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1999年 月 日 「イエスを愛した女」

1999年 「イエスを愛した女」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 7:36~50)

 その日、巡回してこられた主イエスを食事に招待したのは、ファリサイ派シモンでした。しかし、この物語において、シモンは、主の説教に心酔し、深い尊敬をもって食事に招いたというのとは少し違うような気がする。44節以下の主の御指摘にあるように、この人は何故か、最低の礼儀である、足洗いの水をイエスに出さなかったのです。日本人であれば、今の季節、客に先ず冷えた麦茶を差し出すということでしょうか。イスラエルにおいて、それくらい当たり前のこととして、食事を招待した客に足洗いの水を用意する礼儀があった。道路が今のように舗装されているわけではありません。ほこりっぽかったり、泥だらけだったと思う。履物はみな、サンダルでした。熱した石ころだらけの道を長く歩いた後、ようやく足をさっぱりと洗えた時、どんなに気持ちがよかったか、私たちにも想像がつくと思う。しかし、それをシモンは怠ったのです。自分の方が年上で地位もあり、名もなき巡回伝道者に対す優越感に満たされ「一宿一飯の恩義」を感じるのは、お前の方だと、口には出しません。しかし、どこかそう感じていたために、洗い盥を出すことを失念したのではないでしょうか。「うっかり」というようなことにも、実は「潜在意識のなせる業」ということはいくらでもあると思う。

 そこにあるのは、主イエスを愛さない男の姿です。主イエスの御言葉を足を組んで腕組みして聞いているようなところがある。御言葉は聞いている。それなりに評価したかもしれない。日本人インテリの中でもキリスト教を良く理解している者は多い。彼らは聖書を読んで感心している。しかし、シモンとその顔が似てくるのは、主イエスを愛し拝さないという点でです。ここが急所です。信仰とは、知識ではない、神を愛し拝することであります。

 このシモンという男の姿と鮮やかなコントラストをもって、この物語に現れるのは、一人の女の姿であります。この地方の習慣では、教師が客となって食卓につく場合、誰でも入り口から聞き耳をたて、その口から出る知恵の言葉に耳を傾けることができたそうです。「小犬が主人の食卓から落ちるパン屑は」(マタイ15:27)得ることができるように。その中に「罪深い女」がいました。この食事会の初めの頃、イエス様がどんな話をなさったのかは分かりません。ある作家(ゴードン・トーマス『イエスを愛した女』)は、この時、イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(ルカ5:31~32)とお語りになったと物語りました。救い主は来て下さった。罪人である私の所に来て下さった。「私が来たのは」という主の言葉に、彼女の心は電気が流れたように打ち震えたと、言われています。

 この当時の会食の仕方は、椅子は用いません。左手を支えにして横に寝て、右手で食事をしたのです。主イエスの足は、開け放たれた入り口の方に伸ばされていたと思われます。その足は、女からよく見えたと思う。その足は、汚れたままでした。長い旅を主はしてきましたから、既に細かい傷を負っていたかもしれません。私事で恐縮ですが、私は、夏に旅行しましたが、ずっと水辺におりましたので、サンダルを履いておりました。すると、足は見るのもいやになるほど、汚くなります。いつのまにか、足の裏がぱっくり切れておりまして、旅行中、ずっと足をひきずって歩かねばなりませんでした。主の御足も似ていたのではないでしょうか。しかしその汚れ、傷の意味はまるで違う。女は気づいたと思う。この御足は、私の所に来るために、汚れ、傷ついたのだと。

 今朝の御言葉を、私は何度も読みました時、誰も申しませんが、この物語のキーワードは「足」ではないかと思うようになりました。何度も何度も「足」という言葉が語られます。そして、その物語の核心部分は「足」を巡る対話であります。

 「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ7:37~38)

 女性らしく、主の足が汚れているのが気になってしかたがなかったのかもしれません。しかしそういう思いを越えて、彼女は全身全霊を文字通り献げて、主イエスの御足を清めようとしているのであります。「香油」とは、注解書では、彼女の持ち物の中で最も高価なものだったろうと書かれています。ここで、彼女は、天の高みから、計り知れない距離を超え、そのために足を汚して、来て下さった主に、全てを献げざるを得なかったのであります。

