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1999年 月 日 「倒れない家」

1999年 「倒れない家」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 6:47~48)

わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 (ルカによる福音書 6:47~48)

 私たちプロテスタント教会にまいりますと、よく聞く言葉は、行いではない、信仰のみによって、救われる、という言葉であります。これは宗教改革者ルターによって語られた、救いの理解であります。私たちが立派な人間になったから、神様に受け入れて戴けるというのではなくて、駄目でもいい、イエスを主、神の子、救い主と信じればいい。神の子の十字架によって、私たちのどうしようもない罪が贖われ赦していただけ、私たちもまた神の子とされる。ただ信じればいいのだ。ただイエスを主とお呼びすればいいのだ。私たちはそう、教会で学ぶのです。

 ところが、そう思っていたとろが、今朝の私たちに与えられましたルカ6:46でこう書かれているのです。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」そして49「しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」。ここで、行いが大切なのだ、聞いただけじゃ駄目だ。そうはっきり主イエスが言っておられるのです。

 むろん、ここで、改革者ルターの「行いではない、信仰だ」という言葉を主イエスご自身が否定されていると考える必要は一つもありません。ある牧師は「ここで語られる行いとは、信仰による行いである」と言っています。また、神を信じるということ自体が、一つの大きな行いである、とはっきり言うのです。信仰ぬきの行いが、どれほど、人をねじ曲げてしまうか、どれほど真実を見えなくさせるか、主イエスが繰り返しお語りになられた通りであります。

 大切なのは、信仰による行いなのです。信仰という名の行いなのであります。それはどういうことでしょうか。48「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」

 この御言葉を注解してある人は「先見の明」とぽつりと書いています。「深く掘る」、それは先見の明である。宅地に関して、それは常識でありましょう。家は、ここ一、二年もてばいいというものではない。それと同じように、人生設計に対してもまた、長期的展望は忘れていないと、誰もが答えます。「当たり前だ」と。しかし、そう言いながら、何故か、ニュースを見ていると、大雨のシーズン、毎年流されてしまう家があるのです。それと同じように、生きる希望を失ってしまって、死んでしまう人も夥しくいるのです。最近は働く場所を失った中年男性の自殺が目立つと言われています。不況という洪水に流されてしまったのでしょうか。皆、「分かってる」と言っていた人たちなのではないでしょうか。人生に大雨が降ることは知っていた、だから掘りましたよと、小さい頃から受験に備えて勉強してきました、と。私たちはもっと主張するかもしれない、私たちはキリスト者だと、主よ、主よ、と祈り続けている者です。ちゃんと、人生の土台を掘りました。そう言って洗礼を受けた人たちが、案外もろい。教会に吹く波風一つで、その信仰も失われてしまう、家庭に押し寄せる大水一つで人生に絶望してしまう、どう呼びかけても、もう聞かない、そういうこともあるのです。49「聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」浅い、実に浅い。それは信じていると言っても、実は先の牧師の独特の言葉を借りれば、「信仰と言う名の行い」にまでは至っていない。つまり、深い信仰には至っていない。そのためまことに残念な結果に終わってしまったのではないかと思う。

 深く掘る、信仰を深く掘るとはどういう意味なのか。それはおそらく言い換えるなら、希望という岩盤にしっかりと、柱を据えるということであろうかと思います。それもまた、浅い希望ではなく、深い希望です。それなら、浅い、深いとはどう違うのか。浅い信仰、深い信仰、浅い希望、深い希望、どう違うのか。その深さとは、神にまで至るということではないか。自前の信心、自前の希望ではなく、自分を突き抜けて、深く神にまで至る。主イエスキリストにまで深く食い込む、信仰、希望のことであろうかと思います。そこまで掘って、初めて私たちは堅固な家を建てることができるのです。何故なら、それは自分の力、人間の力によらないからです。神によって支えられる家であり人生だからであります。それが信仰による救いということであります。

