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1999年 4月 4日 「朝日に輝く復活祭」

1999年4月4日 「朝日に輝く復活祭」 復活祭説教

  説教者 山本裕司
  (ルカによる福音書 24:9)


そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 (ルカによる福音書 24:9)


 私たちの教会は、今朝、復活日を迎え、主の復活の出来事の「一部始終」をこの西片の地に知らせようとしています。私たちだけではありません。全世界の教会が、今朝、主の復活の出来事を、一人でも多くの人に告げるために、礼拝を始めているのです。今、いったい何億人の人たちが、多様な肌の色の人たちが、多様な言語で、「主は復活された」と告げているのでしょうか。それを想像するだけで、興奮せずにおれない。地球の自転と共に、東の国から順番に、次々に「主の復活、ハレルヤ」との喜びの声が上げられていき、ついにはその声は日の光の進行と共に、全世界を覆ってしまう。主イエスの死と罪に対する勝利を確信せざるを得ない朝を、私たちは迎えたのです。

しかし、勿論私たちは、主の復活の直接の目撃者ではありません。順次、先達から復活の事実を知らされてきたのです。復活報告は、現在では地球を覆うような大河と成長していますが、その川をどこまでも遡ると、復活報告の最初の一滴に至ります。その源流、最初の報告者は誰だったのでしょう。それは女性たちであったと福音書は記すのであります。女たちは日曜日の早朝、主イエスが埋葬された墓に香料を携えて出かけていく。ところが石が転がされており、中を見ても、イエスの遺体は見あたらない。途方に暮れてしまう。その時、二人の天使が現れまして、主の復活を告知する。その女性たちが一一人の弟子たちに初めて、一部始終を知らせたのであります。 ところが女たちが持ち運んだか細い、最初の流れ、復活報告の流れは、男たち、弟子たちによって、一番大本で遮られようとした事実を、福音書ははっきり語る。何ということでありましょう。しかし、実はこの男たちの姿、復活を信じない姿こそ、本来の私たちの姿ではないかと思うのです。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」(24・11)当時のユダヤ人社会において、女性は真理を語るに足りないという差別的な考えがありました。裁判においても、女性や子供の証言は殆ど採用されない、つまり信憑性に欠けると考えられていた時代なのです。 「ポネット」という映画を観ました。四歳の少女ポネットは、自動車事故で母親を亡くします。預けられた家の信仰深い叔母さんから、主イエスの復活の物語を聞く。ポネットの幼い胸は熱くなります。暫くしてポネットが「夜、ママが来てくれたの」と言い始める。「お話をして遊んでくれた。」叔母さんは夢でも見たのだろうと思って聞き流しています。ところが、ママの復活を信じたポネットは、一途にママの復活を待ち続ける。叔母さんは最初感動します。「私も信仰はあるけど、お前には負ける。少し怖い気がするほど、お前は素晴らしい子ね」と。しかし、暗くなっても、庭を動こうとしないポネットの頑固さに参ってしまう。「ポネット、ママは戻らないのよ。死んだ人は決して戻らないのよ!」ときつく言って、家に引き戻すしかなくなる。

しかし、ポネットは、どんなに大人たちに、否定されても、ママの復活を信じ続ける。おまじない、タリタ・クムと何度も唱え、ユダヤ人のお友たちの課す神の子となるためのテストに耐え、祈り続ける。最後、なかなか来てくれないママのお墓の土をかきわけ、泣いているポネットに、靜かに奇跡が訪れる、そういう物語です。

「夜、復活のママが来てくれたのよ、だから昼だって復活するの」と待ち続けるポネットの言うことに大人たちは、耳を貸しません。「絶対にない」と、叱りつけます。ここに表れているのは、大人たちの、死んだ者は戻らないという「岩」のような確信であります。しかし、そのように私たちが、絶対だと思っている確信や知恵の「岩」を転がしてしまう事件として、主イエスはお甦りになったのであります。そして、自分の尺度が打ち壊される経験をする。そして、別の尺度をもって世界を見ている人たち、それは幼子です。幼子のような女性たちです。その者たちこそ神の真理を真っ先に見る、そう言われているのです。主イエスがこう言われた通り。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(マタイ11・25)

