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1999年 月 日 「私たちの宴が始まる」

1999年 「私たちの宴が始まる」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 5:33~39)

 礼拝堂には、何処にありましても、テーブル、食卓が置かれています。片隅に置かれるのではない。今私たちが目にしておりますように、食卓は会堂の中心に置かれまして、この礼拝が主の食卓を中心に成り立つものであるということを、表しております。何故礼拝堂に食卓があるのか。それは、主イエスがこの地上で食事を多くの人たちとして下さったからであります。

 今朝の御言葉の直前に、徴税人レビの物語があります。のけ者にされ、誰も一緒に食事してくれなかった孤独なレビが、しかし主イエスに招かれまして、共に食卓につく。その記憶です。その徴税人や罪人達の歓喜の記憶が川のように滔々と流れてまいりまして、私たちの会堂にも食卓が置かれた。そして私たちがここで味わうのは、主が孤独であった私たちと、あの二千年前と同じように、「聖餐」という名の宴を開いて下さる。そこで、私たちの寂しさも溶け去っていく。悲しみが消えていく経験をすることができるという事実なのであります。

 今朝の御言葉、ルカ5:33以下は、その宴会での物語です。今さっき弟子とされたレビも含めて主イエスとお弟子達が食事をしている。その時、ある人々から問われるのです。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」(ルカ5:33)。何故断食をしないのか。私たちの教会も断食しない。どうしてか。その理由の聖書的典拠と言ってもよい。それが主イエスの「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」(5:34)という言葉であります。この席を婚礼と、主は譬えられました。今、罪人、徴税人が弟子となって、この婚礼に例えられる宴に来てくれたのではないか、その者たちに、食事も出さない、酒を振る舞うこともしない、それで結婚式が成り立つか、と主は言っておられるのです。

 実は、日本の教会の多くは、ピューリタンの強い影響を受けて明治期に誕生しました。そのため、信仰者になるということは、禁酒を誓うということと一つのことでありました。しかし、それは現在では、話はすっかり変わってしまいました。主イエスは、食べ飲むことを楽しまれたではないか。大酒飲みなどと非難されたくらいだから、相当いける口だったに違いない。これが真に解放された人間の姿なのだ。福音は、このようにわれわれを解放するものだ、そういうことがまことしやかに言われたこともありました。しかし飲食によって、私たちが解放されるわけではありません。飲食の欲望に縛られがちな私たちに向かって主がこう戒められたことを忘れることはできない。「『何を食べようか』、『何を飲もうか』と言って、思い悩むな」(マタイ6:31)。

 ここで、何故、喜びの宴が始まったのか。それは、飲食の喜びによってではありません。そうではなく「罪人を招かれ悔い改めた」(ルカ5:32)からであります。自分の罪を知り、悔い改めること、それ以外に私たちを真の喜びの中に招くものはないのです。しかし、そこでです。そこで、もう一度、断食問答に戻らなくてはなりませんが、罪を知り、悔いるなら、そこに宴が生じるのではなくて、断食が生じるのではないか、という問いがもう一度表れてくると思う。しかし、主イエスが思っておられる「悔い改める」とは、頭を抱え込んで反省することではありません。そうではなくて「悔い改め」の元の意味は「帰ること」であります。神に帰ることであります。いえ、ここで、もっと主イエスが強く言っておられる悔い改めの意味は、主イエスが私たちの花婿となって下さるということであります。34「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。花嫁である私たちが、花婿である主イエスキリストの所に帰る、これが悔い改めることの意味なのです。何故、宴会が開かれたのかよく分かる。結婚式には宴会がなければならないからであります。

