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2000年 5月 7日 「主の愛に報いよう」

2000年5月7日 「主の愛に報いよう」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 10:15)

 「カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」(ルカによる福音書 10:15)

 ルカ福音書10:12~16の主イエスの御言葉は、七二人のお弟子たちを、伝道者として各地に遣わせられた直後に、お語りになられたものです。そこで計六つの町の名をお上げになられた。そしてその六か所は、主の御言葉の中で二種類に分かれます。主の評価がはっきり分かれる。その評価というのは、一方は「軽い罰で済む」(10:14)という評価であり、もう一方は15節に記されている言葉で申せば「陰府にまで落とされる」ということであります。「裁きの時」(10:14)がやってくる。その時の罰が軽く済む町と、厳罰に処せられる町に分かれると言うのです。陰府に落とされるとは、滅びるということです。その厳しい方の評価を受けてしまったのは、13、コラジン、ベトサイダ、15、カファルナウムです。この三つの町は現在、みな破壊され地の下に埋もれています。主の預言のとおりになったと言ってもよいような廃墟となりました。発掘してみますと、この町々はほぼ同じ場所、ガリラヤ湖北側に位置していました。そこは、主イエスが最も愛し、御言葉を語られ、病人をお癒しになった、いわば福音書の舞台のような場所。カファルナウムを、主は「自分の町」(マタイ9:1)とさえお呼びになられ大切にされた。しかし、それが滅びると主を嘆かせられたグループであります。

 もう一方、12節ソドム、13節ティルス、シドン、これらは聖書に度々登場する町です。イザヤ書23章にあるように、偶像礼拝の町、不道徳な町として、徹底的に預言者によって排斥された町です。ユダヤの国ではありません。別の国です。しかしそちらの方がましだと主は言っておられる。例え同等の罪を犯していても、異邦人の町は軽い罰で済みガリラヤは重い。どうしてか。宗教改革者カルヴァンはその注解の中で、はっきり書くのです。

 「イエス・キリストは、神がこの町に与えられた恩恵が大きかったので、それだけこの町が受ける罰が大きいと宣告しておられる。神の賜物を汚すことは、常に冒涜を含んでいる。より多くの恵みを受けた者が神から与えられた恩恵をよごし、汚すならば、それだけ厳しく罰せられる。」そう言って、カルヴァンは「私たちも…」と続ける。そうです。今朝の御言葉は、私たちにとってよそ事ではありません。そのことに、気づいた方も多いと思う。ここにいる全ての者、私たち教会に集う者は、ガリラヤの町村同様に、神の「奇跡」(10:13)を見せて頂き、御言葉を聞く特権に恵まれた者たちです。未だ一度もそのチャンスをもたない多くの人々と比較して、どれほどキリストから特別に目を掛けていただいた存在であるか。しかし、この私たちが、神の言葉を前にして、悔い改めないのなら、受けたキリストの大きな愛に応えること少しもなければ、それは主イエスの13「不幸だ」という嘆きを受ける他はない。これは当然のことであります。だから主は、こうも言われた。「お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない」(10:13)。普通ならそうなると、言っておられる。

 人間同士であっても、目を掛けてもらったら、それに何とか報いようとするのが、真人間のすること。まして、神様、ましてキリストから、誰よりも強く愛された私たち。そうであれば、主が派遣された伝道者を受け入れ、それを通して主イエスを受け入れることは、まともな人間であれば当然の筋というものです。それができなければ、まだ神の愛を知らない人よりも、罪が重いと言われるのは当然のことであります。主イエスはここで人の生き方の本当に当たり前のことを言っておられる。しかし、ガリラヤの町々は、その当たり前のことができなかった、だから主は「不幸だ」、「そんなであんた達いいのか!」、そう叫んでおられる。

 北海道家庭学校の前校長 谷昌恒先生が、エッセー『森のチャペルに集う子ら』の中で、使徒パウロの言葉を引用されています。「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」(コリント二12:15)

 少年たちを前にしての説教で谷先生は語られました。コリントの教会にパウロは言いたいことが一杯あった。コリントの人たちの生活を見ていると、心配でたまらない。そんな生活を続けていたら、いまに必ず行き詰まる。魂を汚してしまう。目覚めなければいけない。正道を歩いていかなければいけない。切々と訴え続け、機会あるたびに苦言を呈してきました。パウロは心からコリント教会の人たちを愛していました。愛しているからこそ、いろいろと言ってきたのです。しかし、コリントの人たちの気持ちはひどくさめている。むしろ、パウロからだんだん離れていく。パウロは、真面目な伝道者だ。優れた教師だ。でも少しうるさすぎる。世の中は理屈通りにいくものではない。先生は俗世のことをご存知ないものな、などと陰口をきく。パウロはこの人たちを熱愛している。しかし、うとんじられる。嫌われている。それをひしひしと感じて苦しんでいるのです。どれほど、コリント教会のために尽くしてきたか。「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。」(コリント二12:15)とまで言うのです。

 谷先生はこれらのパウロの文章には感情の乱れが感じられるとも言っておられます。こんなにあなた達のことを思っているのに、あなた達は私から離れていく。どうして、と。そう言って、先生は、家庭学校で最近こういうことがあったと続けられるのです。