 聖書の中に「足」という言葉は随所に現れています。私たちが直ぐ思い出すのは、「メサイア」でこう歌われるこの言葉でありましょう。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる」(イザヤ52:7)。「良い知らせ」、福音のことです。元々は戦争の勝利を告げる言葉だそうです。喜び勇んで、勝利と解放の言葉を伝えるために、山々を行き巡る伝令の足、その美しさが歌われています。あるいは、あのルカ15章に記される、見失った一匹を捜し回って、やはり山々を巡り歩く牧者の足が想起されます。あるいは、放蕩に身を持ち崩した息子が、我に返って、故郷の父の家に向かう。そのやせ衰えた息子が地平線の向こうに点のような姿を見せた時、父は、走る。「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15:20)。彼方の息子に向かって草原を突っ走る父の足、それもまた思い出される。

 ここで、捨てられて当然のはずであった自分の所にまで、福音を持ち運んだ「御足」に対する深い感謝と愛が、ほとばしり出て、女は、主の御足もとにひれ伏している。そして御足を抱きかかえるようにして「私のための足、私のために汚れた足、私のために傷ついた足、しかしこの上なく美しい私の御足」と、涙と髪と香油で拭い清めたのではないでしょうか。

 ファリサイとは「分け隔てをする者」という意味です。彼らは、実に真面目な人たちでした。真剣に律法を守ろうとしました。そして、救い主・メシアが来た時、正しい人と罪人をちゃんと見極め、分け隔て、自分たちのような正しい者だけを救うと考えていたのです。その考えが、このファリサイ派シモンの「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(7:39)という、みくびる言葉となっている。「この若い教師は、罪人に触れられていることを知らない。義人と罪人を分け隔てる洞察力がない。所詮この程度なのだ」と。

 主イエスはまさに罪を見抜く洞察力で満ちておられました。その洞察力は、周知の事実の女の罪を見抜くことではなくて、自他とも認める義人・ファリサイ派シモンの罪を見抜く力として働く。「シモン、あなたに言いたいことがある。…ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(ルカ7・40~42)。 シモンは答えました。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」。その時主イエスは、女の方を振り向いて、シモンに「この人を見ないか」そう言われたのです。

 「あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:44~47)

 そうであれば、このシモンが、何故、主の御足に水一滴注ごうとしなかったのか、その理由は一つです。感謝しなかったからです。自分には「借金」はないと思った。だから主の足がどんなに汚れていようとも、自分のためにそうなったとは、少しも思わなかった。それは、自分の罪を知らないということ。自分が何者か知らない。その洞察力に欠ける。赦された喜びを知らない。だから主を愛さない。主イエスを愛さない、そこに人間のなす最大の罪がある。

 「痛覚」が大切だと、ある人が書いています。歯が痛い、その痛覚が大切だ。そうすれば、歯医者に救いを求めるだろう。そう言われます。自分で病院に行けないほど、痛かったら、往診をたのむだろう。その医者の近づく足音が、さぞ美しく聞こえるでありましょう。もし真冬なのに、夜中なのに、来てくれて、痛みを取り払ってくれたとしたら、生涯その感謝を忘れることはないでしょう。その感謝は医者に対する愛になってしまうかもしれない。罪も同じです。罪の痛みを知ると、それは病院の門を激しく叩くような意味で、救いの門を激しく叩く行為になる。そして、真冬の夜中、遥かに遠い世界から足を汚して来て下さった魂の医者を、どうしようもなく愛してしまうようになるのです。もう一度言います。急所は愛です。信仰と愛は一つです。愛なき信仰は無です。信仰とは教理を知ることではありません。もっと単純で、具体的なことです。主イエスを愛することであります。教会の牧師を愛することでもありません。牧師への愛と、信仰を混同する者もいます。しかしそれは信仰ではありません。牧師を愛する余裕があるなら、その心もキリストにみな献げてしまわねばなりません。牧師は実は何もしちゃあいないのです。私たちのために、足を汚し命を下さったのは主だけです。主を愛する時礼拝が始まる。そして、礼拝なきところに主への愛もないのです。

 この後、聖餐にあずかります。昔、私たちは、メソジスト教会のならわしに従って、この恵みの座に出て、ひざまずきました。それは、主の御足もとに自らを投げ出して拝した、女の行為に連なる仕草だと言ってよい。主が私たちの所に来て下さった、その主の愛に応えて、私たちもまた全身全霊をもって、全てを献げ、主を愛し拝したい、目に見える姿は立っていても、心は主の足もとにひざまずき「よく来て下さいました」、「ご足労おかけしました」と、その御足に接吻する思いをもって、この聖餐にあずかりたいと願う。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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