愛を、自分は行うことはできない、どうしても行うことはできない、それを直感したからであります。

 しかし、私は思う。この律法の専門家は、この問答の末、主イエスに破れてよかった、本当によかったと、ここを読んで思いました。人間にとって、主との論争に破れることは、一つも悲しいことではない。むしろそこから、初めて、彼が最初に問うた25「何をしたら、永遠の命を得られますか」、その問いに対する、神の答えが聞こえてくる。神の言葉とは、神の答えとは、私たちが沈黙する時、響いてくる。

 一度、打ちのめされることを学べ。自分が優等生ではなくて、本当に愛の劣等生であることを知れ。そして、自分で自分を義とする「律法」を断念して、思いがけず「外」から来る義を、救いを、求めてご覧。

 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」(ローマ3:21~22)

 主は、実は、この問答を通して、律法の専門家を招いておられる。ご自分の胸の中に招こうとしておられる。そのために主は、譬を、彼に優しくお語りになっておられる。それは、まるで、譬の中で、追い剥ぎに襲われ打ちのめされている旅人を、優しく介抱する善いサマリア人のようになって。

 そして主は静かに語り出されるのであります。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中…」(10:30)と。

 エルサレムからエリコへ下っていく、標高差約1,100mの落差がある山道、そこは盗賊の絶好の猟場であった。一人のユダヤ人と思われる旅人が、やはり追い剥ぎに襲われる。身ぐるみ剥がれ、殴られ半殺しにされてしまう。そこに神殿宗教、つまり律法の体現者、祭司やレビ人が通ります。ところが、その打ちのめされた人を見ると、道の向こう側を通って行った。どうしてかということです。その一つの理由は、律法には、死人に触れた者は七日の間汚れる(民数記19・11)という項目があったからだ、と注解者は申します。倒れた者を助け起こしたら、死んでいたとなる、あるいは世話をしている内に死んでしまったとなると、汚れを背負い込んだことになりまして、神殿奉仕を謹慎しなければならなくなる。礼拝、祭儀のために、いつも自分が清くなければならないのです。自分の汚れなさ、美しさが大事であり、愛は二の次でした。そこに既に、律法の問題が現れていると言わなければならない。

 怪我人にとって、最も自分を救い、永遠の命へと導くはずと思われた律法が、「道の向こう側を通って行」ってしまった。使徒パウロが言うように、律法によっては救われなかったのです。

 絶望で霞む目の端に、旅するサマリア人の姿が見えてくる。サマリア人とは、ユダヤ人から大変忌避されていた民でした。元々は同族でしたが、昔大国に占領されたこともあり、混血と異邦人の文化が入り込み、血と信仰の純粋性が失われた愚民とされていた。それに対して、サマリア人もユダヤ人をひどく憎んでいた。互いに激しい近親憎悪を抱いていたのです。従って、倒れているユダヤ人は、そのサマリア人がやって来るのが見えても、何も期待していなかったと思う。同胞の聖職者ですら、見捨てた自分なのです。ところが、予期に反してこのサマリア人は、彼を助け介抱し、命を救ったのであります。

 そういう愛の物語を聞いて、「行って、あなたも同じようにしなさい」と命じられた時、律法の専門家は、主イエスに打ち負かされてしまう。自分はこのサマリア人と全く裏腹な愛しか持っていない、そして、自分の専門・律法もまた、愛を語りながら、実は、このサマリア人が抱いていた愛を少しも知らない、だから自分は結局、どんなに専門的に学んでも、律法の中に、「永遠の命」を感じることができなかったのだ。そうやって、問答の末に、がっくり手をついてしまったのではないか。旅の途上でうち倒された人のように。

 彼の愛、律法の言う愛は、どこがサマリア人の愛と異なっていたのでしょうか。

 例えば、徳川時代、全ての土地に氏神をまつる神社がありそれを中心として、人々は強く団結していました。氏子同士は相互に助け合うと同時に、氏子外の者を強く排除しました。徳川時代には、村々では「虫送り」が行われていた。稲に病気が出ますと、当時の人々は稲に悪い虫がついたと考えた。そこで村人は行列をつくり、鐘や太鼓を叩きながら隣村の境まで行進し、悪い虫を隣村へ送り込む。そして自分の村はその被害を免れたと考えました。しかし自分の村で困る悪い虫なら、隣村でも困るはずなのです。しかし、隣村の痛みはどうでも良かった。氏子同士はとろけるような愛に生き、しかし他人は過酷に扱う。愛はある。しかし、その愛には、はっきり「枠」があるのです。その枠からその愛は外に流れ出すことはない。

