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1999年11月27日 「マリアの賛歌」

1999年11月27日 「マリアの賛歌」

ルカによる福音書1:39~56

説教者 山本 裕司 牧師

「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」(ルカ1:47~48)


 2000年前のユダヤの実在した、御子の母となるマリアは、どんな少女だったのだろう。美しかったに違いない。私は先ずそう思いました。その瞳は明るくキラキラと輝いていたに違いない。同じ受胎の恵みを受けた老女エリザベトを訪ねて、山を越え、走るマリアの足もまた、美しかったに違いない。イザヤが見た「行き巡る人」に似て。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(イザヤ52:7)。
 しかし、言うまでもない、それはマリアが、いわゆる美少女であった、そんなことではありません。彼女の魂に宿る信仰が外にほとばしり出て、彼女を美しく輝かせたのではないかと思う。
 「マリア」という名、これは「高められた者」と注解されます。あるいは「ふとった女」という意味で、「すなわち、美女」の意味であるとも説明されます。娘が生まれると、両親はこの子が高くされ、健康に肥えた美女となって欲しい、そう願ってマリアと名付ける。新約聖書の中にも、母マリアの外に何人ものマリアが登場しますが、それはこの名が女らしい良い名であり、それだけにありふれた名であったことの表れです。ところが、この平凡な名を持つ平凡な少女が、非凡にも名の意味が現実のこととなっていき、後の教会の歴史の中でこの上なく崇められていく。女性美の極地、母性の理想像となり、神のように祭られ、祈願される存在にまで高められていく。その絵画や彫像は、その芸術家の生きていた時代、その地方、最高の美女をモデルとして描かれるようになったのです。
 宗教改革は、そのような誤ったマリア崇拝を押しとどめる役割も担いました。改革者ルターは改革運動の最中、命の危険と多忙によって何度も中断させられながら、『マグニフィカート』という美しい本を書き上げました。そこで「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」(ルカ1:48)との賛歌を解説し、彼はマリアの気持ちとなってこう語ります。
 「神は、富める名のある、貴い、力ある女王や、王侯貴族の娘を見いだすこともできたにもかかわらず、貧しく卑しい、見栄えのしない娘を顧みて下さいました。しかも神は、この国の上流の、ハンナやカヤパの娘を見出すことがおできになられたのに、神は純粋な恵みの目を、私に注ぎ、卑しい軽蔑された娘をこのために用いて下さるのです。それは何人も、神の前に、あたかも価値あるもののごとく誇らないためです。また私が、全く、私の功績や値打ちのためではなく、ただ神の純粋な恩恵であり恵みであることを知るためなのです。」
 当時のカトリック教会で起こっていたことは、聖書から逸脱した、功績主義でありました。従って、聖母マリアの選びもまた彼女の生まれながらの価値「美と偉大さ」にあると主張されたのです。ルターは、「違う」と言うのです。人間の選びは「ただ神の純粋な恩恵によって」と、宗教改革のテーマ曲が、この「マリアの賛歌」にのって聞こえてくるのだと言うのです。
 マリアは、自分の名の通り「高め、ふとらせ」ることを求めてマグニフィカートを歌ったのではありません。話は逆です。「わたしの魂は主をあがめ」(1:47)、この「あがめる」という言葉は、元の言葉では、「大きくする」という意味です。神を大きくする、と歌い出される。先に申した言葉で言えば、神様にふとって頂く。ふとって美しくなって頂きたい!そういう賛歌なのです。
 ある牧師は、ここでこう説教しています。「神様を大きくする。何より大きくすることだろうか。勿論、先ず第一に、自分より大きくすることであります。私たちの信仰は、実にしばしば、自分のほうが、神様よりも大きいと思っていることがあります。」
 私たちは、洗礼を受ける時、皆神様と約束します。「主の日の礼拝を守ることを約束します」と。ところが、自分の気分が変わるのです。事情が変わるのです。そうしたらもう来なくていいと思っている。それでは自分の気持ちは「大きく」、神様との契約は「小さく」見積もっているのことになってしまうのではないでしょうか。マリアにとって、神が大きいとは、神が主人であるということです。自分は「主のはしため」(1:48)であるということです。それが故に、「剣で心を刺し貫かれ」(ルカ2:35)るほど困難な、御子の母としての選びを受け入ることができたのです。しかし、そこで、彼女は顔ひきつらせ、歪めていたのではない。そうではなくて、彼女はそこでこそ美しくなるのです。どんな美貌よりも美しく輝くのです。そこに信仰の秘密がある。

