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1998年 6月14日 「死刑制度は神の御心か?」

1998年6月14日 「死刑制度は神の御心か?」

  説教者 山本裕司
  (出エジプト記 21:12)

人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。(出エジプト記 21:12)

 死刑制度の存廃は、現在、国論を二分する重大な議論である。また、現在、オウムの犯した凶悪犯罪があり、その首謀者である麻原が、何ら良心の呵責を感じていないことが、その裁判を通して明らかににるにつれ、現在、国論は死刑存続の方向に一気に傾いていったような気配を感じさせる。

 最近、オウム関連裁判の判決が次々に出るようになったが、最近の新聞で、坂本弁護士の母親が、その殺人罪に問われている麻原と岡崎に対してこう発言していることが紹介されているが、この言葉もおそらく相当の日本人が支持するような世相に、現在はなっていると思う。

 「麻原と岡崎に差があるのはわかりますが、私にとっては、麻原は全国引き回しの上死刑、岡崎は市中引き回しの上での死刑、その程度の差でしかありません。」

 また、このオウム事件以前からその傾向は始まっていたが、一時、死刑執行を躊躇しているかに見えた、国家(法務大臣)も、世論の動向を見て自信を回復したのか、死刑執行を容赦なく断行するようになった。

 それでは、私たちキリスト者はどう考えたらよいのだろうか。キリスト者は死刑制度に反対するものだと、漠然と思っている人もいるかもしれないが、教会員の考えも実は国論と同じように二分されるのではないかと思う。難しい問題なのだ。

 ある法律の専門家は、死刑に関して考える時「私たちはいつしか哲学の領域に足を踏み入れていく」と語っている。つまり、その人の死生観、善悪に対する理解、さらには経験、それらが絡み合って、この究極の刑罰に対する態度を決めると言うのである。私は、死刑制度に反対する立場であるが、もし自分の子供が殺されたら、復讐心を押さえることができないかもしれない。従って「経験」ということも、この判断に大いに影響を与えることであろう。

 このような迷いの中に陥る時、私たちは聖書を紐解く。しかし、聖書を「逐語霊感説」(聖書の各語が一字一句に至るまで全て神の霊感によってなったとする説)的に読むことは過ちを招くばかりだし、申命記の食物規定を日本人キリスト者が誰も守らないように現実的ではない。だから、どんな聖書の言葉も、そこに解釈を加えて読む必要がある。その解釈の基準もまた聖書にあり、違う頁の聖書を良く読み、今、ここにおける神の言葉とは何かを祈り求めて、選択し解釈していく必要がある。「…必ず死刑に処せられる」(出エジプト21:12)、こうあるから、神が死刑制度を支持しておられるとは、単純に言うことはできない。

 そこで、私が注目する聖句は、むしろ出エジプト21:13の「故意でなく、相手を殺してしまった場合」の法である。このような「過失致死罪」の場合は、罪を犯した者は「逃れの場」に逃れて生き延びることができるという定めである。逃れの場とは、最初期は聖所が用いられたが、その後、特別な一つの町が設けられたようだ。ここに罪人もまた「生きることが許される場所がある」という神の大いなる憐れみが既に見られる。そして、この神の御心を拡大解釈し、意図的に人を殺害した殺人者にも「逃れの場」はあり得ると考えることは、全く許されないことなのだろうか。

 主イエスこそ、山上の説教に典型的に見られるように、旧約聖書の言葉を自由に拡大解釈され、真の神の御心を発見されたお方である。その主イエスは御受難の際、同じく磔の刑を受けている犯罪者の一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と約束された。これは、楽園が逃れの場と言うより、主イエス・キリストこそが、犯罪者の「逃れ場」と言うべきであろう。殺人者は死刑にならなくてはならない。その掟を動かすことができない時、殺人者に代わって、主イエスが死刑になって下さる。そのことによって、出エジプト記21章に記される死刑制度は終わってしまったのではないか。「目には目を、歯には歯を」の同害報復の律法は、この御子の十字架によって一切が充たされてしまったのではないか。

 従って、この十字架の主という「逃れの町」に入りさえすれば、つまりその十字架上の犯罪人のように自分の罪責を認め「悔い改め」さえすれば、その人の命は守られるべきなのではいか。今回オウムの林郁男が死刑判決を免れたことは、真実に悔い改めた者を、殺す気にはならないという、私たちの自然な気持ち(この自然な気持ちの背後に神の御心が隠されているのではないか)が裁判に影響を及ぼしたと思う。

 しかし、ここでもう一度確認したいのは、死刑を免れるというのは、主イエス・キリストという逃れの町に入ることが前提だということだ。つまり「悔い改めて福音を信じる」ことが前提である。悔い改めなければ、キリストの救いの力は、その人に及ばないか、半減するであろう。しかし、それなら悔い改めない者なら、死刑にすべきなのかという問いが改めて表れてくる。悔い改めない人はいるわけで、麻原やヒットラーなら死刑も免れないということになり、死刑制度はやはり、そのような者のために、温存されねばならない、という議論になっていくと思う。

 しかし、十字架上で、キリストを呪ったもう一人の犯罪人に対しては、主イエスは沈黙を守っておられる。「あなたは楽園へ」とも「地獄へ行くのだ」とも、どちらとも言われなかった。それは、犯罪人がどちらにでも行く可能性があることを、その沈黙をもって暗に示しておられたのではないか。今、悔い改めていない人も、将来、悔い改める可能性があることを、主は捨てておられないのではないか。従って罪人は、生きている限り、キリストという逃れ場に向かって、あるいは、キリスト教でなくとも、少なくても「真理・良心」という逃れの町に向かって、たとえ遠い道のりであっても、進み続けることが求められているのではないか。つまり
全て罪人は獄中で「求道生活」に入ることが求められている。そして、その真理に至る道が遠く険しく、なかなかたどり着けなくても、途中で、その人を死刑にしてはならないのである。

申命記には、過失致死罪についての法が、出エジプト記より詳細に記されているが、遺族の怒りから免れるために、逃れの場に急ぐ罪人を守る、真に注目すべき掟が記されている。

 「復讐する者が激昂して人を殺した者を追跡し、道のりが遠すぎるために、追いついて彼を打ち殺すことはあってはならない」(19:6)。

 つまり、逃れの場に到着する前に、いきり立った遺族が、罪人に追いついて殺してしまったという事件があったようなのだ。それを禁止する戒めである。私は、現在の死刑制度を考える時、先の出エジプト記21・12ではなく、この申命記の御言葉をこそ、神の御心の中心と捕らえるべきだと思う。現在、同害報復の考えが死刑制度(応報刑思想)の根拠になっているが、しかし、刑罰の目的は教育にあるという新しい考え方(教育刑思想)があるそうだ。一度、幼児体験などで破壊されてしまった魂が、キリスト教信仰を得たり、真の良心に目覚めるためには長い教育期間が必要であろうが、林郁男のように悔い改める可能性は誰にでも残されている。死刑は、その人間の可能性の一切を奪うものである。さらに私たちキリスト者にとっては、死刑制度は、犯罪者に聖霊が働くチャンスを奪う、してはならない行為、神の力と、神の時を妨害する不信仰な制度ではないか。それが故に、私たちは、常に死刑制度に「疑問符」を付けざるを得ないのである。

  (婦人会例会における聖書研究より 1998年6月14日)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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