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1997年 月 日 「大逆転の物語」

1997年 「大逆転の物語」

  説教者 山本裕司
  (ローマの信徒への手紙 4:19)

そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。(ローマの信徒への手紙 4:19)

 大逆転の物語。人類が延々と、様々なヴァリエーションを駆使して語り続けてきた物語。いつの時代もどこの国でも、人はそれを聞くと、呪縛から解き放たれ、熱狂し、泣き、爆笑する。その原物語こそ、創世記に表れるアブラハムとサラの物語ではないか。この秋も、私たちは、日本シリーズで、西武の大逆転を待ち望み、またサッカーにおいては、まさに起死回生と思われる逆転に快哉を叫んだ。しかし、それもこれも、このアブラハムの物語の逆転劇の前に色あせてしまう。その歓喜すらみすぼらしく見えてしまう。何故なら、例え、西武が優勝していたとしても、日本代表がワールドカップ出場を決めても、それは真実の逆転ではない。小逆転かもしれないが、大逆転ではない。大逆転の物語が生まれるためには、コンマ一ミリの勝利の可能性も元々私たちの側にないことが前提なのだから。

  「アブラハムは…既に自分の体が衰えており」。この新共同訳の翻訳では、大逆転の物語は生まれない。原文ははっきり「死んでいる」と書いてある。「衰え」たくらいなら、もしかして…ということもあり得るではないか。実際、旧約聖書の物語では、アブラハムは老いたとはいえ子を産ませる力を持つ男と描かれている。しかしパウロは、旧約聖書の物語をさらにラディカルにリメイクして、体が衰えたなどという生やさしいことではない。「死んでいた」と断じた。サラも同じで、「サラの子宮は死んでいた」(19節)とある。旧約聖書よりさらに話がオーバーになった。どうしてか。それはパウロが、24節の伏線としてアブラハムの物語を語ろうとしているからではないか。「主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば…。」主イエスが死んで甦られたのだ。これは新約の人しか知らない。この新約の物語を知ると、人は旧約の信仰者以上にラディカルになる。異常になる。非常識になる。人々の嘲笑を浴びるほどに。一切の可能性は失われているにもかかわらず、なおそこで望みを失わない人を物語ることができるようになる。それが、パウロがリメイクしたアブラハムの物語。しかし、その異常な出来事なしに、物笑いの物語なしに、きっとこの世は生きるに値しないつまらない場所になってしまうことだろう。サッカーの熱狂は、私たち閉塞状況にいる日本人が「真の大逆転の物語」をいかに心待ちにしているかの表れに過ぎない。

 ところが、私たちは、ついぞ大逆転の物語を味わうことがなかったのではないか。何故なら、私たちは頑固で、自分の中に何の可能性もないことを認めないからだ。自分に失望しながらも、なお自分にしがみついているのではないか。 

 「自分の中になおどこかに希望があるように思ったり、全然 見捨てたものでない、と思っているかぎり、神の約束は我々に迫ってこない。御子イエスの十字架も復活も、そこでは空念仏に終わる」(『ローマ書講解説教』Ⅱ竹森満佐一著)。

 例えば、現代教育論の主流となった、ルソーやペスタロッチは「教育とは、人間の中に潜在する何かしら良きものを引き出すプロセス」と考えた。教師は、子供たちに内在する可能性を引き出す役割があるにすぎないと強調された。人間には内在するパワーがあるという楽観主義は、カウンセリングの分野においても、ロジャーズが主張し、来談者中心療法という形で応用された。カウンセラーを訪れる来談者は、既に自分の中にその問題の解答をもっている。従ってカウンセラーは指示を出さないで、その内在している答えを引き出す手伝いをすればよい。だからこれは非指示的カウンセリングとも呼ばれた。これらは大切な教えだが、このスマートな考え方だけで教会教育や牧会カウンセリングをしたとしたら、最後の砦である、教会の中からも大逆転の物語は永遠に失われることであろう。

 パウロの神学にそんな格好良さは
「ない。彼は断固として、内在する力のひとかけらも認めない。「衰えている」などというレベルではない。私たちは死んでいる!何という惨めさ!そう叫んだ。では、それほどの悲観主義の中で、何故 彼は「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(4:18)と、楽観的に突然語り始めるのか。私たちの内からではない。私たちの中からではない。外から、高い所から命の光が差し込めるから。

 クリスマスが来る。「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(ルカ1 78~79)。アブラハムの大逆転の物語を再体験した老ザカリアはこう喜びの声を上げた。内からでなく、高い所から来る光だけが強い、と。私たちは、深い喜びの中で、この光を「指示」する。「非指示」などと寝ぼけたことを言っている暇はない。このザカリアの子ヨハネが、「見よ!神の小羊」(ヨハネ1:29)と、全身が人差し指のようになって指し示したように。

 御子イエス・キリストが来られる。私たちの内側がどんなに貧しくとも、キリストが外から来て宿って下さる時、私たちにも大逆転の物語、勝利の物語が始まる。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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