 愛を誇る人がいる。自分は憐れみ深いと、そして、この善きサマリア人の譬をまるで「物差し」のように手に取って、人に当ててみる。その自分の誇りの中で、愛のない人を裁き、切って捨てる人もおります。それもまた、自分の物差しに合わない人を捨てる、やはり氏子エゴイズムに近い姿なのではないか、と思う。自分の仲間、自分にとって、好ましい者、美しい者、自分を豊かにしてくれる者、自分を決して汚したりしない者、そのような人を愛する。律法の愛とは、そのように愛に値する者だけを愛することであった。「内」を愛し、「外」を排除する愛のことであった。そこから、氏子エゴイズムもまた起こってくる。そして、私たちの心にも、それはある。はっきり「内」と「外」を峻別する思いが。

 主イエスは、山上の説教で、こうも言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

 ところが、この「隣人を愛し、敵を憎め」と、主は、あなたがたは聞いている、と言っておられますが、いくら学者たちが、旧約聖書を探しても、この言葉が見あたらないのです。ところが、一九四七年、死海のほとりクムランで発見された文書・宗教要覧の中に、こういう言葉があった。「光の子を愛し、闇の子を憎みなさい」と。それでは主イエスは、このクムラン教団の宗教要覧を読んでいたのでしょうか。そしてクムラン教団を批判する意味で、あの山上の説教を語られたのでしょうか。そうかもしれません。あるいは、そんなことより何よりも、イエス様当時のどの宗教組織も派閥も、セクトも実は、どこにも書いてなくても、皆共通にやっていたことは、どこでも聞かれたことは、当然のこととして、「隣人(つまり自分のセクトのメンバー)を愛し、敵を憎む」ことだったのではないでしょうか。私たちが、自分は愛があると言うかもしれない。自分は親切だ、そう思っているかもしれない。しかし、それは主の眼差しの中では、少しも愛ではない。全ての者を隣人と覚える、善いサマリア人の愛ではない。同胞を愛するだけで、真の隣人を見失っている愛でしかない、主は、そう見抜かれることによって、私たちに勝たれる。私たちの傲慢に勝たれる。私たちは打ちのめされる。自分は実は神の友ではなく、神の敵だと知る。神の敵として、自信の衣を剥ぎ取られ、荒野に倒れているのであります。

 しかし、そこにサマリア人が現れる。よそ者、赤の他人、いや敵対者、決して自分と関わらない存在、そう思われた時、救いは予期せぬ所からやってくる。この者がその愛の故に、手を伸ばしてくる。このサマリア人とは主イエス・キリストのこと。主は私たち罪人、神の敵である私たちと全く異質な「善き」お方、人間の「外」のお方、聖なるお方。この神の子こそ、実は、私たち人間から最も遠い外なる存在、よそ者であります。だから人間は、この神の子を、後に十字架につけて殺す。そういうことをしました。その神の子が、敵であるはずの私たち人間に救いの手を伸ばして下さる。異質な存在のはずなのに、隣人になって下さる。愛に破れ、倒れている私たちを、憐れに思って、介抱して下さる。私たち汚れた体を、ご自身が汚れることも気にせず、抱きしめて下さる。この時、この物語に福音の光、愛の光が射し込むのであります。

 ある姉妹が最近こういう経験を語られました。「タイのバンコクで暮らしている時のこと、家族との激しい言い争いがあって、私は一銭も持たずに、外に飛び出してしまった。湿度85%、温度40度以上の町。カゲロウが立ち上る灼熱の世界。そのバンコクでベンチに座っているのは、自殺行為でした。朝から夕方まで、そこに座っており、途方に暮れていた。明日は新聞に行き倒れと載るかも知れないと思いながら、しかし、冷静さを失っていた私は家に戻ろうとはしなかった。ところが座っている、私の膝にぽとんとお金が落ちてくる。顔を上げると、日本語で、これで食事をしなさい。と親切に言ってくれる女性がいる。どこかで見たことがある顔だったが思い出せない。とにかく、生きるために、レストランに入って、そのお金でようやく食事をすませ、回復し、それからその女性のことを考えた。そして思い出したのです。彼女はコールガールであって、時たま、ホテルで見かけていたことを。

