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1997年 5月25日 「急ぐあなたに告げる」

1997年5月25日 「急ぐあなたに告げる」

  説教者 山本裕司
  (ローマの信徒への手紙 1:17)


福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒へ手紙 1:17)


 私は、よく三階の牧師室から外の景色を眺めます。旧中仙道沿いの町並みを見下ろします。僅かな歳月の間にも、この三階から、どんなに人が急ぐ姿、走る姿を見たことでありましょう。信号が変わったとたん競走馬のように走り出す男。自転車に跨り、歩行者を蹴散らすように急ぐ学生達。授業に遅刻しそうなのでしょうか。研究が間に合わないのでしょうか。春には合格発表がある。掲示板を目指して突っ走った受験生もいるかもしれない。

 五二年前、この地域一帯も空襲を受けました。その時も道を人々が難を逃れて右往左往したと思う。戦争は終わりました。しかし現在も、そうやって出世競争、経済戦争、受験戦争などと呼ばれる戦争は続いている
のではないか。

 走る人たちの傍らに、この礼拝堂が六二年間微動だにせず建ち続けてまいりました。その玄関に、次週主日の説教題が掲げられ続けた意味を小さく見積もってはならないと思う。今朝の説教題を「急ぐあなたへ告げる」と致しました。急ぐあなたへ、走るあなたへ、教会は告げる言葉を持っている。それは、今朝だけのことではなく、どんな題であろうとも説教題とは、旧中仙道を走る人たちに告げる言葉であります。そして看板の言葉と会堂のたたずまいに引かれ、どれほど多くの者達が、ここに駆け込んで来たでありましょう! 今朝、急ぐ私たちに与えられた言葉は、先ず旧約聖書ハバクク書であります。預言者ハバククの時代は、国際的な大変動の時代でありました。かつて支配を欲しいままにしていたアッシリア、エジプトが凋落し、新バビロニア帝国が、オリエント世界の覇者として君臨した時代。ハバククの属する小国ユダは、エジプトとバビロニアとの間を右へ左へと逃げまどいました。そしてついに、バビロニアが襲ってくる。豹のように、鷲のように飛びかかってくる侵略者。その時、ユダの人々の心にあるのは、滅びの恐怖でありましょう。ただ闇雲に突っ走る。生きたいからです。死にたくないのです。しかし本当に走った先に、救いがあるのか冷静に考えることもできなくなっているのです。

 その時、預言者ハバククに神からの託宣がある。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ」(2:2)。マラソン中継を見ていたら、苦しそうに走るランナーにコーチが、大声で指示していた。耳元なのにメガホンで。小声では聞こえない。メモじゃ目に入らない。この時の神様の思いっていうのは、電光掲示板のように、御言葉を可能なかぎり大きく掲げたということであられたと思う。その掲げられる言葉こそこれであります。「神に従う人は信仰によって生きる」(二・四)。これをローマ書の核心で引用した使徒パウロの思いはこうであったと思う。「ここを見なさい!ただ走るだけじゃだめだ。急ぐだけじゃ生きられない。信仰をもって急ぎ、信仰をもって走らなければ生きることはできない。正しい者は信仰によって生きる!」

 勿論信仰とは、言ってみれば「もう走らなくてもいいのだ」という教えであります。パウロはダマスコ途上を憎しみをたぎらせ走った時、福音を叩きつけられ倒されました。そこで「走らなくて救われる」と教えられたのに、しかし、彼はどういうわけか、前にもまして走り出した。子供が一粒の飴を買いに走った時、見知らぬ男から豪華なケーキを貰う。「ただで」、「走らなくても」。しかしその時、子供が喜びのあまりもっと速く走り出すように。だからパウロは言いました。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピの信徒への手紙3:13~14)。走りたいのです。走らずにおれない。喜びの風に押し出されるから。

 私たちも走っています。歩いています。しかしそこで、問われているのは、その走り方、歩き方の問題だと思う。パンの会で『デッドマンウオーキング』を観ました。この題は、死刑囚が処刑室まで歩く姿を表しています。その時死刑囚は、まだ生きているはずなのに、もう死人の歩行になっていると言うのです。既に顔が真っ青だからでしょうか。恐怖でふらふらの足取りだからでしょうか。

 残酷この上なき疲れ果てるビデオを観て、しかし救いはシスターへレンの存在です。彼女は、死刑囚を最期まで付き添う途方もなく重い責任を担う。死刑囚の最も困難な瞬間、デッドマンウオーキングの最中、へレンは青年の肩に手をかけ、耳元で聖書を読み続ける。これは、まさに預言者ハバククが神から命じられたこと以外のなにものでもありません。

 「走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ」。

 「デッドマンウオーキング」、この歩き方は、決して死刑囚だけのものではない。私たちもいつのまにか、死人歩き、死人走りをしているのではないか。だから私たちは、いつも神の言葉を読まなければならない。どんなに忙しくてもです。どんなに急ぐ時もです。急ぐとき、忙しい時、私たちは、御言葉を忘れる。そして、あらぬ方向、落とし穴が待ちかまえる方向に、いつのまにか突っ走るのではないか。だから「忙しいから礼拝を休みます」などというのは、預言者ハバククの心からしたら、実に不可思議な言葉。走る時こそ、どこに行けば生きることができるか、示されねば一歩も進めない。だから「忙しいからこそ、礼拝を守る」。

 礼拝を守るのは、誇るためではない。礼拝を守れない人を裁くためではない。そういう病んだ走りをするためではない。命は人の力によらないということを、神が「ただで」恵みとして与えて下さることを、肝に命じるために礼拝はある。健やかに歩くために、健やかに走るために、御言葉を耳元で聞き続けなくてはならない。その時、私たちの足取りは決してデッドマンウオーキングではなく、都(天国)に凱旋する将軍のようになるでありましょう。

(1997年5月25日)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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