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2000年 4月 2日 「山を下りるキリスト」

2000年 4月 2日 「山を下りるキリスト」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 9:37~38)

 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。」(ルカによる福音書 9:37~38)

 私たちはこの前、ルカ9:28~36に記される「山上の変容」と呼ばれる物語を読みました。山の上で主イエスのお姿が変わる。服が真っ白に輝き、顔もまた栄光に輝き光を放つ。見方によれば、二〇〇〇年前の当時、ユダヤにいくらでもいた巡回伝道者の一人にすぎないと思われたイエスであります。従って、その服も体も砂埃で汚れていたはずのイエス。その人が、そのお方こそ、実は神の子(神ご自身)、キリスト(救い主)であることが鮮やかに示される出来事でありました。

 その事実を見た時、一緒に山にいた弟子ペトロは、33節で、その「山の上」に仮小屋を建てましょう、と提案しています。注解書によりますと、この「小屋」とは聖所の意味をもち、礼拝の場を意味しているそうです。従ってペトロのこの提案は、神の姿になられた栄光の主・イエスにこの山の上に止まって頂き、下界の人々はその山の上に登ってまいりまして、そこでキリストを礼拝する、そのような聖所を建てよう、そういう提案だったと思われます。

 このご変容の山とはどこかということですが、マルコ福音書では、そこを「高い山」と呼んでいます。そうであれば、フィリポ・カイサリアの北にあるイスラエル最高峰、二八一四mのヘルモン山であったかもしれません。ヘルモンの頂は、冬、雪で真っ白となり、主の純白に輝く衣を連想させるのです。もう一つの伝承では、ナザレ近くの高さ五八八mのタボル山であると言われています。いずれにせよ、ペトロが夢想しましたことは、その山上の聖所に主イエスに住んで頂き、その輝く神の子のおられる頂き目指して、巡礼者たちが登ってくる。私が今回参加しました、シナイ、イスラエル旅行においても、私たちはモーセが十戒を与えられたと言われるシナイ山に登りましたが、全世界から集まった巡礼者たちのおびただしさに驚愕したのです。タボル山も同じです。ケーブルカーに乗るには、何時間も待たなければと言われて私たちは引き返してきました。勿論、どの山の頂上にもペトロが提案したことと似て、立派な修道院や教会が建てられています。

 しかし、主イエスはペトロがそこに聖所を建てることをお許しにならなかった。翌日にはもう山から下りてこられたと、今朝読みました9:37には記されています。どうしてか。主ご自身は高い所に鎮座ましまし、人間たちが高い所に登ってくることを求めてはおられないということではないでしょうか。そうであれば、御子イエスがクリスマスの夜、最も低い場所、飼い葉桶にお生まれになる必要はなかったし、また、この後、山を下りた後、さらに転げ落ちるようにして、十字架の低みにまで下られる必要はなかったのであります。

 私たちのシナイ山登山も、一行の中で、二人は登りませんでした。一人は最初から諦めていて、もう一人は、どうしても行きたかったのに、その時既に脱水症状となっており、登る体力が失われていたからです。そして半分以上のメンバーが、らくだを雇ってようやく登ったという状態でした。つまり、高い所に聖所があるなら、そこまで登らなければならないのなら、体力気力のある者だけが、神とまみえることができるということになる。それこそシナイ山で示された十戒から始まった律法でありまして、それを守る力ある者だけが、神に救って頂けるということになり、それは主イエスが私たちに与えて下さった福音とは異なる教えでありましょう。

 主イエスは山を下りられる。さらに十字架の低みにまで下って行かれる。その服は、砂埃にまみれ、さらにはローマの兵隊に引き裂かれ、最後はその服すら剥ぎ取られ、裸にされて十字架にかけられました。そこにはあの山上で見えた神々しい姿は微塵もありません。しかし、だからこそ、この山の上で、神様は、主イエスを一度、白く輝かせられたと思う。低く下られたイエスだからこそ、輝けるキリスト・救い主になるのだ、十字架のイエスだからこそ、復活のキリストとなられるのだ。そうご変容の山で、弟子たちは神様から予め教えて頂いているのであります。

