1998年 「神に献げる喜び」(ローマ12:1)

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに
勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえと
して献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
(ローマ12:1)

 教会に来ますと「福音」という言葉を覚えます。福音とは、
私たちが主の恵みによって、良き行いのないままに「ただ」で
救われるという教えです。これは、どんなに時代が変わろうとも、
聖書と教会から消えることなき真理であります。しかし、
そう教わりまして聖書を読んでおりますと、大変不思議なことに、
あなた達は福音によって救われるのだと語られた後、
「こういうわけで」あなたは日々何もせずのんびり生きなさい、
とは書いてない。罪からの救いは、あなたの力じゃない、ただ
キリストの贖いによるのだ、と語られまして、「こういうわけで」
あなたは、安心してじゃんじゃん罪を犯して生きていきなさい、
そう御言葉は決して続けません。ローマの信徒への手紙1~11章は、
福音が徹底的に語られてきました。そして12章に入りました時、
「こういうわけで」と使徒パウロが、矛盾を恐れず続けた言葉は、
私たちの行いです。私たちの徹底的な献身を求める勧めの
言葉であります。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに
勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして
献げなさい。」(ローマ12:1)

 辻宣道牧師は『教会生活の処方箋』という本を書きました。
教会の病の処方箋。名医にありがちですが、いささか語調が
厳しい。その中に「献金は信仰のバロメーター」という一章が
あります。「概して信仰のある人はよく献金します。信仰のない
人は献金しません。……ある婦人雑誌で家計簿の公開を
募集したことがあります。その一つに応募したのは、ある
クリスチャン主婦であった。彼女は実に模範的な家計簿を
公開してくれました。ただ、献金の項を見た時、思わず顔が
赤らみました。少ない。実に少ない。それは一回のおやつ程度の
ものでした。僅少献金を公開する神経にただ驚嘆しました。
この程度にしか献金を考えぬインテリ女性のわきまえぶりに……。」

 勿論、いろいろな事情で多くを献げられない人達もおります。
ですから、一概に金額の大小を問題にすべきではありません。
しかし、私たちは辻牧師が言ったように、お金に関して、時に
本当に賢い「わきまえぶり」を発揮するのではないか。金に
まつわるみみっちい話は教会の中にも多くあります。

 「こういうわけで」(12・1)とは、どういうわけでしょう。これは、
1章から11章の福音のことだと申しましたが、もう少し絞ると、
11章36節の言葉と繋がっています。「すべてのものは、神から
出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が
神に永遠にありますように、アーメン。」

 今、あなた達の心に感謝と讃美が溢れたではないか。
「こういうわけで」献げなさい、とパウロは言っているのです。
仕方なく献げなさい、と言っているのではありません。もっと
自然なことを言っている。まるで、水が高きから低きに流れる
ような「当たり前」の流れのイメージが、この11章と12章の
繋ぎ目の「こういうわけで」には込められていると思います。

 「勧め」(12:1)という言葉にしても、これは「しなさい」という
強制の意味ではありません。ある牧師の解説によりますと、
元の言葉は「誰かを呼んで来て味方にする」という言葉
だそうです。一人になると、私たちは心細い。心細いと、
どうするかと言うと、弱い動物が毛を逆立てて大きく見せる
ように、人は自分を強くして守ろうとする。お金に対する
こだわりというのも、そういう私たちの弱さと関係するのです。
一円でも節約して、自分の生活を守ろうとする。一人だと「金」
だけが頼りだからであります。あるいは「物」を集めて心を
慰める。一人だと「物」にしか慰めがないからであります。

 しかし、私たちキリスト者はそうではない。私たちは、
一人だと寂しかった時、呼んだのです。すると直ぐ味方が
来てくれた。それが「勧める」の元の意味だと今申しました。
そこから、この言葉は「慰める」という意味になったのです。
味方がいてくれれば孤独が慰められる。もう金や物に
頼らなくてもよいほどに。呼べば応えて下さる味方こそ、
主イエスキリストでありましょう。自分を真実に慰めるのは、
この世の宝ではなく主である。私たちを決して一人にしない
主である。そのことを本当に知る時、私たちは富の呪縛から
解放され、すすんで献金を献げることができるように
なるのであります。