女性たちの報告を受けた弟子たちは、しかし、それを葬り去ろうとした。それは、自らの知恵と死を絶対化して、揺らぐことなき巨石によって、信仰と希望を封じ込めていたからに違いない。その証拠に、男の弟子たちは主イエスが死ぬと、真っ先に逃げていきました。人間の深層心理の中には、根強い死を忌避する思いがあると、キューブラ・ロスという精神医学者は語っています。

その医者が『死ぬ瞬間』という本を書いたのは有名ですが、その中で、ロス先生は、現代人は益々死の恐怖に取り付かれていると書いています。例えばと、こういう具体的な例を申します。死に瀕した患者が急患室に到着する。患者はたちまち忙しくたち回る多くの医者たちに取り囲まれ、科学的関心の一個の対象物にされ、生命維持のための処置がなされる。どうしてこうなるのか。それは命を救うためだとその人たちは答えるだろう。しかし、ロス先生は、果たしてそうか、それだけかと問われるのです。「医療スタッフたちのその時の関心、器械装置と血圧計への集中は、死があまりに不快なので、全神経の方向を(危機にある患者自身の心に向けなければならないのに)、ただ、器械とデータに向けているのではないか。一人の人間の死に際した苦しむ顔よりは、器械を見ていた方が、まだしも人は、遠くにいることができる。」そう言うのです。

あるいは、末期患者の付き添いをしている時、ペーパーバックを読み続ける看護婦の話が出てきます。彼女は、確かに物理的には近くいて患者を世話をしているのだが心の中では、患者からできるだけ遠く離れていたかったのである。どうしてか。ロスは言うのです。彼女は患者の死期が迫っていることに恐怖を感じ、心を閉ざして、死を直視することから自分を防衛している。そう分析しています。

私は、この本を駆け出しの伝道者となった時読みました。その時、痛切に思ったことは、ここに例として登場した人たちの話しが、まさに自分の姿そのままであるということでした。教会員が死ぬと、牧師がどんなに若くても頼りなくても、真っ先に連絡が入ります。わざわざ死のただ中に、自分から入って行かねばならない。連絡が入った瞬間のぞっとするような感じを今でも覚えています。それほど死を恐れてきた自分が、しかし、強いられて、何度も何度も葬儀を執り行う中で、だんだん分からせて頂いたのは、一人で、葬儀をするのではないということです。一人で死と戦うのではないということです。いつも甦りの主がついていて下さる。それをはっきりと感じられるようになった時、ふと何かが突き抜けたような感じがして、安心して葬儀に取り組むことができるようになったように思う。

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」(ルカ24:6)。御使いは、「思い出しなさい」、「思い出しなさい」と、促しています。この甦りの約束を、思い出す時、私たちは死を直視することができるようになる。死はただ恐ろしいものではない。主イエス・キリストが甦って下さったではないか。そのことを思い出す時、私たちは、勇気が与えられるのです。もう逃げ出す必要はないのです。その時、死に臨む人を、いたずらに器械で縛り付けて益々苦しめるのではなく、最も適切な心のケアーができるようになる。遺族に最も慰めになる言葉を語ることができるようになる。その時私たちが言うことのできる最大の言葉は、この天使の言葉であろうかと思う。「人の子は必ず…、三日目に復活することになっている!」。 主イエスだけではありません。主は私たちに先立って甦って下さったのです。私たちも、この主に導かれて甦ることができる、ポネットのママのように。そのことを信じようではないか。幼子のようになって信じようではないか。そこで春の朝日を浴びるような経験を、皆ですることができるのであります。  (1999年4月4日復活祭説教)

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