 主イエスは山から下られる。それは私たち、低い所で生きる者の苦しみのただ中に来て下さるということであります。先ほど、ご一緒に交読詩編42編を交わしました。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く」(42:2~3)。「涸れた谷」とは、砂漠にある大地の傷のような「ワディ」(水無し川)であります。喘ぎつつ水を求める鹿のように、一人の男が大声を上げました。38「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません」。「一人息子」と記されている。父親にとって、この息子はかけがえのない宝だったという意味です。どんなに可愛がって育てたことであろうか。ところが、この息子が、おかしくなる。39「悪霊が取りつく」と書いてあります。症状から現代の病名を推測することは可能かもしれない。しかし、ここで悪霊と言われているのは、父親にとりまして、一人息子が奪われたという意識であります。自分のものであった息子、「お父さん、お父さん」と、どこにでも喜んでついてきた息子が、何者かに奪われてしまう。声が嗄れるほど呼んでも叫んでもあらぬ方向に走って行ってしまう。どんなに悲しかったかと思う。取り戻そうと、あらゆる手段を尽くす。でも帰って来ない。それは単に病気ということだけでなくて、子が狂気に陥っている姿かもしれません。それは、ただ父親だけが苦しんでいるのでもない。実は、その好き勝手をやっているように見える、子ども自身もひどく苦しんでいる。何とか、そこから出たい、父のもとに戻りたいと思いながら、まるで自分がもはや自分でなくなったように自由が利かない。それもまた、私たちの周りの家庭で幾らでも起きていることではないか。

 それを見ている父親の方も一緒におかしくなってくる。鬱的になってくる。子だけと言うのではありません。父子とも何かに捕らえられてしまう。家族とはそういうものです。相互的です。家族とは一人だけが病むのではなくて、皆が病んでしまうようなところがある。そこで、家族は涸れた谷の底にはいつくばり渇ききってしまう。

 そんな時、イエスの弟子たちに出会う。「イエス様はどこにおられますか。」「今、山に行っておられる。」「それなら、弟子であるあなたが子を癒して下さい。」お弟子たちは悪霊追放を試みる、しかしそれができなかった。途方に暮れていた。そこに主イエスが山から下りてこられたのであります。そして「イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった」(9:42)のであります。ここに「荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる」(イザヤ35:6)との奇跡が起きたのであります。

 しかしそれを見ていたお弟子たちは、本当に自分がふがいなかったと思う。どうして、こういう喜びを私たちは悩む人に与えられないのだろう。何が悪いのか。修行や勉強が不足したのか。この弟子たちの姿に、病む社会に対する現代の教会の無力が言い表されているように思う。どうしてそんなに無力になってしまったのか。主イエスは言われました。それは修行不足でも勉強不足でもなく、その理由はただ一つ、41「信仰がない」からだと言われるのです。弟子たちにも、子と一緒に鬱状態に陥ったと思われる父親にも、勿論、悪霊に捕らえられた子自身にも、主にとって我慢ならないほど、信仰が見られないのであります。そのことを、主は「よこしまな時代」(9:41)と表現されました。

 私は昨日、キリスト者であり医者の赤星進先生の書かれました『心の病気と福音』という本を読みました。そこにどうして、時に教会が、心の病気に対して無力なのか、その理由が書いてあったのを思い出したからです。

 一つの事例から紹介したいと思います。そのキリスト者の女性は、子どものことでどうすることもできない試練に遭いました。最初の内は、キリスト者として誠心誠意努力することによって、その試練に打ち勝ってゆこうと決意します。祈り、聖書を読み、教会で教えられながら、涙ぐましい悲愴な努力をなす。しかしやがて耐えきれなくなる。その問題ばかり考えている内に、夜も眠れなくなり、非常に悲しい、寂しい、空しい思いにさいなまれ、死んでしまいたくなる。実際自殺しようとしたこともあった。そういう中で、刀折れ、矢尽きるという形で、その人の自我が挫折し、鬱病を発病する。

 そして入院しました。医師との対話の中で彼女はこう告白しました。

 「私は小さい頃からお母さんのいい子であり、誰からもいい子だと言われてきました。そして信仰をもつようになってからも、神様のいい子でありたい。神様に喜ばれる素晴らしいクリスチャンんでありたいと願って生きてきました。勿論、自分のいい子である業によって救われるのではなくて、信仰によって救われるのだということは分かっているつもりでした。しかし、この病気の試練を通して分かったことは、自分がいい子であるという思いと、その生き方の中に私自身の根本的な傲慢の罪があったということです。」

