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1997年 月 日 「原罪を担う幼子」

1997年 「原罪を担う幼子」

  説教者 山本裕司
  (ローマの信徒への手紙 5:12)


このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。(ローマの信徒への手紙 5:12)


 「原罪」を思い起こさせる言葉です。原罪とは絶望の教えです。悲観論の極みです。昔の人はアダムの罪が、後から生まれる全ての人に遺伝したものと考えました。後天的ではない。先天的なのです。

 「先天的」という意味を、詩編はこう表現しようとしたのかもしれません。「彼らはいと高き神を試み/反抗し、その定めを守らず 先祖と同じように背き、裏切り/欺く弓で射た矢のようにそれて行き」(78:56~58)と。

 聖書の「罪」という言葉は「的をはずす」という意味ですが、この詩編は「弓矢」の例えを用いて、原罪の深刻さを巧みに表現していると思います。人間は「的を当て」なくてはなりません。正しく生きねばなりません。ところが、何故か「的をはずす」。どうしてか。それは、ねらいが甘かったからでしょうか。呼吸が合わなかったからでしょうか。引き絞りが足りなかったからでしょうか。詩編詩人は「そうではない」と言うのです。「欺く弓」という言葉があります。文語訳では「くるへる弓」。新改訳では「たるんだ弓」。弓そのものがくるい、たるんでいる。そうであれば、射手はどのような精進努力をしても、的を射ることは永遠にできないでありましょう。そこが、道徳との違いです。道徳は、あくまで射手が努力すれば、次は的を当てることができるかもしれない、という楽観論です。しかし、聖書は、人間の努力の限界をみている。罪の手強さの前に人間の精進もまた空しい。矢はそれる。どうしても。そう悲観する。どちらが正しいのか。それは私たちが自分の姿を直視する時、分かってくるのではないでしょうか。

 使徒パウロは言いました。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。この悲痛なパウロの嘆きに、道徳はどう応えることができるか。何故、欲望に負けて、墓穴を掘るようなことをするのか。何故、言葉一つにブレーキがかからないのか。心の中に次々に起こる、憎しみ、嫉妬、それを自分でどんなに払いのけようと思っても、直ぐ心がそれで一杯になってしまう。努力の問題でない。道徳ではない。それなら何か。誰がこの罪の流れに、ブレーキをかけるのですか。そう問われた時、パウロは「イエス・キリストによって」と大声で語る。「ただこの方だけだ!私たちの望みは」と。

 原罪の教えは、私たちを絶望させるような重さをもっています。捻れた弓を、人が顧みないように、私たちは自分自身に愛想をつかして、自分を投げ棄ててしまいたくなる。しかし私たちが、そういう罪と死の支配のただ中にあっても、決してこのパウロの不動のキリストに対する信頼を忘れてはならない。原罪に勝つキリストの恵みを決して、忘れてはならない。自分に絶望する時こそ、このキリストの勝利の光を求めようではありませんか。

 「最後の訪問者」という小さな物語があります。クリスマスの夜、ベツレヘムの馬小屋で御子イエスがお生まれになられた。羊飼いたちが駆けつけ、やがて東の国の博士たちもお祝いにやってきます。馬小屋は沢山の人で賑やかでした。けれども皆帰って行きました。ヨセフも眠り、幼子イエスも眠り、目を覚ましているのは母マリアばかり。そこに一人のぼろをまとい、しわだらけの女が入って来ました。マリアが魔女でははないかと恐れつつ見つめると、女がイエスのそばにたどたどしい歩みで近づいて来る。そして懐から何かを取り出して、幼子に渡して帰ってしまう。それだけのことです。ところで老婆は何のプレゼントをしたのでしょう。その贈り物が何であるか分かる前に、マリアの目の前で、この贈り物を渡した途端、老婆の肩も腰もすっと、曲がっていたのが治り、低い馬小屋の天井に背が届くほど、背筋を伸ばした。顔もたちまち若々しくなり、美しい女性になって出て行ってしまった。見ると、幼子イエスの手に渡されたのは林檎であった、と書かれてあります。林檎とは、原罪の果実、禁断の木の実のことです。(ラテン語の「林檎」という言葉は、罪という意味ももっているため、禁断の実は林檎と考えられるようになったそうです。)この物語で一番大切なところ、それは、この老婆がやっとの思いで幼子に近づいて行こうとすると、眠っていたはずのイエスがふと目を開ける。そしたら「その開けた御子イエスの目と、老婆のしわだらけの顔の中の目と同じ目だった」と書いてあります。この作者は何が言いたいのでしょう。幼子イエスが女の林檎を抱え込んで下さった。女の原罪と死を全て一身に担って下さった。その瞬間、逆に老婆の腰は伸びたのです。重荷(原罪)から解き放たれたから!

 幼子イエスは、原罪の故に、うずくまってしまいがちな私たちの重荷を、全て引き受けて下さるために、クリスマスの夜、お生まれ下さいました。私たちの肉体は、御子イエスを迎えても相変わらず、病み衰えているかもしれない。相変わらず、腰は痛むかもしれない。しかし、私たちの魂の重荷は、しっかり主が担って下さったのですから、心の背筋は、伸びるのです。道徳では決してできなかったことが起こる。魂の足腰の力は甦る。原罪に逆らい、どこまでもこの主イエスに従い行くしもべとなることができるのです。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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