 私は心から反省した。職業に対する根強い偏見があったことを。彼女に許してもらいたかった。次の日、私は、ホテルのロビーで彼女を待った。そして彼女が現れた時、前に立って、お金を返し、それから、あなたのお友達にして下さいと願った」、そう言って、この姉妹は、善いサマリア人の御言葉を読んだのであります。

 主イエス・キリストは、私たちの隣人となって下さった。そのバンコクの女性のように。その真の憐れみが伝わる時、私たちも変えられるのではないでしょうか。姉妹が、最後に、昨日までその職の故に軽蔑していた女性に向かって、「あなたのお友達にして下さい」と願ったように。願わずにおれなかったように。
 
 ギスヴィルのプロテスタント教会にあるステンドグラスは、この善きサマリア人の譬を描いている。それを見ると、助けるサマリア人の見開かれ、その眼差しが怪我人にじっと注がれている。解説は、そのぱっちりと開かれた目は、「愛に目覚めている」ことを現している、そう書くのです。そして裸の困窮者に、目見開かれた人は、自分の赤い衣服を羽織らせ、彼の体を包む。それは、サマリア人が、傷に31「包帯」をする、それを思い出させます。そして、杯を手に持って、怪我人に飲ませようとしています。それは34「傷に油とぶどう酒を注ぎ」との御言葉を連想させる。私たちの愛の傷に注がれ、それを癒す、ぶどう酒。それは言うまでもなく、聖餐の杯を示している。そして、私は思う。なお、そのステンドグラスにおいて、怪我人は、目を閉じたまま、そのぶどう酒を飲ませてもらっている。しかし、それを飲み終わる時、その怪我人は、ふと目を開くであろう。その時、その目は、サマリア人の目のように、ぱっちりと見開かれるであろう。それは、その怪我人が、ついに愛の目覚めの時を迎えたことを現すのだ。そういうイメージが心の中に溢れてまいりました。

 10:36~37「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 主は、こう言って、愛の眼差し、閉ざされたままの律法の専門家を福音の中に招こうとしておられる。自分の力では、律法では、どんなにしても、「枠」を超えて、真の隣人になることができない私たち、そのために悩み、そのために苦しみ、生きる意欲を失い、死人のようになって、うずくまる私たちの所に、主は来られる。そして手を握って下さる。死人のような冷たい手を、主は神の体温をもって暖めて下さり、衣で覆って下さる。そして主の杯を飲ませて下さる。その時、私たちの閉じた目が開かれるのであります。愛が目覚める。不完全なものに違いない。なお愚かなものでしかない。しかし、そこで絶望する必要も、思い上がる必要もない。主の大いなる愛に包まれる時、私たちは繰り返し新しい命を得る、そう主は約束して下さる。

 専門家は最初問いました。25「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。主は答えられる。この問答と譬全体で答えられる。私の杯を飲みなさい、と。すると、あなたの傷は癒されるであろう。私の愛の衣に包まれなさい、するとあなたの冷たい心にも春が訪れるであろう。聖書を読む度に与えられる福音の温もりをもって、隣人に接することができるようになる。直ぐ冷えてくるかもしれない。その度に急いで、聖書を開きなさい。急いで祈りなさい、急いで、讃美歌を歌いなさい。何よりも礼拝に飛び込んできて、主の杯を呷(あお)りなさい。そこで永遠の命が得られる。他人だと思っていた人を、偏見をもって目を背けていた人を、主の眼差しを写して頂いた眼差しをもって見た時、隣人であることが見えるようになる。

そして、「私のお友だち」と初めて呼ぶことができるようになる。本当に嬉しいことだと思う。


 祈りましょう。  私たちの隣人となって下さった主イエスキリストの
父なる御神。愛の劣等生である私たちに、なお絶望されず、繰り返し「あなとも同じように」と、「あなたも行って、同じように」と呼びかけ続けて下さる、あなたに答える人生を歩むことができますように。

 (この後、讃美歌21ー四八七「イェス、イェス」を喜びに溢れて歌った)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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