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1999年10月24日 「聞けよ、主の物語を!」

1999年 「聞けよ、主の物語を!」(10月24日、主日礼拝説教)

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 1:3)

 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。(ルカニよる福音書 1:3

 長い「聖霊降臨節」が終わり、今、私たちは「降誕前」の季節を迎えました。この季節、私たちは御子をお迎えする心の備えをなしつつ、秋から冬にかけての主日礼拝を深い期待をもちつつ重ねていきたいと願うのです。

 この季節、御子誕生の物語を目指すために、最初に戻って読み始めた「ルカによる福音書」の冒頭の表題には「献呈の言葉」と記されています。ルカがその著書を献呈した「テオフィロさま」がどんな人であるのか、よく分かりません。ルカの属している教会に親近感をもつ、ローマ帝国の有力者だったのではないかと推測されることが多いようです。

 どんなささやかな本であっても、出版するためには、それなりの努力が必要です。しかしルカたちの企てたのは「福音書」であります。「生命の書」の出版が計画されたのです。人類の望みが全てここにかかってくる、そのような本を作ろうとしたのであります。そのために、ルカは「すべての事を初めから詳しく調べています」と書いていますが、このルカの時代は、主イエスが天に帰られてから、すでに約四〇年の歳月が過ぎていました。数十年前のことであっても、歴史の調査研究、資料収集のためには、多くの時間とお金がかかるものです。

 ルカが属する教会と共に、自分たちの福音書を編纂した時も、おそらく高額の研究費と写本作成費が必要となったことでしょう。まだ若い教会にそれだけの資金があっただろうか。だから有力者テオフィロは、出版のための出資者となったローマの資産家ではないかという推測もなされています。本のパトロンに本を献呈するという習慣が当時はありました。もしそうだとしたら、このテオフィロは、何と素晴らしい献金をしたことでありましょう。「献金」をすることによって、福音書を「献呈」される。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(マタイ19:29)と主が約束されたとおり。

 私たちも本を出版することがあります。教会史や、説教集、証集を教会で出版することがあります。そのような本が出版されるに当たり協力を求められる。献金の要請があったり、また、資料提供を求められる。一所懸命協力します。そして、ついに出版されて、贈呈本が送られてきて、その本を開くと、とても良い本になっている。そして「後書き」の中に、感謝を込めて、協力者として自分の名前が記されている、それがどんなに小さな活字であっても、それを見るのは、喜びであろうかと思う。

 このテオフィロの場合、推測通りとすれば、彼の献金によって、教会の宝、全人類の宝である、ルカ福音書が生み出されたのです。その福音書の冒頭に自分の名が刻み込まれたのです。テオフィロは、どんなに嬉しかったでしょう。その本に対する高い評価、多くの賛辞がルカと教会のもとに寄せられてくる。現在でもそうです。ある人は、この福音書を「かつて書かれた文書の中で、最も美しい書」と称えている。本屋に行ってご覧なさい。次々に現れては消えていく短命の本の洪水の中で、この福音書は、永遠に失われることなき輝ける書物となったのです。テオフィロは、写本を手にとって読み始め、そのことに気づいた瞬間、「ああ、自分は、あの時、献金してよかった!」、そう思ったのではないか。「今、分かった。自分は何のために生まれてきたのか。自分が何故金持ちに生まれついたのか。献金をするために、この本出版のための献げものをするために、生まれてきたのだ!」、そう死ぬ間際に、福音書を高々と掲げながら叫んだかもしれない。献げものとは、そういう、永遠の値打ちをもつものを生み出す力だということが、この「献呈の言葉」には込められているのではない
でしょうか。

 教会の生み出す良き書物のために、教会の計画のために、献身し、宝を献げる、それがどれほど、素晴らしい結果をもたらすか。名を残すのです。自分の名を残すのです。誤解しないで頂きたい。それは、多くの人の激しい欲望であるところの「自己宣伝」の意味ではありません。神に自分を献げる、それは、地上の名誉とか、地上の宝をいくら積んでも比較することもできないような深い恵みを、自分の名に添えるということなのであります。私たちはいくら献げても、自分の名が教会史に記されるかどうかさえ分かりません。しかしそんなことはどうでもいいのであって、私たちの奉仕も献げものも決して空しくされず、神の御心の中にある書物の中に記される。神様に私たちの名は覚えられる、永遠に記憶される、そのことが、この永遠に失われることなき「テオフィロへの献呈の言葉」に暗示されている、そう思うのであります。

