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1997年10月11日 「希望から離れず」

1997年10月11日 「希望から離れず」 日韓合同修養会開会礼拝説教
  説教者 山本裕司
  (コロサイの信徒への手紙 1:3~23)

日韓合同修養会の主題聖句でありますコロサイの信徒への手紙の朗読をもって、祈りつつ待ったこの集会が始められました。私は今、講壇の席に座っておりまして、この手紙の素晴らしい言葉を、愛するソウルチェイル教会の兄弟姉妹方と共に聴くことのできた感激で胸が高鳴りました。

 これはコロサイの教会に宛てた言葉ということではなくて、まさに今の私たちの教会、ソウルチェイル教会と西片町教会に宛てられた使徒パウロからの手紙と感じられました。

 「どんなことにも根気強く耐え忍ぶように。」(1:11)私たちは、根気強くありません。不幸が続くと直ぐ我慢できなくなるのです。そして教会に対して投げやりになったり、この世の力に頼ったり、信仰すら捨ててしまうことがあるのです。コロサイの教会も問題を抱えていたようです。この手紙を読んでまいりますと、結婚式の際よく朗読された言葉が出てまいります。3:18~19「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない…」。このパウロの勧告の前提になることは、家庭生活の崩れであります。妻が夫に仕えなくなっている。夫が、妻につらく当たっている。子供を苛立たせる父親。両親に逆らう子供達が溢れていたらしいのです。

 おそらくそれぞれの家庭に悲しみがあり、その苛立ちの中で「根気強く耐え忍ぶ」心を失ってしまった結果でありましょう。その中で、キリストに対する信仰を疎かにして、手っ取り早く思える2:8「人間の言い伝えにすぎない哲学」に走ってしまった者もいたらしいのです。そのように忍耐を失ってしまった教会の人々に、パウロは耐える力を与える言葉を、思い出させようとしているのではないでしょうか。それが「希望」という言葉であります。1:23「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」。

 熱烈なファンを多くもつ日本の代表的漫画に「明日のジョー」があります。主人公ジョーは、何の目的もなく、ただ喧嘩に明け暮れる町のチンピラでした。しかしジョーの底知れない才能に気がついた、一人の老トレーナーがいました。老トレーナーはジョーを説得して、プロボクサーになることを勧め、自分の言う通り練習すれば、必ずチャンピオンになれると約束する。ジョーは最初、老トレーナーを馬鹿にします。そして再び悪事を働き、監獄に留置される。しかし、そこに一枚の葉書が舞い込んでくる。老トレーナーからの手紙でした。そこにはボクシングの基礎、ジャブの撃ち方が記されている。そしてその題は「明日のために」と書いてあるのです。

 この通信教育を信じて、自棄にならず練習し続ける。「そうすればジョーよ、明日は必ず来る。チャンピオン・ジョーの明日が必ず来る!」そう希望をジョーに与えたのです。ジョーは練習を始めます。「明日」の希望が「今」のジョーを変えたのです。彼はどんな苦しい練習にも耐え忍ぶことのできる、この上なき禁欲的なボクサーに成長するのです。必ずチャンピオンになれる。その明日の希望です。それが、自棄を起こさず、今の苦しい試練に耐える力となる。希望はこのように人を変え、人を生かすのです。

 老トレーナーは「必ずお前はチャンピオンになれる」と、ジョーを励ましました。しかし本当に、人は誰もがチャンピオンになれるのでしょうか。実は、このドラマは、ジョーがバンタム級の世界タイトル戦で敗れ、しかもそこで死ぬところで終わるのです。「明日のために」今、耐えろと言われても、本当にチャンピオンになれるのか私たちは不安になります。どんなに努力しても、結局、敗北で終わるのではないかと思うと、真面目に信仰生活をしていることがバカバカしくなるかもしれません。

 実際、注解書を読んでいましたら、コロサイという町の名は、紀元61年以降、どの文献にも出てこなくなるそうです。どうしてか。それは紀元61年にコロサイを襲った大地震のためだったのではないかと推測されているのです。コロサイの教会の「明日」は、チャンピオンになるどころか、町ぐるみの崩壊であった。そういう明日が私たちに待っていないと誰も約束することはできないかもしれません。

