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1999年 月 日 「健やかな誇り」

1999年 「健やかな誇り」

  説教者 山本裕司
  (ローマの信徒への手紙 15:17)


そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。
(ローマの信徒への手紙 15:17)


 長いローマの信徒への手紙を書き終えるにあたって、使徒パウロが書いたことは自分自身の誇りについてでありました。「…熱心に努めてきました」(15:20)という言葉も「…私は名誉に思っています」と訳せる言葉なのです。彼は自分の誇りと名誉を終わりの挨拶の言葉としたのです。名誉という言葉は、教会の中であまり用いられなくなりました。かつて名誉牧師、名誉長老と呼ばれる人たちがいましたが、これらの称号を贈る習慣はどの教会でも減ってきました。これについてはパウロに随分責任があると思います。彼は人間の名誉欲、誇りというものを問い続けました。ここで用いられる「誇り」と同じ言葉を、彼はこれまでは、こう否定的な意味で用いてきました。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(3:27)。パウロは誇りというものが、どんなに危険極まりない働きをするか知っていました。誇り、それは神を忘れさせてしまうのです。名誉欲、それは信仰を殺してしまうのです。しかしそのことを熟知している彼が、なお最後に自らの誇りについて語らざるを得なかったことを見逃すことはできません。誇りとは大変危険なものでありながら、一方人は誰も、誇りがなければ生きられないからであります。

 先週私はある集会に出席しました。一人の青年が、自分の人生を語りながら、日本社会のあり方を問う集会に参加しました。その内容の詳細について語ることはできません。ただその人は特殊な障がい、一万~三万人に一人という障がいをもっており、自分でも長くそのことを恥じ、受け入れられなかった。誰かがそれを「神様の失敗作」と呼んだそうです。しかしその時青年は顔を上げてはっきり申しました。今はこう思う。「私は神様の失敗作ではない!」と。ここに鮮やかな誇りがあります。名誉回復の訴えがあります。

 「三万人に一人の特殊な障がい」と申しました。しかし、話を聞いている内に私は、この青年の歩みは決して特殊な道ではなくて、よく聞く「自分探し」の話に似ている、そう思いました。確かにその青年の想像もできないような困難な歩みを一般化してはならないと思いながら、一方、これは普遍的に青年が大人になっていく時の物語、アイデンティティ確立の物語に似ている、そうはっと気づいたのであります。   

 若い頃、多くの人が自分で自分を受け入れられない体験をします。社会や大人が自分に求める役割がぴったりこず「本当の自分は誰」と暗中模索する体験は青年期に共通しています。アイデンティティとは「自己同一性」という意味ですが、自分の中に内部分裂が起こる時、アイデンティティは危機的状況に陥るのです。そうなると、周りの友達が皆美しい存在のように見え、それに対して、自分はできそこないなのではないかと悩みます。自分を誇ることができない。そして勉強や仕事が手につかなくなります。自分が醜いつまらないものに思えて仕方がなくなるのです。

 よそから押しつけられた生き方ではなくて、自分が最も自分らしくなる道を探し求めるのは、その夜の青年だけでなく、全ての青年の課題です。その意味で、私たちは、その「特殊」と言われる問題をもっている青年と悩みを分かち合うことができるはずです。その青年は、私たちとまるで異なる問題をもっている人ではななくて、私たちと同じようにただ「本来の自分を探し求めてきただけ」の友だと分かるのであります。

 私はアイデンティティの問題を考える時、ある人から教わったパウロの言葉を思い出します。フィリピの信徒への手紙(3:4以下)です。ここで先ずパウロは、自分のかつての地上の誇りを並べ立てます。人も羨む超エリートだったと言っているのです。しかしそんな誇りは「塵芥だ」と言ってのけた。どうしてか。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(3:8)。そう言って続けます。「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(3:8~9)。まことに印象深い口語訳の言葉ではこうです。「信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」

 ここに青年パウロの「自分探し」の物語があることに私たちは気づくのではないでしょうか。自分を見出すことこそ、私たち全ての者の課題と申しました。自分を見失ってはいけないのです。それは自分の生命には掛け替えのない値打ちがあるということを知るということであります。それは、家柄とか、学歴とか、地位とか、そういう地上の「誇り」にどんなに取り囲まれていても、実は真の自分の値打ちなんて少しも分からないとパウロは言っているのです。「キリストの内にいる自分こそ真の自分なのだ」。ここに私はいる。本来の自然な私がここにいる。キリストの中に。この自分こそ、掛け替えのない存在である。そう自分発見の喜び、自分の値打ち発見の歓喜の叫びをパウロはあげているのです。その夜の青年のように。

 かくしてアイデンティティが確立した時、人は初めて「やる気」がでるのです。自分のタラントンを何に使ってよいか初めて分かるのです。自分にしかできないことであります。神様が唯一無二の私だけに与えられた使命を知るのです。

 「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです」(ローマ15:19~20)。

 誰も代わることのできない人生、それが故にこの上ない生き甲斐に充ちており、自分を生き生きとさせる人生、それがパウロの唯一の誇りとなりました。名誉となりました。神様の失敗作だなんて、とんでもないことだと思う。それどころじゃない。「他人の築いた土台の上に建てたりしない」、私にしかできない福音伝道の仕事がある。そのために私は生まれてきたのだ。ここに健やかな誇りをもった、明るい人生がついに開けるのであります。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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