 そして赤星先生は言うのです。「自分は神様のいい子だ」、それは「自我の業としての信仰」と呼ぶのです。これは言い換えるなら「自分の持ち物としての信仰」ということでありましょう。それは自分の宗教的感動とか、霊的体験とか、聖書、神学に対する知識とか、それがどんなに高度なものであっても、それが自分の手持ちのものであるかぎり、限界をもつということであります。その女性の場合、自分が神様のいい子だという自我がありまして、そのプライドによって人生を支えていたのですが、それが鬱病によって崩された時、もう立つ瀬がなくなってしまう。そこでもっと熱心になれ、信仰を強めよ、そう要求した時、その人は破綻してしまうであろう。手持ちの信仰は使い果たされているが故に、それを実行することはできないからであります。教会が癒す力を持たない、時にもっと病人を悪くしてしまう理由はそういうところにある、と赤星先生は書く。そしてそれは主イエスが教えて下さった福音ではないと、言うのです。

 そこで先生が取り上げるのが、宗教改革者ルターの言葉であります。「人は信仰という一つの思想すら自分で作り出して、それが正しい信仰だと思う。しかし、真の信仰とはそうではない。」そしてルターは言うのです。「信仰とは私たちの中における神の業である」。「自我の業としての信仰」ではなく「神の業としての信仰」と。それは赤子が母親に対してどこまでも信頼するのに似た、神に対する信頼である。自我をもたない中で、ただ一方的に母親の愛を受け、その中で憩う赤子の如き信仰。それが真の信仰である。そういいながら、赤星先生は「福音の客観性」とも書いています。これは「神がおられる」ということと関係がある。詩編42編にも「わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/『お前の神はどこにいる』と」あります。確かに、主観的には、神をもはや見ることはできない。そのどん底の中で、しかし客観的には、神はおられる、という信仰であります。「私が信じていようと、信じていまいと、客観的に憐れみの神は存在しており、私の傍らにいて下さる、その事実は変わらない。客観的に変わらない。」ここが信仰の急所であります。自我としての信仰とは、主観的な信仰と言い換えてもよいでありましょう。しかし、主観的に、悲劇の中で、あるいは鬱による精神力の限界によって、もはや強く信じることができなくなった時、その自我としての信仰は、その人を少しも支えないのであります。その時、「もう信じることはできない」、それで、その人の信仰生活は終わってしまうのです。そうではなくて、私たちがどうあれ、私たちがどんなに弱くなろうとも、神の愛は少しも変わってはいない。低い所にはいつくばっている私の所に主イエスは下りてきて下さる。キリスト者としての誇りも知識も宗教的高揚感も、一切失われている私の傍らに、主イエスはいて下さる。まるで悪霊に支配されているように感じられても、実はそうではない。それは主観的判断であって、客観的には、私は神のもの。神の支配の元にある。神の憐れみに捕らえられている。主イエスはその事実を突き付けることによって、42悪霊を叱り追い払われたのであります。これがルターが再発見した福音なのだ。これを教会は語る、その時、人はキリストと出会い癒されるだろうと、ここに病院ではできない、教会しかできない役割があると、赤星医師は言うのであります。本当にそうだと思いました。

 もっと神のいい子になって、高みに登ることによって、救われるという聖所を、主イエスは山頂に作られませんでした。「もう登らなくてもいい。疲れ果てたら、登らなくていい。私が下りて行くから。」詩編詩人はだから「神を待ち望め」(42:6)と歌いました。神の方が来て下さるのです。主は、そして低い所「涸れた谷」にまで下りてきて下さり、そして十字架の上で「渇く」(ヨハネ19:28)と言われ、私たちの魂の渇きを担い癒して下さったのであります。ルターはそこで「行いではない、信仰のみによって」と語りました。それは主が山から下りて下さったところから始まった信仰の世界であります。これを知る時、私たちは慰めを受け、病もまた癒しへと向かうでありましょう。


 祈りましょう。  父なる神様。私たちが信仰を自分で作り出すのではなく、あなたが、客観的な信仰を日々、与えて下さいますように。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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