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1998年10月 7日 「多彩な人間の性

1998年10月7日 「多彩な人間の性」

  説教者 山本裕司
  (コリントの信徒への手紙一 12:13)


一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 (コリントの信徒への手紙一 12:13)

 この夏の北支区講壇交換において、四谷新生教会の小栗献牧師が、西片町教会で説教された。それは同性愛を「罪」と捕らえることを否定し、同性愛の牧師を受け入れることを容認する主旨だったと聞いている。その説教は、正しい説教が全てそうであるように、一つの石であったと思う。西片町教会という静かな池の水面に投げ込まれた一つの石であった。その石が波紋を広げて、眠ったように動かなかった池の水を、微かに揺らし続けてきた。暫くほっておけば、その波紋も自然現象の常のように納まって、また元のままの水面に戻るのだろうか。それでいいのだろうか。神の計画はそれを許さず、続いて、もっと大きな石が池に投げ込まれたのではないか。

 私は四国教区にいた時、差別問題委員会の責任者となり、部落差別問題に取り組んだ経験がある。その時、こういうことを聞いた。ある地域の会合で、気のおけない仲間たちとの気安さもあったのだろう。部落に対する偏見に満ちた言葉が語られ始めた。その差別的な話がなされている中に、実は、部落出身の男性がいた。彼はこの地域に越してきて、もう10年間も自分の故郷を隠してきた。彼の心は深く傷ついていたが、いつものように黙って耐えていた…。

 私たちは、小栗牧師の説教の波紋に揺さぶられて「それはいい」とか「悪い」とか、自分たちに関係がないことのように、客観的に話しているが、その輪の中に同性への性的指向をもつ人が存在していたかもしれないのである。誰も自分の性的指向のプラカードをぶら下げている者はいない。その人はつい最近教会に来始めた求道者かもしれない、あるいは、実は10年も前から西片町教会の教会員として、一緒に信仰生活を守って来た人かもしれない。あるいは、自分はそうではなくても、最近、自分の子供や孫が同性愛的指向をもっていることを知った人もいるかもしれない(家庭環境とか遺伝とかと無関係に、どこの家庭にも、生まれてくる可能性がある)。

 その人たちは、教会の中で「セクシュアル・マイノリティ」(性的少数者の意。人間は元々一人一人多様であるという前提から、この言葉を使うことに懐疑的な者もいる)が容認されず、嫌悪感をもって語られるために、それを必死で隠していると思う。先の部落差別問題の例に見られるように、強い差別意識がある組織の中で、被差別者はそれを隠すのは当然の心理である。従って、隣りにそういう問題をかかえている人がいても、偏見をもった組織であればあるほど、その内部では誰も気づくことはない。そして、メンバー全員が当然のように、セクシュアル・マジョリティ(性的多数者)だということを前提にものを言う時、隠されているマイノリティたち、その家族たちは耐え難い苦痛を味わうであろう。社会の中で、差別されてきた人が、教会に救いを求めてきても、社会以上に不寛容であったとなると、人は二度と教会に来なくなり、最後は行き場を失ってしまうのではないか。今、マスコミで多く取り上げられているトランスセクシュアル(性同一性障害。身体の性と個々が自己認知する性が一致しないために外科的処置を求めるケース)の人たちの自殺率は非常に高いと言われている。

 『トランスジェンダリズム 性別の彼岸』(松尾寿子著)を読むと、外国の話だが、教会に救いを求めてきた人たちが、結局教会に失望して去り、他のところで癒されいる経験談が随所に表れてきており、伝道者として忸怩たるものがある。従って私たちは、この問題について話し合う時に、隣りにそのような少数者(と言っても同性愛指向の人は決して少なくない)がいることを前提に節度をもった語りが必要であろう。

 さて、コリント一12・13をこう読み替えたらそれは誤りであろうか。「私たちは、異性愛者であろうと同性愛者であろうと、性的多数者であろうと、性的少数者であろうと 、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」

 聖書の読み方の問題に入っていかなくてはならない。私たちは、聖書の一字一句を逐語霊感説によって、神の霊感による言葉と理解する立場を取らないことは以前にも申した。もしそうならば、現在守られなくなった多くの律法の禁止事項の中で、何故「同性愛」や「異性装」だけを取り上げるのか、そこに神学的な説明が必要となろう。

 同性愛を非難していると思われる聖書箇所としておそらく最大の典拠となるのは、使徒パウロのローマ1・26~27の言葉であろう。「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」

 しかし、ここで、先ずパウロが言っているのは、偶像礼拝の禁止なのである。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」(1・23)。真の神を偽りの神々に「取り替える」、その「倒錯」の罪の故に、人間関係もまた「倒錯」し、自然な関係を失った。その「倒錯」の一つとして「男どうしの恥ずべき行い」が取り上げられ、また、私たち誰もが逃れられないでいる「悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ…」(1・29)というおびただしい不義が指摘され、こうして本来平和であったはずの人間関係もまた「倒錯」してしまったというのが、パウロのここでの論旨である。

