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1999年 1月 6日 「1999年を一期一会で生きる」

1999年1月6日 「1999年を一期一会で生きる」

  説教者 山本裕司
  (コヘレトの言葉 3:1~4)


   何事にも時があり
   天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
   生まれる時、死ぬ時
   植える時、植えたものを抜く時
   殺す時、癒す時
   破壊する時、建てる時
   泣く時、笑う時
   嘆く時、踊る時
   (コヘレトの言葉3:1~4)


 私が幼い頃から通っていた教会に行くのをやめてしまって、心はすっかりすさんでいました頃、母が大層心配して、聖書を読むことを盛んに勧めたことがありました。その時、どうしてそこを選んだのか分かりませんけれども「あなたはここを読まなければならない」、そう言って母が開いた聖書の箇所は「コヘレトの言葉」でした。私は読み始めました。そして引きつけられてしまったと言ってよい。まるで自分の今の姿を知っている者が、問いかけてくる。「それでいいのか」と問いかけてくる、そう感じました。

 「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。…」。「時」があると言うのです。時は掛け替えのないもの。今この瞬間は二度と帰らない。「その時を用いて、お前は何をするのか」、そう問われたような気がしました。そして、急いで再び教会に通うようになったのであります。

 神学校にいました時、教授が、黒板にまわるい円をくるって描きまして、これが日本人やギリシャ人の時間に対する感覚だと言いました。「山の手線的時間意識」、山の手線に乗りまして、酔っ払って眠り込んでいますと、自分の降りるべき駅を通りすぎてしまう。しかししばらくそうしていても、再び同じ駅にぐるっと回ってくる。それだけに安心して、電車の中で眠り込んでいることができる。つまり時間というものは、少しずつ確かに変化していることは、日本人も認める。しかし春が過ぎ夏が過ぎ秋となり、冬になるけれども、再び春がやってくるように、同じものの繰り返しなのだ、くるくる同じ時間が永遠に流れていく。それに対して教授は次に、チョークで一本の横線を引きました。そしてこれが「聖書的時間意識」、つまりユダヤ人の時間に対する感覚だと言う。それは言ってみれば、真っ直ぐな中央線のようなものです。それに乗るお客さんは、眠り込んでるわけにはいかない。うかうかしていますと、もう二度とその駅に戻って来られないのです。ユダヤ人の時とは、そのように、最初があり、終わりがある。それだけ眼を覚ましていなくちゃいけないのです。それだけに時を大切にする思いが強くなるのであります。

 「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」 (ローマ3:11)。

 このパウロが言う「時」とは何か。それはまず第一に、クリスマスの時、キリスト到来の時です。そして第二に、そのキリストが再びこの世に来て下さる再臨の時のことです。それは言い換えるなら、私たちが主イエスとお会いすることのできる時と言ってよいと思います。汽車に乗っていて、到着の時間を知る者が用意を始めるように、私たちもその時を知る者として、励まねばならないことがあると言ってるのです。洗礼を受けてもしばらくすると、教会に来るのをやめてしまう人のことを私たちは「卒業信者」と呼ぶことがあります。まるで何かをマスターした人のように。しかしカトリック教会ではそういう人のことを「眠り込んでしまった人」と呼ぶのだそうです。眠っていても、またどうせチャンスは来る。山の手線みたいに、またぐるって回っていくらでも取り返しはつく。そう思うからかもしれません。

 「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」これは私たちに対する使徒パウロの強い信頼の言葉であります。あなたがたは特別に「時に対する知恵」をもった人たちなのだ。パウロの言う「時」とは、キリストとお会いすることのできる時のことだと先に申しました。そうであれば、その知恵とは、単純な知恵です。日曜日の午前一〇時三〇分に、キリストと出会う礼拝が始まるという、その知恵のことだと言ってもよいのです。しかしそれはただ単に礼拝が始まる時間というのじゃない。神様と会う時間なのです。そのことを知っている人はこの日本の中で少ない。そういう時間に対するセンスをもつ者は、私たちキリスト者だけです。だからこそ「あなた達は、そういう知恵に生きる者として、眠りこんじゃいけない。日曜早朝、目を覚まして、さあ、主イエスに会いに行こうではないか。毎週、毎週通おう。眠り込むことなく」そうパウロは励ましいるのではないでしょうか。

 何故人は、礼拝を毎週守ることができないのでしょうか。それは礼拝が一年に五二回もあるからであります。礼拝が多すぎるのす。結婚式やお葬式のように、一生に一度きりの礼拝にすればいいと、私は言ったことがあります。そしたら、その礼拝の日、遅刻する人はいないでしょう。二度と人生の中で行われることなき一世一度の大イベント。そうしたらいい。そしたら、みな黙ってたって、厳格に礼拝を守るのではないか。それが一年五二回礼拝がありますとたるんでくる。クリスマス礼拝は顔を見せた人も、次の礼拝には来ない。また来週礼拝があると思うからです。何度でも同じ駅を通過する山の手線と同じです。眠ったって、どうせまた次の礼拝はやって来る。しかし実はそうじゃない。礼拝はいつも一期一会であります。神様との出会いは一期一会であります。

 時とは、掛け替えのないもの、そうユダヤ人は発見をした、それは彼等が特に人類の中で時間のセンスが優れていたからじゃない。そうではなくて、神に対する一期一会の信仰が、そういう時間に対する厳しさを生み出したのだと思います。そうであれば、私たちもまた一回毎の礼拝を、これが最後の礼拝だと思いながら参加することが大切なのではないでしょうか。終わりがやってくる。私たちはいつか死ぬんです。次の週は、もうここに来ることはないかもしれない。そういう時に対する鋭い感覚、時というものが、どんなに貴重なものかという感覚、それを信仰者は誰よりも深く知っているはずなのであります。

 恩師佐藤敏夫先生が『「ローマ書」を読む』という説教集を出版されています。今引用したパウロの言葉についての説教の中で、先生は貿易会社に勤めていた、あるキリスト者の若い女性の話を紹介しておられます。「自分の会社で男性の社員を見ていると、この今の仕事を一生続けてやって行かなければならないと思った途端に、うんざんりして仕事に対してやる気を失うようだ。しかし自分は独身の女子社員で近い将来に結婚する可能性がある。そうすれば、今の職場にサヨナラすることになるかもしれない。そう思うと、返って今の仕事に対して、もりもりとやる気が起こってくる」と言うのであります。終わりが来ることを知る。この会社での生活も終わるのだからいいかげんに過ごそうとこの女性は考えなかった。逆です。終わりを知るが故に、その限られた時間を大切に充実して生きたいと思いました。それと似て私たちの人生も、終わりの時が来る。どんなに願っても、いつの日か私たちは例外なく、体力が失われて、この美しい礼拝堂で礼拝することはできなくなります。終わりを知るとは、私たちに、人生に対する緊張とやる気を与えるのであります。一期一会の神様との出会いのために、神様は私たちになお一九九九年の一年の時をお与え下さいました。終わりの日は猶予されたのであります。その恵みに応えたいと切に願うのであります。

  (1999年1月6日、初週祈祷会における奨励)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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