 「A君が無断外出をした。その姿を見かけて保護しようとした。A君は逃げました。家並みを縫うように走りました。私たちは追おうとして、それができませんでした。この春A君は生きるか死ぬかの大手術をしました。心臓の弁を取り替えたのです。手術は成功しました。その手術にどんなにお金がかかったか、そんなことは言うべきでないかもしれない。この手術は術後が何よりも大事です。食物の味付けにも、何を食べてはいけないかも、教母さんは特別に心を砕いておられます。半月ごとに国立病院に行って、その経過を診てもらい、薬を頂いてきます。まるで腫れ物に触るように、慎重にA君の身体を案じ続けてきました。そのA君が走っているのです。死んでしまうぞ。私は思わず叫びたくなりました。あとで何故逃げたか聞きました。面白くないからだといいました。」

 そしてもう一度、使徒パウロの言葉を引用されるのです。「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」

 私はこれを読んでいて、本当に悔い改めさせて下さいと祈りました。これは決してA君だけの問題じゃない。私自身のことだと思いました。幼い頃から教会を与えられ、そこで多くの愛を受けました。にもかかわらず、私は、教会に行くのを止めた時期があるのです。生涯の中で、三年間、クリスマスなどお祭りの日以外は行かなかった少年の時代がありました。いえ、教会に属している今も、主の激しい愛に、その激しさに見合う愛をどれだけ献げてきたかと、思わないわけにはいかない。そして、自分勝手にあらぬ方向に走ってしまったこと幾たびであったろうかと思う。理由を聞かれると、「面白くないから」、何たることかと思う。その度に、主イエスは逃げる私に、天から「死んでしまうぞ!」と大声で叫んでおられたと思う。

 「お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」(10:15)。このカファルナウムに対する断罪の言葉は決して憎しみの叫びではありません。「そんなに走ったら死んでしまうぞ」という愛の叫び声だと私は思う。そして主イエスは、そうやって人の道を踏み外して滅びに、陰府にまで落ちていく私たちを、必死で追ってこられる。どこまでも追ってこられる。

 現在、主日の朝に行われている求道者会では、まさに主イエスの「陰府下り」についての宮田光雄先生の研究を読み続けています。出席している者たちは深い感銘を受けています。これは私たちが毎主日告白しております「使徒信条」の中の「陰府に下り」という主イエスの陰府下りを、古来、信仰者たちがどう解釈してきたを記しているものです。

 主イエスが十字架で死なれて、日曜日に甦るまでの間、主は何をされていたのか。それは陰府に下っておられたと言うのです。陰府とは罪を犯した死者が捕らえられている神の手が及ばない滅びの場。しかし、そこにキリストが下られるのです。何が起こるのか。そこで宮田先生は、ある聖書外典の物語を取り上げています。

 陰府における永遠の暗黒の中に、突如、明るい光が輝き渡る。サタンは、慌てふためき、悪霊達に命じます。「しっかりと強く青銅の戸と、鉄のかんぬきをしめ、錠を押さえていろ。彼を入れるな。」しかし、青銅の戸は脆くも砕け、鉄のかんぬきは潰されてしまう。そして、縛られていた全ての罪人・死人が、その縄目から解き放たれる。そこに御子イエスが入ってこられた。そして陰府の一切の闇が光に照らされた。その時、サタンは叫ぶのです。「我々の負けだ」と。

 このような文章を読みながら、私は、もう一つ、高久眞一さんが『キリスト教名画の楽しみ方 復活』の中で紹介している、十字架と復活を同時に描いた一枚の絵画を思い出していました。それは、一三〇〇年頃の不詳の画家の作品です。ブリュッセル王立美術館に所蔵されている、その絵画は、上下が二分されていて、上に主の十字架の場面があり、下が復活の場面なのです。上下に分かれていても、色調や模様がきれいに統一され、内的には一体のものに仕上げられている。その色調の中心にあるのが、高久さんによると、十字架のイエスが流している血の色なのです。主の衣を初め、側に並ぶ人たち全てにその色が及び、さらにそれが復活を現す下の絵に流れていく。その血潮の色が上の絵では、主を十字架につけたユダヤ人高官の帽子に及び、さらに、下の絵(ここを陰府と理解することもできると思いました)の番兵、福音書では主の復活に接して恐怖のあまり死人のようになった番兵にまで及んでいる。その意味を、高久さんはこう言うのです。「イエスの贖罪の血が信者はいうまでもなく、不信者や敵対者のためにも、つまり人類全体のために流されたということの素朴な表現であろう」。

 死人のような番兵をも染めあげる主の贖いの血潮。それは罪を犯し、この世の陰府に落ちている私たちをも覆い包む、主の救いを現すと思う。主の愛は、そこまで私たちを追ってくる。主はそれほどまでに私たちを愛して下さっている。十字架で血を流され、陰府にまで身を落とされても、私たちを愛して下さる。主はそうやって、パウロに先んじて、「ご自身の持ち物を使い、御自身をも使い果たして」下さった。にもかかわらず、と主は言われている。もし、なお「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなる、ということであるなら…」、そう主イエスは今朝の御言葉によって、私たちに迫っておられる。「そんな辛い、悲しいことは、もう止めにしよう、もうおしまいにしよう、この私の愛があなた達のために陰府にまで下った愛が、もし少しでも分かるなら、今度こそ悔い改めて欲しい。主はこの物わかりの悪い、愚かな私たちに取りすがるようにして、訴えておられるのではないでしょうか。


 祈りましょう。  主イエスキリストの父なる神様、この後、主の食卓にあずかろうとしています。陰府に身を横たえている私たちの所にまで流れ下る主の贖い血潮を、今心からの悔い改めと感謝をもって受ける者とならせて下さい。

 (この後、讃美歌21ー四三「とびらの外に」を悔い改めつつ皆で歌った。)------





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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