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1998年 月 日 「春の喜びを迎えた あなたへ」(

1998年 「春の喜びを迎えた あなたへ」

  説教者 山本裕司
  (マタイによる福音書 26:38~40)


 「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」…うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 それから、 弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていた…。(マタイによる福音書 26:38~40)

 教会の春の祭りイースターを迎えました。復活祭、それは心がワクワクするほど嬉しい日です。しかし、私たちは、いきなりこのイースターの日を迎えたのではありません。教会はイースター前の40日間、レント(四旬節)と呼ばれる季節を過ごします。今年は2月25日がレントの開始を告げる「灰の水曜日」でした。何故「灰の水曜日」と呼ばれるのでしょうか。それは深い悔い改めや、悲しみを表す聖書的象徴が「灰」だからだそうです。その日から、典礼色は主の十字架と御苦しみを覚える「紫」となり、受難週の「沈黙の土曜日」(今年は4月11日)に至るまで、かつて断食すら求められたほどに、禁欲的な祈りの日々を過ごす習わしなのです。

 では、このレント明けのこの朝、改めて問わねばならないのは、何故、レントという暗い教会暦が私たちに必要なのかということです。何故、いきなり復活祭の朝の喜びを迎えてはいけないのですか。

 主イエスは受難週の木曜、ゲツセマネで祈られました。それは苦しみのあまり汗が「血の滴りのように」流れる徹夜の祈りでした。主は十字架という名の杯を「わたしから過ぎ去らせてください」と切に祈られました。しかし神の御心は主イエスとは異なっていたのです。祈りの中で、耳を澄ますと「子よ、十字架につきなさい」という御声が聞こえてきたのでしょう。受け入れがたいことです。そこで、主はまた祈られました。結局三度祈られたのですが、神の声は変わりませんでした。ついに主は「御心のままに」と、死を受け入れられました。一夜が十年にも感じられる、気の遠くなるほど長い祈りの戦いでありました。

 主はこの時、最も信頼していた三人の弟子たちに「共に目を覚まして祈っておくれ」と願いました。ところが何度起こしても、弟子たちは眠ってしまうです。そして主だけを闇の中に独り置き去りにしてしまう。このゲツセマネにおいて既に、主が十字架上で今度は事実「血を滴らせ」つつ祈る孤独な姿の先取りがあることに、多くの人は気づいたことでありましょう。

 私たちも経験があると思います。不眠の夜の苦しみを。それはただ睡眠不足で辛いということだけでないと思う。昼間は、その悩みを家族や医者に打ち明けて同情してもらえたかもしれない。しかし、夜になると、その家族も医者もすやすや眠るのです。自分だけ一人、孤独の中に取り残される苦しみがそこにある。

 いつか研修会の夜、ある牧師が言うのです。「私より早く寝なさいよ。」「どうしてですか?」と尋ねたら「私はいびきがすごいからね」と答える。愕然として懸命に先に寝ようと思ったのですが、やはり先をこされて、悩まされ、その夜眠ることができなかったことがありました。はたと思い当たります。何故、ゲツセマネで弟子たちは先を争うかのように寝てしまったのか。彼らは無意識の内に、受難週の苦しみから逃れようとしたのではないか。寝てしまうことによって、自分だけは闇夜の戦いを免れようとしたのではないか、と。彼らはその夜、いい夢を見たかも知れない。しかしその傍らで、彼らの分まで苦しみを負われて、独り、祈り続けられたお方がいたのです。

 私たちの生活には、どうしても、そういうことがあるのではないか。あなたが嬉しいのなら、誰かがそのために悲しんでいるのではないか。あなたが涼しげなら、その分汗を滴らせている、誰かがいるのではないか。まるでそうしなければ、世界の喜びと苦しみの天秤が、釣り合うことはないかのように。

 例えば、今年も学校の合格発表がありました。合格すると、皆が褒めてくれます。「よくやった!」「お前が頑張ったからだ。」「君って頭いいね。」そうかもしれません。しかし物事には別な見方があるのです。異なる角度から見ると、事態は全く違って見えてくるかもしれない。入学試験に何故合格したのですか。それは、誰かが自分に代わって不合格になってくれたからです。枠が初めからあるのです。その枠の中に、自分を無理矢理ねじ込んだら、誰かがこぼれ落ちるのは必至です。掲示板の前で誰かが泣いている。だから、あなたの春の喜びがあったのです。合格した者は、その事実を忘れてはなりません。

 例えば、「一人の結婚は十人の悲しみ」と三浦綾子さんはエッセーに書きました。一組の結婚が成立する時、その周辺では、誰かが失恋し、子を手放す親の悲哀があり、結婚できない者の嫉妬が渦巻く。一つの春の喜びが生まれた傍らで、誰かが眠れないほど苦しんでいる、その事実をハッピーな二人こそ忘れてはならないのです。繰り返し申します。幸いと苦しみのバランス、これは不思議な、とても不思議な、この世界を支えている、人と人を結びつけている神様の作られた定めなのであります。

 誰かは、苦しまねばならないのです。

 何故、イースターの前にレントの季節が備えられているのか。それは、私たちがこの春の祭りを迎えるために、何が起こらねばならなかったかを忘れないためです。実は私たちこそ、目を覚まして祈らねばならなかったのです。私たちこそ、十字架で血を流さねばならなかったのであります。しかし主は私たちに代わってゲツセマネで祈られ、私たちのために十字架について下さいました。だから私たちは、この春、枕を高くして眠れたのです。

 この主イエスの御受難を忘れたところでなされる復活祭、つまりレントなしのイースターは底が浅い。そこでどんなにお祭り騒ぎをしても、その喜びはまことにはかない。誰かの貴い犠牲の上に、私たちの今の喜びがある。その事実に感謝し、心に刻みつけた時、私たちはこの春の恵まれた境遇の値打ちを、本当に知り、掛け替えのない宝として、心から大切にすることができるようになるのであります。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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