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1997年 4月20日 「喜びの挨拶を交わし」

1997年4月20日 「喜びの挨拶を交わし」

  説教者 山本裕司
  (ローマの信徒への手紙 1:7)


「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」 (ローマの信徒への手紙 1:7)

ローマの信徒への手紙の最初の言葉は、使徒パウロからローマの聖なる者に宛てられた挨拶であります。私たちが手紙を書く場合も、挨拶を先ず記すのが礼儀であるとされています。挨拶は大切だと子供の頃から教わります。


 とても可愛いらしい「ちいさなかごに」(讃美歌二編26)という歌があります。ある婚約式の時、歌のように可愛らしい女性が、是非式でこれを歌いたいと願うものですから、これを選びました。私は、この歌を歌ったのは、後にも先にもその時だけですが、今でもその歌を歌った時の楽しさを覚えています。二節の歌詞はこうです。「『おはよう』とのあいさつも、こころをこめて交わすなら、その一日おたがいに、よろこばしく過ごすでしょう」。きっと彼女はこういう挨拶を交わし合う家庭を作ろうという願いを込めて選んだのだと思う。それは、少女のように見えた彼女だけではない。私たちも「心をこめて挨拶を交わして、その一日を喜ばしく過ごしたい」そう思って朝を迎えると思います。しかし、その夢が、日が少し高くなるだけで、どんなにはかなく消えてしまうものか、家庭生活の中で、通勤通学をする中で感じているのではないでしょうか。むしろ朝、先ず出会う、刺々しい視線であったり、駅に急いだ時、誰かに触れて、怒鳴られることが、一日の始めであったり。朝、オフィスに努めて明るく入ったのに、誰も顔も上げようとしない。そして結局一日、暗い思いで過ごしてしまう。そういうことがあるのではないか。挨拶の声が大きい人が、濁らない一日を過ごしているかというと、そんなこともない。大きな声を出したり、肩叩いたり、それはただ人を使いやすくするため。微笑みを交わしながら、心の中では舌打ちをし、罵倒している。私たちは、挨拶をし合う中で傷つけ合い、挨拶の中で罪を犯すような存在でしかない。そういう挨拶の無力さというものを、私たちは大人になるといやというほど味わうのではないか。

 だから挨拶をしない人の物語もあります。ジョン・バニヤンの有名な作品に『天路歴程』があります。主人公は重荷を抱え、救いを求めて巡礼の旅を続ける男です。その旅の途上でいろいろな人と出会うのですが、彼は、会う人ごとに挨拶抜きで話を始めるという性格をもった人物として描かれています。出会い頭に本題に入る。彼は一刻も早く重荷を下ろして、喜びの人生に立ち返りといと願って「命、命、永久の命」と呼びながら、平原を走った。もうそこで、挨拶の暇はない。直ぐ本題に入る。挨拶は役に立たないという確信です。

 しかし使徒パウロは、ちゃんと挨拶をします。いえ、この上なく挨拶を重んじているのです。それは『天路歴程』の主人公と正反対のようであって、実は心は大変似ていると言ってよい。パウロは挨拶をする。しかしその挨拶を語る中で、もう既に本題に入っている。そうやって使徒パウロは、挨拶は空しいと思っている私たちに「そうではない」と、ここで、挨拶の値打ちを取り戻そうとしていると言ってもよいと思う。しかしそれは、見事な、時候、季節の挨拶をすれば、挨拶の力が回復するというのでもない。そうではなくて、その私たちの貧しい挨拶の中に、何か値高きものが注ぎ込まれることによって、そこに力が盛られるのであります。

 この挨拶には使徒パウロの手紙の本題、つまり福音が、そして主イエスキリストの名が入り込んできているが故に、深い値打ちをもったのです。先の讃美歌のように「この挨拶を交わすなら、その一日お互いに、喜びの中で過ごすでしょう。…悩み多い世の人を、明るく清くするでしょう。」そういう力ある挨拶。それが、今朝伺いましたローマの信徒への手紙の挨拶だと思う。

