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1998年 月 日 「被造世界の復活」

1998年 「被造世界の復活」(ローマ8:19)

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」
(ローマ8:19)

 私たちの教会は四月二六日に開催された教会総会で
『讃美歌21・交読詩編』の全面採用を、全会一致で決議しました。
この出来事は二〇〇〇年六月に予定されるガルニエ社の
パイプオルガン設置と相俟って、二一世紀の西片町教会に
ふさわしい教会音楽の飛躍的発展をもたらすことでありましょう。
期待で胸が高鳴ります。

 『讃美歌21』は、昨年の二月に出版されましたが、それは
いきなり出版されたのではありません。六年前、
教団讃美歌委員会は、讃美歌改訂に対する意見を
集めるためのモデルとして『改訂讃美歌試用版』を
出版しています。その中に納められていた一曲に
「美しい大地は」があります。四国の僻地で開催された
オルガニスト講習会で、それを初めて皆で歌いました時の
瑞々しい感動を今でも忘れることができません。歌いながら、
この歌はまさに新しい「讃美歌集」を生み出す必然性をも
歌い上げていることを直感し、感激で声がつまって
うまく歌えないほどでした。

 この歌に心動かされた人は多いのです。ある会で
『改訂讃美歌試用版』に関してアンケートが取られました。
どの歌が心に残ったのか、そう問われた時「美しい大地は」
がトップに入りました。その結果は、この美しく哀しげな
メロディーが評価されただけではなく、現代人が、今どれほど、
神に創造されたままの「美しい大地」の回復を祈り求めて
いるかの表れであったと思います。

「美しい大地は 私たちの神が 与えられた恵み、
貴い贈り物。分け合い、助け合う、希望満ちる大地、
そのすべての物は みんなの嗣業だ。」(『讃美歌21』四二四)

 讃美歌一編が出版されたのは一九五四年です。
日本における「公害の原点」と呼ばれる水俣病の公式発見が
一九五六年のことでした。その後、怒濤の如く私たちの
大地を覆った公害の嵐、農薬、ムダなダムや河口堰に
よる河川環境の激変、チェルノブイリに代表される原発の恐怖と
その放射性廃棄物の処理問題の無策、最近は、諫早湾の
干拓事業による累々たる海洋生物の死骸がテレビに
映し出されていました。私はその映像を見る度に「被造物が
虚無に服した」「被造物が呻いている」(ローマ八章)と絞り出すように
記した使徒パウロの言葉を思い出さないことはありません。
この「被造物の呻き」を、真剣に自分たちの呻きとして聞き始めた
のは、最も早い人で水俣以後であって、五四年版『讃美歌』は
この問題を一切知りません。この被造物の呻きの責任を
負う私たち罪人が悔い改め、甦りの主に被造世界の復活を
祈る歌が、人類存続の危機が叫ばれる21世紀を迎える
今こそ必要であり、その止むに止まれぬ思いの中で、
新しい歌は誕生したのであります。

 何故、被造物は虚無に服したのか。その理由を
パウロは「神の子」喪失にあると考えているようです。
「 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んで
います」(8・19)。「待ち望む」。この言葉は「頭を上げて
注意しながら心から待ち望む」という意味であり、大変強い
「待ち方」が含蓄される言葉です。この言葉の中に「頭」と
いうギリシャ語が実際に含まれていて、これは動物の頭を
指す場合によく使われるそうです。そこから連想したのか、
ある注解者は、ここで犬の姿を思い出すように読者に
促しています。犬は待つ存在です。実に我慢強く待つ。
飼い主が来るのをじっと待つ。その気配を少しでも見せると、
犬は頭を上げて神経を尖らせ集中するのです。被造物の
姿はその犬の姿に象徴されると言うのです。熱帯雨林の
切り株が、放射能汚染された山河が、長良川が、諫早が、
今、飼い主の帰りを耳をピンと立てて待つ犬のように、真の
大地の管理者、神の子の出現を待ち望んでいる。

 神の子とは、先ず、御子イエス・キリストのことであります。
二〇〇〇年前、この御子イエスを見た瞬間、被造物の
第一の喜びがあったことでありましょう。しかし、その御子が
被造物同様「口を開かない」(イザヤ53・7)ことをいいことに、
私たちは被造物同様、利用し尽くし、汚し、その末に役に
立たないと棄てました。しかし、預言者イザヤは噴き出すように
言う。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と。
ニュースで、チェルノブイリで被曝した美しい少女の絵本が
紹介されていました。その一枚の絵は、一羽の母鳥が、
放射能の雨の中、大きく翼を広げて傷つき血を流している
姿です。そしてその下の巣には小鳥たちが、その翼の下に
守られている姿が描かれていました。

 自らの貪欲のために、打たれるはずであった私たち。
自然の復讐を受け、生命を真っ先に奪われるはずであった
私たちを、神の子自らが苦しみを負って下さり「御翼の陰に
隠し」(詩編17・8)守ってくださる。死に勝たれた命の力を
もって、私たちを滅びから甦らせて下さり、洗礼を授け、
神の子の身分を与えて下さる。この神の子イエスを
「長子」とする「神の子たち」の出現を、被造物は「切に
待ち望んでいる」のであります。

 言い換えれば、私たちは受洗して神の子となった時、
思いもかけず、被造物の深い期待に応え始めるのです。
動植物や山河が、教会を出てくる私たちの姿を見た瞬間、
歓喜する。私たち人間が神の子となるとは、その管理を
受ける被造物の復活に結びつくからです。ですから私たちが
受洗するとは極めて私的な事柄でありながら、極めて
公的な事件であり、それは私的な喜びに留まらず、
全地球的な喜びであり、動植物にとっての新しい時代の
到来なのであります。私たち一人一人が、主の贖いを信じ、
神の子とさせて頂くことから全ては始まる。被造世界の
復活という大それたこともまた、私たちの心の中で起こる
小さな信仰から始まっていく。逆に言えば、信仰とはかくも
大きなもの。私たちの復活信仰とは、世界の復活に
結び付く、限りなく大きな力だと言われているのであります。

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