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1997年 月 日 「二重三重の封印」

1997年 「二重三重の封印」

  説教者 山本裕司
  (マタイによる福音書 27:65~28:1)


「『あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。』そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に…」 (マタイによる福音書 27:65~28:1)


 主イエスのご遺体は、重い石で塞がれた墓に納められました。さらに祭司長たちによって、番兵が配備され、墓石に封印がされたと記したのは、他の福音書にないマタイの著しい特徴です。マタイがこう記すことによって暗示したのは、死の現実の強力さだと思う。人は死ぬと、悪霊に捕らえられ、墓から決して出られない。厳重なバリケードを築かれ、封印をされ、生き返ることはできない。マタイは、そう誰もが経験しなければならない、死の絶対的な拘束を語りながら、本当に言いたかったのは、主イエスだけは、違ったということです。二重三重に及ぶ、墓の中に閉じ込めようとする死と罪と悪魔の築いた壁を、イースターの朝、主イエスは「蹴破り」(讃美歌21―290番)墓から出て来られる。「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」(28:2)。石の上に天使が座ったとは、墓石(死)の力が空しくされ、これも神に支配されてしまったことを意味する。また、屈強な番兵も神の前では「死人のよう」(28:4)な存在でしかない。「甦りの命の力に対抗できる滅びの力はない、どんなに主を墓に閉じこめようとする企ても無駄だ!」、そうマタイは、ここで復活の快哉を叫んでいるのです。

 「棕櫚の主日」の午後「パンの会」で、映画『ショーシャンクの空に』を皆で観ました。これはこの季節に最もふさわしい作品。まさにこれは受難とイースターの物語です。若き銀行副頭取アンディーは、殺人の容疑で逮捕される。無実の主張も空しく、終身刑を宣告され、収監されたのは、不正と暴力が蔓延するショーシャンク刑務所でした。孤独と絶望が支配する世界。しかしその中で、アンディーは希望を捨てない。彼は自分で思っているだけではなく、まるで説教者のように、同囚の友に「希望」を語り続ける。モーツアルトの「フィガロの結婚」のレコードがあるのを発見したアンディーは、懲罰覚悟で放送室の扉に錠をかけ、全館放送で流すのです。囚人達は美しい歌声に聞き惚れてしまう。それは、音楽によって、閉ざされた世界に風穴を開けようとする希望の行為です。野外拡声器の下に、囚人が皆出てきてしまい空を見上げる。微動だしない高い壁に閉ざされた牢獄。しかしそのショーシャンクの上にも開け放たれた空は広がっているではないかと、描かれる。我々を縛ることはできない。音楽と空(天=神)から来る自由を奪うことは誰にもできない。そこで「絶対的」と思われていた牢獄が「相対化」されてしまっているのです。

 ついに二〇年間待って巡ってきた無罪証明のチャンスがきます。しかしそれは無惨にも打ち砕かれる。誰もが彼は、空しい幻想を抱いたが故に、しっぺ返しを受けたのだ。諦めていれば、そんな失望もなかったのに、そう思った暗い夜、彼は堅い牢獄を打ち破って自由の中に躍り出る。その時アンディーは、両手を空に高々と掲げて歓喜の雨を浴びる。これは、映画で最も美しい場面だと思いました。墓のように封印された牢獄の中で、しかしアンディーが忘れることがなかった「空」。これは私たちにとって、甦りであり、命であり、主イエスキリストでありましょう。

 「封印」(27:66)とは、「雅歌」が花嫁を「封じられた泉」(4:12)と呼ぶように、あるいは現金書留の割印のように「これには所有がある!」との断固たる主張でありましょう。主イエスの墓石に押されたのは「死の封印」。しかしイースターの朝、悪霊の封印が引きちぎられてしまったのであるなら、次に「封印」の話はどうなるかということであります。

 「わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は…大声で呼びかけて、こう言った。『我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない』」(ヨハネ黙示録7:2~3)。

 終末の破局を目前にしている時。四人の御使いが、満を持して、今か今かと、大嵐によって罪に汚れたこの世を破壊しようと待ちかまえています。その時太陽の出る方角、東(イースターの朝の光を連想させる)から一人の御使いが飛び込んでまいりまして、四人の天使に「ちょっと待て」と大声で叫ぶ。そして飛び回って神の僕達の額に刻印を押してまわる。彼等が最後の審判を無傷でくぐり抜けるため。この神の判を額に押してもらえる僕とは誰のことですか。

 この喜びの朝イースターに、二人の若い兄弟姉妹が刻印を受けようとしています。古代の主教キュリロスは、洗礼を「破ることの出来ない聖なる封印」と名付けました。受洗するとは、そうやって、私たちが「神のもの」にして頂くということです。死と罪の封印を切り裂いて、墓から飛び出してきて下さった甦りの主の「所有」とさせて頂いたということ。書留封筒がどこへ運ばれても、封した人の所有であることに変わりがないように、私たちがどんなに神から遠く離れたと思われても、私たちの魂には「これは甦りの主のもの、他人は触れるべからず!」と「印」が確かに押されたということであります。

 『ハイデルベルク信仰問答』(問六六)の答には、サクラメント(洗礼と聖餐)とは「目に見える聖いしるしであり、印章である」とあります。そうすると神様の判子と言うのは、洗礼だけでもない。聖餐もそうです。洗礼は一度だけです。しかし私たちはこの後、生涯、月毎の聖餐に与かり続けるのであります。これも神様の印章だと言われる。祭司長たちは、主イエスを二重三重に死と絶望の中に封じ込めようとしたと申しました。今私たちには全く逆の意味の二重三重の封印が取り囲むのです。洗礼と聖餐の恵みの印章によって、私たちは罪と死と悪魔の襲撃を跳ね返すことができる。何重にも何重にも築かれる、神様のバリケードによって、甦りの防波堤によって、必ず守られるのであります。だから甦りの主はその朝、婦人に言われました。「恐れることはない!」。

 アンディーは自分だけで、自由を謳歌したのではありません。同囚の友を、自由の中に招くのです。甦りの主も、私たち死と罪の虜である囚人を、そうやってご自身の復活の中に招き入れてくださるのであります。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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