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1998年 月 日 「自由と服従」

1998年 「自由と服従」

  説教者 山本裕司
  (ローマの信徒への手紙 6:17~18、20)


あなたがたは…罪から解放され、義に仕えるようになりました。…あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。(ローマの信徒への手紙 6:17~18、20)

言い換えればこうです。「罪から自由である者は、義の奴隷である。罪の奴隷である者は、義から自由である。」


 自由になりたい。それは私たちにとって、欲望と言いうるような激しい求めであります。拘束を嫌い、自由を願って私たちはキリスト教に入信しました。しかし、使徒パウロは自由だけを語るのではありません。彼は常に自由と奴隷(服従)をワンセットにして語る。パウロにとって、この限りなく矛盾している言葉が「表裏」の関係にあって、切り離すことはできない。生涯、健やかな信仰生活を送るためには、この不思議な「表裏一体」を承認しなければならないからであります。

 私は今、前任地大洲教会の歴史に取り組んでいます。資料の中に、一〇〇年前を生きた原房太郎という優れた牧師の姿が浮かび上がってきました。当時、教会は大洲周辺の広大な土地を、自分たちの伝道圏と捕らえ、二里~四里の町村、五箇所に講義所を設置していました。原房太郎は川舟を用いる時もありましたが、多くは徒歩で、その伝道圏を聖書を携え巡回しました。大洲の冬は寒く、夏は暑い。厳冬の中、集会から帰って発熱した時もあり、灼熱の夏は耐え難いと呻きつつ汗をしたたらせて進み続けました。ところが、ある集会では、出席者が一~二名という状態が続き、ある夜、誰も来ないまま待ち続け、とうとう真夜中、数里の道を空しさを噛み締めつつ大洲に帰らねばならない時すらありました。土佐出身の「いごっそう」原はその夜、日誌にこうやるせない心をぶつけました。「この地方の教勢に就ても又大に痛苦を感ずる所多く、過半の信者は集会の必要を感ぜさる者の如く…其信仰甚だ随意にして時間を献ぐるの決心なし」(1903(M36).7. 水)。

 原はこの地の信者は「信仰随意」だと、問題点を鋭く突いています。「随意」、自由と言うことです。誉め言葉ではない。「信仰の自由」を叱責しているのです。福音は私たちに自由を与える。その通りです。しかし人は、その自由を乱用するのではないか。こんなことすら言う者が現れていたのです。「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよい」のだ(6:15)。

 その自由の際限のない謳歌に対して、パウロは原同様、その「信仰随意」を叱らずにおれない。そして、自由ではなく「奴隷」と、「従う」と、強調せずにおれませんでした。しかし、そこでいささかも自由は侵されることはない。いったいパウロの言う、自由と奴隷という対立概念が、同時に実現する世界が存在するのでしょうか。存在するのです。どこに?愛の世界において。ある人はこう言います。「愛の中には『従う』という内容がある。愛の中には奴隷にまでなりたいという欲求がある。愛の中では人間の自由の欲求が満たされるだけではなく、奴隷となりたいという不可思議な熱情もまた満たされなければならない。信仰者というのは、キリストに所有されたい。全てを献げてキリストに仕えたいと思う者のこと。」そう言いながら、この人は「近頃この不可思議な欲求について顧みられない為、自由をもてあまし、かえって変なものの奴隷になっている者がいる。私たちの自由とは、野良犬のような放縦さとは異なる」とはっきり言うのであります。

 にもかかわらず、何故自由と服従が一つなる道を、私たちは歩けないのか。自由は喜んで頂戴するけれども、何故、服従については逃げ腰になるのか。それはたった一つの理由による。たった一つの事実を忘れると、そういう信仰の病にかかる。その忘れてしまった事実とは何か。私たちが主を愛する前に、主が私たちを愛して下さったという事実であります。愛とは、奴隷にまでなること。私たちが奴隷になる前に、イエスは僕のかたちをとられて私たちの所に来て下さいました。私たちが服従したのではないのです。主であられるはずのキリストが、僕として先ず私たちに仕えて下さり、そのほとばしる愛の故に、私たちのために命を投げ捨てて下さった。

主が僕になられた。「主と僕」、ここでもその果てしなく矛盾した言葉がイエスにおいて一つになっている。主が僕となられて、私たちの足を洗って下さるために、果てしない距離を越えて、私たちの所まで伝道に来て下さった。受肉されて、冬には寒さで震え、夏には喉の渇きに喘がれながら、私たちの所にまで御言葉を携えて旅して下さった。ご自分の時間を全て、私たちの救いのために献げて下さった。その真実を本当に知った時、私たちもまたじっとしておれなくなる。キリストが遥々来て下さった教会に、私たちも小さな努力をして、出席しないわけにいかなくなる。どんなに寒い朝も。主を愛するが故に。主の僕として、自分の時間を献げないわけにはいかなくなる。その心は強制されて仕えるなどということと、まるで違う喜びの人生であります。暗い顔をして奉仕するのではない。明るい喜びに満たされた服従に生きる。そこで私たちの中にも、自由と服従が一つになる奇跡が起こる。それが信仰者の実存なのであります。

(土佐地方の方言) 気骨があること。信念を曲げない、頑固者。高知県人の気性を表す。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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