 しかし、今、私が申しましたことを、ちょっと不思議に思われた人もいるかもしれません。34節に、花嫁の喜びが書かれてあるわけではありません。婚礼の客のことが記されているのです。しかし、これは新約聖書の複数の箇所において、とても興味深い語り口調がある。それは、たとえば、マタイ福音書25章に主のお語りになられた「十人の乙女」の譬があります。花婿が来るのを、灯火を灯して待ち続ける乙女の物語ですが、この乙女たちのイメージも、この物語の中に浮かび上がってくる姿は、ただ、婚宴に色を添える奉仕者ということではすまない、そう誰でも感じられてくると思う。乙女とは書いてありますが、これは花嫁が花婿を待っている姿と読んだとき、最もよく分かる物語だと思います。あるいは、ヨハネ黙示録19章に、終わりの日に小羊であるキリストと新しいエルサレムとの婚宴の描写があります。それは、信じる者たちの群(教会)が、キリストの花嫁となる婚礼です。しかし、黙示録は、同時にその教会は婚宴の客としても招かれている。そういう幻として描くのです。再臨のキリストと自分たちの婚宴に、自分たちもまた客として招かれている。不思議な話です。筋が通らない話です。しかし、ある人は言いました。「ここに、むしろ信仰者に与えられている二重の光栄を見る」と。

 私は、先週、聖書の中に、まるで宝石のようにちりばめられている、このような花婿であるキリストの宴に迎えられる私たち、信仰者の物語を読みながら、同時に、バッハのカンタータ一四〇番『目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声』を聞きました。この歌は、先ほども取り上げましたが、マタイ25章に記される、灯火を灯す乙女たちの物語から始まる。「目覚めよ、とわれらに物見らの声が呼びかける」「賢い乙女たちよ、君たちはどこにいるか、と。さあ、花婿がやってくる。起きて、ともし火をともしなさい。ハレルヤ、支度を整えなさい。さあ、花婿を出迎えるのだ。」そう歌われて、しかし、この歌は、その直後、あの旧約聖書の恋愛歌と呼んでもよい、雅歌の言葉を用いながら、この乙女たちは、いつのまにか、婚礼奉仕者ではなくて、花嫁そのものになっているのです。

 そして乙女・花嫁の魂は歌う。「いつ来ていただけるのですか。私の救いよ」、すると、イエスが登場致しまして、「私は来る。私は来る。」そして、「さあ扉を開けよう、天の宴の行われる広間の扉を。」そうイエスが宣言して宴会が始まり、爆発するような婚礼の喜びの歌が奏でられる。

 圧倒されるような喜びです。私は、このガーディナー録音の軽やかなバッハを何度も聞いて、思いました。ああ、自分はうかつだった、と。これほどの喜びが、私たちが信仰者として招かれることの意味だったのだ、これが教会の礼拝の喜びなのだ、そのことを忘れていたのではないか。そう悔い改めずにおれないような音楽なのです。その歌の中で、聖書にならって、いつのまにか花嫁もそこに招かれた客も一つの喜びのかたまりになってしまう。花嫁と客の区別はそこでなくなる。共に花婿に招かれたことの喜びの中で手と手を取り合うのです。これが教会なのです。

 ところが、本当に悲しいことです。そうならない、それが、ルカ5:33の出来事であったと思う。この喜びを非難している人たちも主イエスの宴に招かれた客だったと思う。だからここにいたのです。この喜びを共にするべきはずだった、そして、その喜びに参加している内に、いつのまにか、自分自身が花嫁になってしまう、そういう喜びの体験をするべき人たちだった。しかし、彼らの心はレビたちの明るさと対照的に、益々暗くなっていったと言って良い。何たることかと思う。しかし、これは私たちもまた、どこか身に覚えのある心ではないでしょうか。友達の結婚式に招かれる。幸せそうな二人を見ていると、何かねたましいのです。何とかケチをつけたくなるのです。主イエスキリストは、最後にこの妬みによって殺されたと聖書にははっきり書いてあるのです(マタイ27:18)。ヨハネの弟子たち、ファリサイ派の人々は、断食をなし、禁欲をなし、律法を真剣に遵守して生活してきたのです。その自分たちこそが、神に救われるはずであったところが、悪行の限りを尽くしてきた売国奴徴税人レビが、救われたと大喜びをしている。何の苦行もしないまま、直ぐ宴会を開いたのだ。「こんな馬鹿な話があるか、何故私でなく、あついが」という気持ちです。この妬みは激しい。その妬みは、レビやお弟子たちから、ついには花婿を奪い取る行為となって表れていくのです。35「花婿が奪い取られる時が来る」。