 「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(ローマ1:7)。竹森満佐一牧師の優れた説教に倣って説明致しますと、この「恵みと平和」とは、元々は、ごく普通の挨拶の言葉であったそうです。「恵み」、これはギリシャの挨拶だった。しかし、元々は実は少し形が違って「あなたに喜びがあるように」という言葉だったそうです。しかし、その挨拶が形を変えて、「恵み」という言葉に転化したのだと言うのです。あなたに喜びがあるように。良い挨拶です。しかし、いくらそう言われたって、私たちの人生が喜びに溢れるわけではない。しかし、この挨拶は、そういう喜ぶ事のできないあなたが、真に喜びうる道がある。それは「恵み」を受けることだと語られているのです。主イエスキリストの恵みです。キリストが十字架の恵みをもって私たちの罪を赦して下さり、取り去って下さった時、この恵みによって私たちは「明るく清く」なることができる。

 「平和」(シャーローム)というのは、ユダヤ人の挨拶でした。この日常的な挨拶を、主イエスが用いられると、それは何と異なった、美しい響きを発し始めるか。復活を信じられず怯えた弟子達のいる部屋に、主は入って来られ「シャーローム」と言われた。繰り返し、何度も何度も言われたのです。「あなたがたに平和があるように」。最愛のイエスを裏切り、暗澹たる心で閉じこもり、もう何も信じられない。赦しも命も信じることはできない。ただ罪と死だけが力を奮っている。そう荒れ狂う思いでいた時、甦りの主が入ってこられる。そして「平和があるように」と挨拶されたのです。その瞬間、その言葉は弟子達の心に現実に平和をしっかりと作り上げたと思う。それ以来、お弟子達、教会の人たちが最も喜んで用いる挨拶は「平和」でありました。しかしそれは復活との深い関わりの中にある「平和」という意味であります。恵みと平和、何でもない日常の挨拶。しかしその挨拶の中に主の十字架と復活が入り込んで下さった時に、その挨拶は、あの讃美歌のように私たちの一日を、私たちの生涯を造り替える力をもった。悲しみの支配が打ち破られ、喜びが立ち現れてくる。

 この祝福の挨拶によって作り替えられてしまったローマの教会の人々のことを、パウロは「聖なる者」(1:7)と呼んだのです。何と大胆な呼び方かと思う。

 「トワイライトゾーン」という映画がありました。それは不思議な出来事を描く短編映画ですが、ある時、その中に「クリスマス・ギフト」という作品がありました。クリスマスの季節、ある町にサンタクロースの衣装をつけましてデパートで働く男がいます。彼の住んでいる町全体が貧しいのですけれども、そのサンタの役をしている男自身が、うだつがあがらない。その町の子供達にプレゼントをあげたいと願いながら、一杯の酒の代金も払えないでいる。クリスマス・イブの夜、とうとうへまをしましてデパートも首になって、消沈の内にごみ袋を外に捨てに出ますと、そのごみ袋から思いもかけないことですけど、おもちゃが飛び出してくる。しかもそれは一つだけでない。次から次へと。その町は、大きな喜びで沸き立つようになりました。次々にその男の所に人々がやってまいります。その人たちの欲しいと思っていたプレゼントがその袋の中から現れ出てまいります。町中の人達が一人ももれることなく、そのプレゼントをもらうのです。もらわなかったのは、そのサンタの衣装をつけたその男だけでした。いえ、その男にもプレゼントはあったのです。彼が本当に願っていたものは、自分がサンタになりまして、こうやって貧しい町の子供達を喜ばせてあげたいことだったからです。イブの夜がふけた時、アパートに一人帰ったその男は、サンタの衣装を脱ごうとする。 脱ぐことが出来ない。つけひげを取ろうする。取ることが出来ない。何故ならそのひげが自分のひげになっていたからであります。衣装も、いつのまにか本物になっている。彼は喜びで踊り始める。そして輝いたと思うと、煙突から煙のように上っていく。そしてメリー・クリスマスと叫びながらその町の空を舞うのであります。