 つまり「取り替える」ことがパウロの言う罪なのである。どうして取り替えるのか。それは、おそらく、古いものに飽きてしまい、新しいものがより自分を楽しませてくれると感じる「欲望」(1・24)の故であろう。これは愛の問題と係わる。愛とは一途なものであり、自分の欲望のままに、相手を利用し、役にたたないと思ったらさっさと捨てることではない。一度、交わりをもったら、愛し抜くことが愛の掟である。唯一の神を愛し、唯一の人を愛する。これがパウロの言う「自然の関係」なのである。ところが神を神々に「取り替えた」時、人間関係の「取り替え」もまた出現する。そこでパウロが当時の環境において「倒錯」について言おうと思った時、格好の「例」に思えた「同性愛者」の性的放縦を、彼はここで先ず取り上げたと推測される。

 しかし、ここで注意を払わなくてはならないのは、「情欲」(1・26、27)という言葉を「性的放縦」と理解するならば、これは異性間において、より激しく現在日本で行われているということだ。それはまさに隣人を欲望の故に「取り替えて」しまう「倒錯」であり、これは同性愛者だけの問題ではない。いや、同性愛者こそむしろ、一途にただ一人のパートナーを愛し抜くことも当然起こる。それは一人の人を愛し抜くという、愛の掟にかなっているが故に、パウロの言う「取り替え」にも「倒錯」にも当てはまらない。

 教会は「性」の問題に元来厳しい。明治初期の日本にキリスト教を伝えたアメリカ宣教師たちは、ピューリタン的伝統を保持していたが故に、日本において女性の性が卑しめられている現実と取り組み、教会もまた、不正な男女関係に対して「戒規」の大鉈を振るい、売買春の一掃に努力した。そのピューリタンの良き伝統の故に、現在の日本の教会内でも、性倫理は、なおやや厳しさが保たれているように思われる。それが故に、最近の教団常議員会でも、同性愛者の牧師資格問題が取り上げられたのであろうが、これを「性的放縦」の問題と同一のものと捕らえてのことであったとしたら、何かの錯覚があったのではないか。一途に一人の隣人を愛する
ことは、それが同性に対してであっても、異性に対してであっても、素晴らしいことであって、主イエスがお喜びになることだと思う。性的放縦に対しては、厳しく臨む教会でありながら、同時に、同性愛やセクシュアル・マイノリティに対しておおらかであることは、両立する。

 また、使徒パウロは「自然」という言葉を用いているが、同性愛や、トランスセクシュアルを、簡単に不自然と言うことはできない。性的指向や、自分の性に対する認識は、自分の意志を越えていることであり、自分でどうすることもできないという点で自然に属することである。一人の男性が女性を求めるのは、本人が努力したからではなく、自然なことである。また、一人の女性が、女の服装をしたくなるのも、本人が決めたことではなく自然に属する。同様に、同性愛もトランスセクシュアルも、自分で選んだのではなく、もって生まれたものであるが故に自然であり、修正することは極めて難しい。

 そうであれば、ローマ1:26「自然の関係を自然にもとるものに変え」ということは、彼らがむしろ自然に対して「素直」になろうとする生き方であるが故に、当てはまらない。トランスセクシュアルの場合、「肉体の性」を捨てでも「心の性」を優先させない限り、心が解放されないのであれば、その「心の自然」に従う他はないのであり、それが自然に対して素直になることになろう。

 つまり、これらセクシュアル・マイノリティの問題を罪の問題と捕らえることはできない。そうでなければ何か。それは「多様性」ということになり、私たちは、性的少数者のことを考える時、先ず、このローマ1:26を開くのではなくて、同じくパウロの書いた、コリント一12:12以下を思い浮かべるべきではないか。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。…」実際、人間の性は多彩であり、性科学に関する用語も、それにつれて非常に多い。それを逸脱と見るか、人間の豊かさと無限の可能性と見るか、私たちは問われている。

 浅学も顧みず、急いで拙い聖書研究を公にしたのは(せざる得なかったのは)、セクシュアル・マイノリティであるが故に、苦しめられてきた人が現実に存在するからである。そして以下の文章を読んで、遠い記憶がよみがえってきたからである。木造校舎が建つ殺風景な小学校の校庭で、同じような言葉を聞いた微かな記憶が残っていた。それは、友人の声だったのか、自分の声だったのかも定かではない。しかし、同じ台詞だけは確かに覚えている。「おとこのしょうこみせろよ。」それが友を死ぬほど苦しめてきたとは知らなかった。

 友を友としない「倒錯」の罪を告白せざるを得ない。

 「〈女の子になりたい〉 そう口から出かかった言葉を、瑞枝は何とか抑えた。小学校三年生の時のこと。小学校に入ってからは、ずっといじめられてきた。『おまえ、女だろう。男の証拠みせろよ。それが嫌ならスカートはいて来いよ』 同級生にいつもそう言われて、仲間はずれにされてきた。…」(八岩まどか著『「心の性」で生きる』より)


 (1998年10月7日の聖書研究会祈祷会において語った原稿を書き改めた。)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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