 恩師は教えて下さいました。「献金とは、神様の豊かな恵みに対する感謝のしるしです。献金とは、これら豊かな恵みの賜物が、私たちの勝手気ままに用いてよいものではなく、神様の栄光と隣人の喜びのために用いるようにと、神様から預けられた信託財産であることを確認するしるしです。献金とは、預けられた信託財産は、ただ物質だけではなく、生命も能力も時間も身体も一切は神様のものであり、私たちの全存在を神の御心のままに、生きた聖なる供え物として献げる献身のしるしです。」

 お金のことだけのことではありません。生命も能力も時間も身体も、私たちは何に用いるかが、常に問われています。それを自分のために用いず、神様にお返しをする時、私たちは辛いと感ずることがあるかもしれません。しかし、売名行為や、自分勝手なことを書いた本が、一時もてはやされても、あっという間に消えていくように、私たちが、どんなに地上のものを追い求めても、それは結局は何も残らない、浪費で終わるのではないでしょうか。そして、死の間際「空しかった」と呟く他はないとしたら…。永遠に残るのは、神の御名だけです。私たちは、地上の宝や名を、むしろその永遠の神のために捨てることによって、逆に、宝を天に積み、御心の中に自分の名を残すと、ルカ福音書は語ろうとしているのではないでしょうか。

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:24)

 これ以後、ルカ福音書の中に、テオフィロのことは一言もでてきません。だから彼がどんな人か誰にもわからなくなったのです。そして実は、これを書いたルカ自身も、続刊の『使徒言行録』も含めて、自分の名も自分の経験も旅行記も、ただの一言も記してはいないのです。ここで、ルカは、『讃美歌21』四〇三番で歌われているように、「聞けよ、愛と真理の主の物語を」と、ただひたすら集中して、主の「物語を書き連ね」(1:2)、読者に、「それだけを聞くように」と求めるのです。

 水曜夜の祈祷会の折、信徒の立証があります。私は、その立証を聞いていてとても感動することが多いのですが、しかし一方、ああ、何故、この人はもっと率直に聖書の話をしないのだろう、そう残念に思うこともあるのです。最初御自分で選んできた聖書の言葉を読みますが、その聖書の言葉なんかどっかいっちゃって、最近、どこかに旅して見聞を深めた話になってしまう。自分の経験談や、何かの解説を始める。立証とは何でしょうか。恩師は教えて下さいました。「証とは、自分を証することではない。神様を証することだ、主イエスキリストを証することだ」と。ルカはただひたすら主の物語を語りました。しかし、そこで自分を失ってしまったのでは決してありません。主の物語のみを語りながら、ここで主と出会い救われているのは、私のことでもある、そうルカは涙を流しながら書いたのではないか。この迷える羊は私のことであり、この放蕩息子とは私のことである、と。私もまたこうして主と出会い救われたのだ、そういう「証」を込めて、この福音書の物語を綴ったから、これほどの人の心を揺り動かす福音書となったのではないでしょうか。

 確かに自分のことを抜きに、聖書の話をするならば、それは無味乾燥な「注解」になってしまうことでしょう。しかし、立証は、あくまで自分を語ることが目的ではありません。神のこと、聖書のことを集中して語ろうとする時、それが自ずから自分の救いの体験と結びついていき、神に感謝せずにおれない、それを証するのです。ひたすら御名を崇めようとする中で、自分の名が消えてしまうどころか、驚くべきことに、その福音の物語の中に、自分の貧しい名が、永遠に組み込まれてしまう。テオフィロのように。その奇跡を証すればいい。自分を捨て、神に献げてしまうことは、何と素晴らしいことか。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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