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1998年 月 日 「眠りから目覚め」

1998年 「眠りから目覚め」

  説教者 山本裕司
  (イザヤ書 29:10)


  主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ
  お前たちの目である預言者の目を閉ざし
  頭である先見者を覆われた。
                (イザヤ書 29:10)


 預言者イザヤが語った「深い眠り」という言葉は、創世記の物語の中に既に出てきます。一人の女を創造される時、神様がアダムから、あばら骨の一部を抜き取られます。その時、アダムを眠らせる。一種の手術ですから、麻酔をかけたと解釈できるかもしれません。しかし、その同じ言葉を用いて、イザヤが語ろうとしたのは、人が眠ってはならない時に眠り、神様の真理を、見ることも、聞くこともできない罪に陥っているという指摘です。その悪しき「眠り」についての言葉を、使徒パウロもまた、忘れがたかったらしく、手紙の中で引用しました。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」(ローマ11・8)。

 神が、私たちに対する激しい「問い」の故に、私たちの胸に指を差し込まれている。しかし「鈍い」ためにその痛みを感じられなかったとしたら、どうなるでしょう。泥酔状態の人が、こたつで寝込み下半身にひどい低温火傷を負ったと聞いたことがあります。「感じない」とは恐ろしいことです。

 今年も敗戦記念日を迎えましたが、私たちは、なお、麻酔でも打たれたような人々の発言に苛立つのです。中学教科書に従軍慰安婦に関する言及がありますが、それに対して「自由主義史観研究会」らが「記述を削除すべきだ」と唱え、「軍慰安婦はなかった」という主張を繰り返しています。

 かつて、性的奴隷とされた女性たちの証言を聞く時、普通なら目眩がするような蛮行がなされました。彼女たちの口を通して、神の指が、確かに私たち日本人男性の胸に差し込まれている。にもかかわらず、もし、その痛みを感ずることがなければ、「日本は滅びる」、預言者ならそう断言するでありましょう。痛みを痛みと感じる神経によって、私たちは、逆に、命を守るとことができるからであります。

 問題は「自由主義史観研究会」だけではない。私たちもまた、信仰の世界において、眠り込んでしまうこと幾たびでありましょう。主イエスは、そういう私たちの命を守るために来られた、魂の医者であります。主がその医者の眼差しで、ご覧になられたところ、最も病んでいたのが、神の民ユダヤであった、そうパウロは言います。今で言えば、教会ということかもしれない。「自分たちは健康である。病気なのは、他の人間だ」、そう自己診断する神の民。しかし、その高慢の中で、最も「鈍く」なっているユダヤに、主イエスは「私の言葉を聞きなさい」そう言われた。しかしなお耳を開かない時、主イエスが外科医として、いよいよ彼等の深い所にメスを差し込んで、患部をえぐり出そうとした時、民は、主の手を払いのけた。その勢いのまま、イエスを殺したのであります。

 ゆったりとした眠りを妨げられる不快感は、私たちにも覚えがあると思う。そこで、もし叩かれてでもして起こされたら、普段はおとなしい人でもいきり立つのではないか。主イエスが手刀を胸に差し込もうとした時、神の民は、それを決して許さなかった。安眠への欲望が、主を十字架にかけたのであります。

 礼拝とは、ほっておかれると、直ぐに眠り込んでしまう私たちが、週一度「目覚めよ!」との主の声を聞くために、備えられていると言ってよいのです。

では、どうしたら目覚めることができるのですか。軽い鬱病に対する新しい治療法が紹介されていました。ある男性は、精神、運動面で活動が低下し、睡眠が異常に長くなるなどの抑制状態が顕著でした。そこで、毎日、太陽の光に匹敵する強烈な光の照射を二時間ほど受ける治療が行われました。光療法と呼ばれます。強い刺激によって、覚醒させるのです。「好きなだけ眠りなさい」、何てことで実は、病気は治らなかった。だから、この光療法と同時に断眠療法も効果的だなどと書いてある。むしろ無理にでも起こす、そしたら、返って元気になった、健康になったと言うのであります。

 「自由主義…」のように、なお眠りを貪り続けようとする日本人ばかりではありません。ある強烈な光と申しましょうか、痛みと申しましょうか、その激しい刺激を受けて、目覚めた者もいます。戦時下のいわゆる「満州」で関東憲兵隊の一員であったその男は、戦後公職追放を受けたことによって、被害者意識の固まりでした。ところが、一九九〇年、参議院予算委員会で、質問を受けた政府委員が「従軍慰安婦は民間業者が勝手に連れ歩いたもの」と答弁したのを聞いた時、実は自分は被害者ではなくて、加害者であったことに気づくのです。彼は「軍が関与していた事実は紛れもない事実であった」と発言した。「自分自身が関東軍の憲兵として、慰安所を管理していたのだ」と。その時、異国の女性たちの痛みを初めて実感しました。彼はそれからというもの、八月一五日になると、自宅から築地本願寺までの四〇㌔の道のりを、ひたすら黙って歩きました。彼はそれを「懺悔の行脚」と呼びました。

 彼は、被害者意識だけで生活していた時より、もしかしたら、やつれたかもしれない。元慰安婦を見る度に、それこそあばら骨を抜き取られるような痛みを感じたに違いない。しかし、実は魂において健やかになったのではないか。霊における健康、不健康は、決して自明のことではありません。

 信仰の麻痺状態から回復するために、私たちがどうしても浴びなければならない光があります。それは、主イエスの十字架から射し込める光であろうかと思う。私たちは被害者ではなく、加害者である。主イエスを自らの惰眠のために殺した、罪人である。その主イエスに与えた痛みの、千分の一、万分の一でも目覚めて感じることができた時こそ、私たちは健やかになる。命を回復する。これが信仰の神秘です。

 先日の祈祷会で、マタイ5・30の御言葉が読まれました。「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 その講解から深く教えられました。これは、恐ろしいほど厳しい言葉だと思います。しかし「はたしてそうなのか」という問いであります。主イエスはここでまさに外科医になっておられる。外科医とは、体の一部を切り取ります。どんなに患者が恐れても、必要があれば執刀する。何故か、生命を守るためです。だから、この言葉はただ厳しい言葉ではない。優しい言葉であります。守るべきは命です。永久の平安です。一時的な安楽ではない。私たちを惰眠からたたき起こす、主の真の優しさに目を開かれるために、私たちは教会に来る。直ぐ居眠りに引き込まれる礼拝ではなく、時に痛みを伴う礼拝、緊張の礼拝、重い礼拝、しかしだからこそ、私たちを健康にする礼拝、これを人生に差し込まれた神の強い憐れみの光と覚え、目と耳をしっかりと開いて、これを守り続けたい。そのように願うのであります。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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