 作家の椎名麟三さんが、彼が洗礼を受けた後、いろいろな人にこう聞かれるようになった。「あなたはクリスチャンですっかり救われているわけだから、死ぬことなんか平気でしょうねえ」。しかし椎名さんは言う。「確かに私は神を信じ、復活を信じている。それにもかかわらず、死の恐怖は、否定しようもなく歴然と私の心の中にあるのだ。誰かが私を殺そうとしてピストルを向けでもしたら、私は真っ青になって震え上がるに違いない。ある美しいクリスチャンの娘さんが、肝臓を病んで死ぬとき、本当ににこにこしながら、かえってその死を知って泣いている親たちを慰めながら、天国に行けるのを楽しみにして死んだという美しい話を聞いた。確かにその話は私の心を打ちはしたが、同時にやりきれないいらだたしさも感じたことは事実なのだ。だから私はその美しい話をしてくれた婦人へ、思わずこう答えていた。『私には、とてもそんな真似はできない。むしろ私はできるだけ醜い悲惨な死に方をしてやるつもりですよ。助けてくれと大声で叫び、この世の中だけでなく、神様だって呪いながら死んでやるつもりですよ。』相手の婦人は顔を赤くして笑った。私の言葉が、他人のことながら恥ずかしかったに違いない。

 では、キリスト教の信仰というものが、死の恐怖に対してどんな功徳があるのかということになるだろう。それは、死やそれにともなう恐怖に対する私の態度をかえてくれたのだということができるのだ。死はおそろしい。だが、そのおそろしさの中へ溺れてしまわない根拠が与えられているのだ。死の恐怖の中へ投げ込まれながらも、それからわずかに頭を出して息だけはできるようにしてくれたのだ。私にとって、死の恐怖に襲われている自分を悲哀に充ちた愛の眼で眺めることができるようになったのだ。」そう言うのです。

 椎名さんは、ここで、無理して、何とかキリスト者らしく振る舞わなくっちゃと、気張らなくていいと言うのです。自分は死にたくないと大声で叫んで死ぬかもしれない、しかしいわば、安心して怯え、安心して叫ぶことができる、そう言っているのです。何故か、甦りの主が、そのような弱い、小さな私たちを、ただ信仰の故に、行いではなく、ただ信仰のみによって、捕らえて下さり、受け入れて下さり、永遠の命へと導いて下さるのだから。

 主はここで「家」を譬えられました。私たちの家庭もまた、キリスト者の家庭でありながら、様々な問題が起ってまいります。揺れ動くのです。私たちの誰一人、明日、あさって思いがけない不幸のどん底に陥らないともかぎらない。信仰をもっていても大水はくるのです。そして、大水が溢れたとき、私たちは等しく、揺れ動くのです。そこで良い証をたてなくっちゃと、無理して平静を装う必要もない。泣いていいではないか。耐えられないと叫んでいい。苦しいと呻いていい。しかし、それでも、その家は流れていきません。私たちをうち倒すような、大水にあっても、その家は流れていきません。何故なら、その土台が、私たちではない、主イエスキリストに根ざしているからであります。私たちがどんなに揺れ動いても、キリストという土台は動かないからです。嵐の舟の中で、慌てふためく弟子たちの中で、主イエスだけは、艫の方で枕して眠っておられたように。ある牧師が、書いています。「主イエスキリストがここで語られる家とは、我々が叫んだって、泣いたって崩れない家だ」と。

 神がおられるではないですか。深い信仰、深く掘った信仰とは、もう駄目だと思う瞬間、その時こそ、私たちを支えるのです。私たちの家は流れない。親である私たちが、夫である私たちが、どれほどだらしがなくても、流れない。主イエスキリストがそこにおられるからであります。それを信じることが、行いではない、信仰のみによってということであります。そして、それを本当に知った者は、どうしようもないと思われる逆境の最中、苦しいと呻きながら、もしかしたらニヤっと、どこかで笑ってしまうかもしれない。もう駄目だと言うから、その顔をのぞき込むと、その眼は少しも怯えていない、そんな顔をすることが最期にだってできるかもしれない。「深く掘る」時、私たちは何という大きな恵みを頂戴することか!


 祈りましょう。  あなたが私たちを恵みをもって支えて下さることを、心より感謝致します。あなたと離れて築くどんな麗しきものも実は空しく、あなたを土台に据えるものはいかに粗末であっても、試みに耐える堅固なものになることを知らされ、重ねて感謝致します。その思いをもって、自らの人生を立て、家庭を築き、子供を育て、またこの教会を建てていくことができますように、御霊の力をもって導いて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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