 パンの会で、イタリアのフェリーニ監督の作品「カビリアの夜」が上映されました。これは無垢な魂をもった、しかし娼婦を職とするカビリアという名の女の遍歴を描いたものです。彼女は人がいい。だから男に何度も騙される。それでも人を信じて疑うことを知りません。彼女は教養もない、粗野な女です。背も低くて美しい女とは決して言えない。しかし、彼女は一瞬、とても美しく見える、それは男を愛する時です。男を信じる時です。カビリアは、純に一人の男を愛し仕えることを知っている。監督がそう演出しているのでしょう。その瞬間、はっとするほど美しくなる。
 物語の最後になって、一人のハンサムな青年が彼女の前に現れる。自分は孤独な男だ。あなたの純情に、どうしようもなく引かれる。どうか会って下さい。彼の積極さに負けて会ってみると、あなたと結婚がしたい。そんなばかな。私は娼婦なのよ。かまわない。あなたが好きなんだ、そう言う。カビリアは、とうとう私も結婚できると、歓喜の声をあげます。自分の財産を全て金にかえて、彼とハネムーンに出る。ところが、そうなった時から彼の様子がおかしい。誘われるまま夕日に照らされる湖を見下ろす高台に立つと、彼は恐い目をして睨む。カビリアは怯える。やっぱり、突き落とそうとしているのです。カビリアは「ああこんな人生、最低の人生、私を殺して頂戴、お金を持っていく前に殺して」と叫ぶ。しかし男は金だけ奪うと、苦悶の表情を残して逃げて行った。カビリアは暗くなった林の中を、さっき恋人と楽しげに歩いた道を、今度は独り戻っていく。もう死のうと思っている。ところが、そこを歩いていると、学生たちのお祭り騒ぎが追いついてくる。陽気にギターがかきならされる。いつのまにか、その行進にカビリアは取り囲まれてしまう。そして一人の女子学生が近づいてきて優しく、「こんばんは」と挨拶するのです。するとカビリアのうなだれた顔が上がってくる。そして「こんばんは」と返事した時は、もう笑顔を取り戻している。まだ涙の後は残っているけれど、彼女は明るい顔して、楽団に取り囲まれるようにしながら、帰っていく。それでこの映画は終わるのです。
 フェリーニは何が言いたいのか。それは、カビリア、あなたは「高く上げ」(ルカ1:52)られる、という励まだったと思う。カビリアは闇の人。警察官に追い回されるような日常。そして彼女が男に棄てられた時、日は暮れました。暗いのです。しかし、その闇のただ中に、学生の楽団が飛び込んでくる。若さと明るさが介入する。そこに光が差し始めるのであります。何故そんなことができるのか。神がいるからだと、この世界は神が来て下さる舞台、神が「目を留めてくださる」(1:48)舞台、だから私たちも、顔を上げることができる。笑うことができる。醜いままで終わらない。信じれば、愛を信じる者は、美しくなる。
 一方、男の側はどうか。結婚詐欺の男はその目的を完璧に遂げる。ところが女を棄てる段、フェリーニは男にこの上なき苦悶の表情を与えるのです。何もかもうまくやった。しかし男は笑えない。ハンサムだった顔は、最後に罪の故、激しく歪み醜くなって終わる。それは、カビリアの最後の明るい笑顔と鮮やかなコントラストを示していると思う。信じる世界に生きることをせず、自分を大きくする世界を生き、そして成功する。しかし、それは地獄なのだ。闇なのだ。そこに、大逆転・革命が起こっている、そう映画は訴えているのではないでしょうか。
 マリアの歌、これは革命歌とも呼ばれます。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません」(1:51~54)。
 この御言葉で、バルトはこう説教します。「人は自分が上り詰め、その最後に、自分のなりたいと思っていた者になった。自分を大きくなした。神なしで大きくなった。しかし、それは転落に他ならない。もし私たちの計画が、神なしに成功し、目標が達せられるなら、それこそ最も恐ろしい地獄である。」
 神を大きくする時、私たちは小さくなって、消えてしまうのではない。主にあって大きくなるのです。美しくなるのです。何と幸いなことかと思う。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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