これは私たちにいろんな連想を呼び起こす映画だと思いました。サンタクロースという名は、セント・ニコラオスという四世紀のトルコに生きました司教で聖人と崇められた人のことです。この聖人の伝説に、貧しいが故に、売られようとした三人の娘のために、夜中窓からこっそり金袋を投げ込んで助けた話がありまして、それがイブの夜に贈り物をして歩く彼のイメージとなりました。しかしこの映画に出てまいります男は、そんな子供を助ける金もない。司教でもない。ただのデパートの臨時雇いにすぎない。しかしその男が思いもかけずにまさにイブの夜、何者かの力によって聖なる者(セント)となる。何でそんなことができるのか。

 この映画では何でもない、黒いビニールのごみ袋がとても効果的に用いられています。何も生み出さないはずの、何の価値もないと思われているごみ袋。しかしそこから神の豊かさが溢れ出てくる。ごみ袋のように扱われているこの男が、恵みと平和の力によって「聖なる者」に換えられてしまう。それはまさにここでパウロが語っている世界の出来事ではないかと思う。正しく挨拶もできない私たちが、しかし、その中に恵みと平和を満たされた時、つまり十字架の贖いと復活の命に与った時、この平凡きわまりない私たちも美しい挨拶を交わすことができる。映画のサンタも「メリークリスマス」と喜びの挨拶を空中を駆け巡りながら、人々に告げるのです。これは、伝道者の挨拶です。これがキリスト者の挨拶です。そうやって福音を、御名を挨拶をもって伝える。これが使徒パウロの挨拶です。私たちは貧しい。そんなことはよく分かっている。私たちは駄目だ。それがどうした!神の無限の豊かさは、このような貧しい存在を豊かなものにかえてしまう。 まさにそこで私たちは「聖人」になったと言ってもさしつかえがないと言えるほどの世界を生きるのです。私たちが素晴らしいからじゃない。繰り返し申します。恵みと平和が、それをなさしめるからであります。

 日本語のまことに平凡な挨拶には「おはよう」があり、「こんにちは」があります。マタイ福音書の復活の物語には、イースターの朝、甦りの主が婦人達に「おはよう」と声をかけられたと記されています(28:9)。「おはよう」、何気ない朝の挨拶。しかし、婦人達はこの「おはよう」の主の御声、その柔らかな響きを、生涯宝のように記憶したことでありましょう。暗い闇の夜が去り、光が与えられた。光の朝が、命の朝が、本当に来たことが、この「おはよう」には込められている。そのイースターの朝の甦りの主を思い出しながら、私たちはこれから「おはよう」と声を掛け合うのです。そこで、本当にこの日本語の挨拶の値打ちがまるで変わってしまう。「こんにちは」、これは最近求道者会で読んでおります本の中にこう書いてありました。「こんにちは」、その意味は「今日」もまた私たちは主イエスキリストのものとされている。あらゆる脅かしによっても変わらない神の愛の中に「今日」も安心して生きてよい、そういう「きょう」なのだ。そこでも、この無意味と思われる挨拶が深い意味を獲得しているのです。日本語の挨拶の中に主が入り込んで下さり、貧しいものを聖なるものに変えて下さる。私たちもそのように変えられた。素晴らしいことです!


 祈りましょう。  主イエス・キリストの父なる御神。古い挨拶の言葉を、新しい命溢れる言葉に聖めて下さるあなたの御力を心から讃美申し上げます。私たちもあなたの与えて下さった挨拶を互いに交わし、仕えむつみ、真の平和と喜びの交わりを作っていくことができますように。そして、この祝福を分け与えるために、外に向けても大きな声でいつも、教会の挨拶を語る伝道の歩みを続けていくことができますように。

(1997年4月20日)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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