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1999年 4月25日 「全地よ、御前に沈黙せよ」

1999年4月25日 「全地よ、御前に沈黙せよ」

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 4:35)

イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。(ルカによる福音書 4:35)

 先ほど讃美歌21―五七番「ガリラヤの風かおる丘で」という美しい歌を歌いました。これは聖地に旅した日本人にとって忘れることのできない歌となるらしいのです。ガリラヤ湖畔や、山上の説教が語られたと言われる丘で、美しいガリラヤ湖を背景にしてこの歌が歌われるのだそうです。今朝私たちに与えられていますルカ福音書は、まさにガリラヤの風かおる町、湖沿いの町カファルナウムの会堂で主イエスが「恵みの言葉」を話されるところから始まる物語です。

 このカファルナウムに旅しますと、その廃虚の中にユダヤの会堂(シナゴーグ)の遺跡を見ることができます。考古学事典や注解書には、その会堂平面図や想像図が丁寧に記され、また長い解説が付されているものです。どうしてそんなに学者たちは、その遺跡に関心を払ったのでしょう。それは、元々、この会堂がルカ4:31以下に登場する会堂のことらしいからなのです。三世紀頃建て直されてはいますが、少なくとも再利用された大理石は、主イエスのこの時の言葉を会堂に響かせた同じ石だと考えられるのです。巡礼者たちは、その主の御声を記憶する大理石に手を触れることができる。キリスト者であれば、誰もがこのガリラヤ湖の傍らに立つ会堂の廃虚に関心を持たずにおれないのです。

 その会堂での主イエスの説教は、人々を「非常に驚かせた」ものであったと、ルカは記す。その会堂の大理石が覚えている、人を非常に驚かす響きとは、どのような声だったのでしょうか。私たちが聖地旅行をして、その大理石に手を触れるとしたら、それは、その主の力ある言葉に少しでもいい「直に触れたい」との思いのなせる業であろうかと思います。実際、そのことを願う心を歌ったのが、先の讃美歌なのであります。

 「ガリラヤの風かおる丘で ひとびとに話された 恵みのことばを わたしにも聞かせてください。」

 私たちもこの西片の会堂で説教を聞きます。しかし、ある時は、退屈して眠ってしまった。ある時は、説教者の一言から連想が連想を生み出し、いつしか自分がどこにいるかも忘れてしまった。そうしている間に今日また礼拝が終わってしまった。「自分はいったいここに何をしに来たのだろう」、などと思いながら帰ることもあるかもしれない。カファルナウムの礼拝は、そのようなものではなかった。そのように、私たちを安楽椅子に招き、眠ったようにする礼拝とは全く対極にある、目をかっと見開かせられ、血液が勢いよく流れ始めるような「驚き」の礼拝がここに出現しているのであります。 

 では、その会堂で、主が語られた人を眠らせない説教とは、どのようなものだったのでしょうか。途中で冗談を言って眠気を払ったのでしょうか。博学を駆使したり、文学者のように例話が巧みであったのでしょうか。現在の説教者が使うそんなテクニックは一つも聖書には記されてはいません。「権威があったからである」(4:32)、それが人を驚かせた唯一の理由であります。36節では、「権威と力」と言い換えられている言葉であります。この「権威ある言葉」について、ある注解者は、ここで記者ルカは天地創造の神の言葉を思い浮かべていると解説しています。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」(創世記1:3)この言葉は「創り出す言葉」であります。一見おもしろいようで、私たちを決して揺り動かすことのない巷の言葉とは異質の、私たちを変革する力であります。

 しかし、私たちは、そのような驚愕させられる言葉を、本当に求めているかというと、これは実は怪しいところがあるのではないでしょうか。四国におりました時、分区信徒修養会があり、何故説教中眠るのかという話になりました。そうしたら、ある教会役員が、自分も説教中よく眠っていたのでしょう。「眠れる説教は良い説教だ」という意味のことを言ったのです。どうしてか、それは安心していられるからだ。「何言うか分からないような説教は眠っておられませんからな」、そんなことを言ったのを覚えているのです。私はその時、この人の信仰もまた眠り込んでいると思いました。真の説教とは実は、私たちをいつも安心させるものではありません。「驚き」であります。特に私たち罪人には。