 青年時代、私が属していた教会の牧師は、献金前に、
ご自分の作られた「献金式文」を必ず語られました。

 「献金とは、神様の豊かな恵みに対する感謝のしるしです。
献金とは、これらの豊かな恵みの賜物が、私たちの勝手
気儘に用いてよいものではなく、神様の栄光と隣人の喜びの
ために用いるようにと、神様から預けられた信託財産である
ことを確認するしるしです。献金とは、預けられた信託財産は、
ただ物質だけではく、生命も能力も時間も身体も一切は神様の
ものであり、私たちの全存在を神の御心のままに、生きた
聖なる供え物として献げる献身のしるしです。」

 牧師は、献金を必ず新札で献げました。そして信徒にもそれを
勧めました。新札がない時、お札にアイロンをかけて、讃美歌に
挟んで礼拝に携え来る信徒のことを説教の中で紹介されました。
「この初穂を差し出す日には、傷のない一歳の雄羊を焼き尽くす
献げ物として主にささげる」(レビ23・12)との掟を思い出さざるを
得ません。そこに貫かれている思いは、献金(奉献)とは、
私たちの生命を注ぎ出す「礼拝行為」であり、それは、決して
カンパでも寄付でも会費でもない、という信仰であります。

 しかし私自身、この旧約聖書の掟を聞いて、打ち砕かれざるを
得ない。私は若い時教えられた通り、ずっと献金を新札で
献げてまいりました。しかし、いつもしみもしわもないお札を
献金する度に思いますのは、自分の汚れであります。真っ新な
お札と裏腹な私の心の古さです。「生命も能力も時間も身体も
一切は神様のものであり、私たちの全存在を神の御心のままに、
生きた聖なる供え物として献げなさい」とのあの牧師の献金の
言葉を繰り返し聞き、ついに、心を燃え立たせ伝道献身者と
なりました。その「一歳の雄」の如き若い情熱が、もはや失せて
しまったのではないかと思うこともあります。使い古しの信仰者。
すれっからしの信仰者。傷だらけの信仰者。泥まみれの信仰者。
受洗した頃、あんなに生き生きと教会生活をしていた人が、もう
礼拝に来なくなる。どう励ましても、少しも言葉が通じなくなる。
どうしてだろうかと思う。古くなったのであります。

 そうやって、直ぐ古くなる私たちが、暗澹たる想いでこの礼拝に
来る度になすことは、呼び求めることです。「主イエスキリストよ
来て下さい」と呼ぶ他はない。すると祈りに応えて、主は
来て下さる。そして、一週間の間に汚れた私たちの心を
洗って下さる。古くなった魂にアイロンをもう一度当てて下さる。
「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、
教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは
何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の
前に立たせるためでした。」(エフェソ5:26~27)

 だから、私たちの献金は成り立つのであります。この罪汚れた
私たちを、キリストが洗って下さる。どうしようもない、罪人を、
御自身の御子の血をもって、清めて下さる。しみを取り去り、
しわをのばして下さり、真っ新な神の子の献身として、
受け取りなおして下さる。献金が可能となること自体が、
実は神の計り知れない恩寵だったのであります。私たちを
一人にしない憐れみだったのであります。一人で、気張って
献身するのではなかったのです。主が傍らで励まして下さる。
これを知った時、私たちのけちくささは消え去るのではないか。
献金を今朝もまた献げることのできる喜びで充たされる
のではないか。

 祈りましょう。
 教会における金の話で躓くことがあります。多いとか、
少ないとか、隣人の目が気になることがあります。少しでも
損しないことばかり考えていることもあります。主よ、献金は、
献金する人の心の奥底を裸にして見せてくれます。そのような
けちくさい罪人のために、傷なき小羊であられる御子イエスは、
生命も能力も時間も身体も一切を献げ、私たちの呼び声に
応えて来て下さいました。どうかこの御子の献身にあずかった
感激の中で、金の迷いから解き放たれ、感謝の供え物を
教会に携え、聖餐卓に喜びの内に献げることができる
礼拝を重ねることができますように。