 もう一つ、別の話をさせて下さい。作家大江健三郎のエッセーに「チャンピオンの定義」という話があります。ある日、見知らぬ男から電話があった。「亡くなられたお兄さんにとって、あなたはチャンピオンだったんですね。あの方自身が実際にこの言葉を使われました。」大江は反射的に反論するのです。「兄弟で文学を競い合って、僕が勝利をおさめたという意味合いでしたら、兄はそうは考えなかったでしょう。」それに対して男は言う。「確かに、お兄さんの言い方は、あなたが文学の上で自分より優れているということではなかったと思います。でも、弟が私のチャンピオンですから、と言われて、それから咳き込まれて、実はよく分からぬところがあったのです。」その話を聞いた瞬間、大江健三郎は、過去のシーンをはっと思い出しました。彼が高校に入った頃、兄が古書店で見つけた「コンサイス・オックスホード・ディクショナリー」を買ってきてくれた。健三郎にとっての初めての洋書。夕食も忘れるほど興奮して読んだ。兄は「何か面白い言葉を見つけたか」と問うた。大江はその時、「チャンピオンという言葉」と答えCODを読み上げた。「ある人のために代わって戦う者。」そしてこう言う。「僕はこれまでチャンピオンという言葉から、大切なことを他の人の代わりにやる役目を思いついたことはありませんでした。それから40年、兄と僕がチャンピオンという言葉を二度と話題にすることはなかった。しかし兄はそのシーンを、ずっと覚えていたのだ。」

 電話してきたその男は、癌で死にかかっている兄に不躾にもこう質問したそうです。「来世のこと、魂の救いについて、あなたはどう思うか」と。それに対して、兄は「弟が私のチャンピオンだから」と答えた。その意味は、自分は森の谷に残ったためできなかった仕事を、東京に送り出した弟が代わりにやってくれる。来世のことを。魂の救いのことを。それは弟に聴いて欲しい。彼が私のチャンピオンだから、と言ったのです。私はこれを読み、深く感動しました。

 自分がチャンピオンにならなくてもいいのです。チャンピオンの定義は、「ある人のために代わって戦う者。」「大切なことを他の人の代わりにやる役目」。私たちのために私たちに代わって勝利して下さる方がおられる!コロサイ1:5、ここに「蓄えられいる希望」とあります。まるで、財産がどこかに貯金されているかのような意味で、希望が語られている。つまり、希望は既に存在している。明日の勝利の希望は、もう厳然として天に存在している。天とは、神の右にキリストが座している場です。だから希望とは、主イエスキリストのことです。1:18「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです」。御子が第一の者、チャンピオンである。罪と死に勝利されたチャンピオン。このチャンピオンの存在によって、私たちもまた勝利することができる。チャンピオン・イエスが十字架とお甦りを通して、勝利して下さった時、私たちの明日の勝利も決定したのです。それが希望です。間違いないのです。これほど確かなことはないのです。

 この確かなる明日の勝利を確信するが故に、私たちは、今日、信仰の戦いを根気強く耐えることができる。明日、地震が来るかもしれない。明日、不幸があるかもしれない。しかし私たちはそれでも、今日、伝道の業を続ける。今日教会を建てる。諦めることはない。改革者ルターが言ったようにです。「明日世界が終わっても、私は今日林檎の木を植える」。何故なら、その終わる、この世の向こうから、勝利者イエスが下さる「真の明日の希望」の光が、私たちを常に照らすからであります。


 祈りましょう。  私たちの救い主イエスキリストの父なる神様。ソウルチェイル教会の兄弟姉妹と共に、素晴らしい希望の言葉を読み、耐え忍んで生きる根拠を与えられ感謝致します。日本の教会に代わって、韓国教会が悪魔的な力と戦い、勝利した歴史を忘れることはできません。日本の教会も、私たちのチャンピオンである韓国教会に励まされて、不信仰と反キリストと戦うために立ち上がることができますように。また日韓両教会が等しく崇めたてまつる真のチャンピオン・イエスキリストの勝利を信じ、主の主権を教会と国に、さらに打ち立てていくことができますように。

(1997年10月11日)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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