 カファルナウムの会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男が座っていました。その男もまた、うたた寝からたたき起こされたのかもしれません。そして「大声で叫び」ました。 「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」(4:34)。先の四国の役員の発言は、おそらく、このような悪霊の思いと重なるとすら私は思う。主イエスが語られる。それは、悪霊をたたき起こし、深い不安を呼び起こす言葉であります。それは悪霊を滅ぼす言葉であります。私たちは、聖書に根ざす説教の中で、私たちの罪を問う言葉を聞かねばなりません。その時、私たちに罪を犯させる悪霊は、黙っていない。大声で叫ぶのです。説教者より大声を出すのです。説教に負けないためです。説教に勝つためであります。

 私たちは、この礼拝の説教中、大声を上げることはないかもしれません。しかし、時に心の中で呟き始める。言い訳と、呟きと、反発の言葉を呟き続けているうちに礼拝が終わってしまったということはないでしょうか。それは、神の言葉を自分の心に何としても入れまいとする抵抗の行為なのです。眠ることによって耳を塞ぎ、心の中で叫ぶことによって、御言葉の前にバリケードを築く。それが私たちの心に棲む悪霊のサバイバル術なのです。そうやって、悪霊は私たちを捕らえ支配し続けようとするのであります。

 悪霊など非科学的であって、「迷信から解放された我々は信じない」と言うかもしれない。しかし、そんなに私たちは解放されているでしょうか。二千年前以上に、現代は益々悪霊の働きなしに、この世で起こっていることを考えることができないような時代になっているのではないか。先週、コロラド州デンバーで、二人の高校生が銃を乱射して、生徒や教師を射殺し、最後に自分たちも自殺したという事件がありました。彼等はヒットラーを崇拝し、薄ら笑いを浮かべ乱射していたという。ドストエフスキーの作品『悪霊』が思い起こされるのです。いえ、私たち自身も、やはり何か悪しき者に支配されており、自分でも本当はしたくないことをなし、言わなくていいことを言い、そのような囚われの身になっているのではないでしょうか。どこも自由でないのです。悪に支配されている。だから日々、人を傷つけ、自分自身を傷つけて生きている。

悪霊に支配された時、人は一瞬力に充ちたような気持ちになる。相手を威嚇し屈服させる武器を悪魔から手渡されるからであります。しかし、それは最後には、自分に向けられ自身を滅ぼす武器となる。悪霊は、最後には、取りついたその者を傷つけ殺すのです。それが目的なのです。コロラドの二人の高校生の末路のように。

 逆らう者に対して、主イエスは35「黙れ!」と叱りつけられました。悪霊の大声、悪霊の支配下にある人間の雄弁によって、神と隣人は傷つけられ、そして結局自分自身こそが深手を負う。しかし人は沈黙して、ただ神の言葉を聴く時、希望が生まれる。癒しが与えられる。解放されるのです。

 「恵みのみことばを、わたしにも聞かせてください」、その歌は言い換えれば、もう一箇所の今朝の言葉ハバクク書2:20となると思います。これは私たちの礼拝招詞に多く用いられてきました。

 「主は、その聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。」

 私たちは沈黙しなければならない。それが悪霊を沈黙させる道なのであります。沈黙する時、礼拝が始まる。そこで、御言葉が力をもって、私たちに迫り、私たちを創り替える。闇のような心、「闇と深淵」に支配された混沌たる魂に、権威ある神の言葉が入り込み、そこに光と秩序が創造される。天地創造を昔の神学者は「無からの創造」と呼びました。私たちも何者でもなくてもいい。立派な人間でなくていい。頭脳明晰でなくてもいい。聴く者であればいい。頭のよい人がかえって、雄弁の誘惑から免れられないのです。私たちは、愚かになって、沈黙すればいい。そこに信仰の光が射し込む。その時、闇は追放され、私たちはキリストに支配される存在となる。主の支配とは、決して私たちを苦しめるものではありません。先に、御言葉は私たちを眠らせないと申しました。そうであれば、私たちを苦しめる、苦い言葉と思われた人もいるかもしれません。しかし、本当はそうではない。主は厳しく私たちに臨まれますが、それは私たちを、悪霊から来る致命傷から守るためであります。だから、主の言葉が勝利した時、「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て」(4:35)行きました。人は投げ倒されるかもしれない。驚かされ、いささか痛みを感じるかもしれない。しかし、傷は受けないのであります。

 だから、御言葉は慕わしい。実は甘い言葉なのです。私たちを救う憐れみの言葉なのです。だから私たちは、いつでも、御言葉を下さい、御言葉を聴かせて下さいと歌い、祈らずにおれなくなるのであります。


 (1999年4月25日、主日礼拝説教。この日の礼拝の最後に、皆で讃美歌21―五〇九「光の子になるため」を歌い、それぞれの場に派遣された。遠く旅に出た姉妹もいる。)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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