 主イエスはここで、その御自分の十字架を予言しながら、何故、一緒に喜んでくれないのか、そう後ずさりする人々の手を取ってこの喜びの中に招こうとなさっておられる。何故、罪人が悔い改めたことを一緒に喜んでくれないのか、このルカ福音書は、その主の悲しみを、後のルカ15章の放蕩息子の帰還の物語のなかでもう一度語り直します。家出していた放蕩息子が帰ってきて、父は喜びのあまり祝宴を開いた。そこに兄が仕事から帰ってきた。真面目にこつこつ働いていきた兄、禁欲的に無駄使い一つしないで、父に仕えてきた兄、その兄は怒りまくって宴会の席につこうとしないのです。そこで、主イエスの姿を表す父は、こう言うのです。15:32「 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」どうして一緒に喜んでくれないのか。花嫁の喜びと客の喜びが一つになるような、喜びを、どうして共にしてくれないのか。言うまでもありません。この兄の姿に私たちの恐ろしい罪が現れているのです。それが神から離れている人間の仕草なのです。人の喜びを我が喜びとすることはできない。人がしくじる姿を見ることの方がよほど自分を元気づけるというところが、私たちにはある。恐ろしいことです。結婚式とは、時にそういう恐ろしさが表れてくる場所なのです。36「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる」。引き裂かれるのです。新しさと古さが互いを引き裂くのです。

 39「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」、この言葉は、ルカ福音書だけが伝えている主イエスの言葉です。「古いものの方がよい」、これは、当時のことわざであったらしい。つまり、ことわざになるくらい古今東西の人間が共通に使う言葉なのです。「古いものの方がよい」。私たちもよく分かると思います。古い酒です。何十年と慣れ親しんできた酒です。それは口当たりがいいのです。飲みやすいのです。それを選べば、安心していられるのです。それに反して、新しい酒は、受け入れがたいものがあるのです。くせがあるのです。しかし、ここではっきり言わなくてはならないのは、新しい時代が来た時、それに見合う新しい酒を飲まなければ、爆発するような喜び、つまり、未見、未聞の喜びは私たちには決してやってこないということであります。

 『目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声』は最後に爆発するようなコラールの大合唱となります。「どんな目もかつて知らず、どんな耳もかつて聞かぬ、素晴らしい喜び!それを我らはかみしめる、万歳、万歳、とこしえに、甘い喜びのうちに」と叫ぶようにしてその歌は終わる。

 この新しさとは、主イエスが来て下さったということです。主イエスが私たちを花嫁として迎え入れ愛して下さる。どんなに私たちの人数が多くても、主イエスは、まるで、世界中で愛する者はあなたしかいないと思われるように愛して下さる。先週もレビの物語の中で読みました、5:27、この沢山の人々が行き交う路上で、しかし、主イエスが、そこで孤独にうずくまる、徴税人レビだけを、じっと見つめられた。主は、そこで、まるで世界にはレビしかいないかのように見つめられた。そうやって主は私たちを見て下さる。そこで、私たちは、皆幸せなのに、私だけは、いつも客にしか過ぎない、などとは決して言えない。主があなただけしか目に入らないほど、愛して下さっているではないか。そのことを知る時、私たちは、この家の客だと思っていたところが、いつのまにか神の家の花嫁になっている。花嫁の喜びを皆体験することができる。そのために主は来て下さった。私たちのために来て下さった。その時、私たちは暗い顔を棄てるのであります。その明るさのなかで、自分もまた愛されている、自分もまた大切にされている、その喜びの中で、人の喜びをも、また、自分の喜びとすることができるようになるのであります。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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