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1997年 1月 5日 「全てを主に注ぎ出し」

1997年1月5日 「全てを主に注ぎ出し」

  説教者 山本裕司
  (マタイによる福音書 26:12)


「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」 (マタイによる福音書 26:12)


 この礼拝においてマタイ福音書の言葉を読み続けてまいりまして、今朝一九九七年最初の主日から主の御受難の物語に入ることになりました。ここの箇所を解説致します多くの人が、この二六章を読み始めました時思い出すのは、バッハのマタイ受難曲が、この二六章の言葉から始まるということです。昨夜私はその受難曲をもう一度聞きました。そしてそのCDに添付されている解説文の中にこんな解釈が記されています。バッハはこの音楽の中にある暗号をおいている。それは数に関わることだ。「バッハ」という名、これをアルファベットに直し、さらに数に直し足すと「一四」になる。この一四を巧みに、自分の音楽の中に刻み付けていると言うのです。受難曲の最後の部分、主イエスがついに息を引き取られた後、埋葬の場面となります。そこで、こういう歌が歌われます。「私自らが墓となってイエスを迎えましょう」。この「自ら」という一つの言葉に、その歌のフレーズの一四番目の音を当てるということをします。また「墓となって」という言葉に、第一四小節目を当てている。それはどういう意味かと申しますと、この自分のために死んで下さった主イエスを心をこめて葬るのは、一四番目の男、つまりバッハ自身なのだと、密かに自分の音楽の中に織り込んでいくのであります。解説者はそういうことを語りながら、ここでバッハがしようとしていることは、もはや音楽を超えている。音楽以上の何かもっと価値あるものを目指している、そう言うのであります。

 主イエスが死なれる。私たちは愛する人が死ぬと、心をこめて葬りの業を致します。そして無駄だと揶揄されても、やはり沢山のお花で棺の回りを飾ってあげたいと願う。お世話になった人であれば、遠くにいましても駆け付けて葬儀に参列したいと願うのです。まして主イエスです。主が今死なれる。それは主に生前お世話頂いたなどということにとどまらない。その十字架の死そのものに、私たちは深い感謝を献げなくてはならない。その時主の葬りを私がしたいという強い願いが生まれる。だからバッハのマタイ受難曲作曲の目的とは「主の葬り」のためであるとも言われるのです。そこに音楽を超えた崇高さが生じています。主の葬りに心を集める、その情熱をバッハが誰から学んだのでしょうか。このマタイ受難曲は、その始まりに直ぐ、先程朗読頂きました、高価な香油を主に注いだ女について歌われます。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」(マタイ26:12)。その歌は、真に美しいメロディーです。そしてそこには、人間の強い感情のほとばしりがある。それは愛だと、熱烈なイエスに対する愛情だと、はっきり解説者は書くのです。

 一人の女がイエスに近付く。そして石膏の壺を逆さにして高価な香油を注ぎかけてしまう。この香油はマルコ福音書によりますと、ナルドの香油と記されています。これはナルドという植物の根から抽出するもので、高価な輸入品でした。おそらく今で言えば数百万円の価値とお考えになってよいと思います。それを全て主に注いでしまう。そこにどんな香りが広がったでしょう。激しい香りが家じゅうに充満し、それは外に流れ出ていったに違いない。それは贅沢を超えている。もはや大変な浪費です。香りはその性質からして一瞬のものです。それは風に吹かれて流れ消える。目に見ることもできない。腹のたしにならないのです。それだけに、香りを楽しむことは、ついこの前まで日本人の間でとても贅沢な行為だったのです。衣食足りてようやく香りの楽しみを覚えたのです。しかも何十年と少しずつ用いる香油を一瞬にして流してしまった。だから弟子達は憤って申しました。「なぜこんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」(26:8~9)。

 弟子達の頭には、つい先程主イエスが教えて下さった説教が残っていたのでしょう。私たちが先週の礼拝で読んだところです。永遠の生命に私たちが与るためには、どうしたらいいのか。それは25:35以下「それは貧しい者の飢えを満たすこと、渇いている者の喉を潤すこと、住む家をもたない者に宿を与えること、裸の者に衣服を与えること。」それが救われる条件と、主ご自身が言われたではないか。「衣食住」にお金をかけなくてはいけない。貧しい者を助けなければならないと言ったのであります。しかし、この先程の主の説教の模範解答のようなこの弟子たちの「無駄使い!」との大声に、主御自身は、もっと大声で「違う!」とおっしゃる。「この女はよいことをしてくれた。この女は、私の葬りの用意をしてくれたのだ。そして今後福音が宣べ伝えられる所どこでも、この女のしたことは記念される。」そう女をお褒めになられたのであります。

 私は一冊の小さな本を読みました。それは『マザーテレサとその世界』。マザーテレサ、勝れた奉仕活動をしている修道女です。その姿をドキュメンタリー映画にした日本人スタッフが、その撮影でのエピソードや、自分の感想などをまとめた本です。マザーテレサの驚くべき奉仕を、今ここで改めて説明する必要はないでしょう。この上ない献身の生活、この上なき奉仕の生活がそこにある、そのことだけ申し上げればよいと思います。ところがそういうマザーとその下で働く若いシスターの姿に驚嘆しながらも、信仰をもっていない一人のカメラマンがこういう感想を書いているんです。「貧しい人たちの中で一番貧しい者に仕える」。結構だ。しかし自分はどうしても疑問をもつ。何故その貧しさの根本を解決しようとしないのか。彼女達の献身には頭が下がる、しかし「社会改革が目的じゃない」というマザーの言葉は、やはり歯がゆい。根本的な解決にならないのでないか。言うならば、マザーのしていることは、ナルドの香油のような一瞬の香ばしい献げ物に過ぎないと批判しているのです。そして彼の根本的疑問が語られる。それは霊安室の壁の言葉だ。「私は天国へ行く」。また施設の沐浴場にあった言葉だ。「キリストの体」、そして部屋にあった文字「素晴らしいことを神様のために」、これを見た時、自分を拒絶反応が襲った。これらの文字を見ると、それまで素直に感動していたマザーやシスター達の献身が、突然、霧がかかったようにぼやけて疑問に思えてくる。天国で霊魂が祝福されてもしかたがない、そう思う。マザーのしていることは、外科手術を必要としている者に、包帯をしているようなものだ。あるいは、なぜこの「見捨てられた人」の体が「キリストの体」なのか。なぜこの行為は神のためなのか。「汝の隣人を愛せよ」これなら私もよく分かる。ところが「素晴らしいことを神様のために」と言われると、分からなくなる。分からない、分からない、そう繰り返すのです。

 私は思いました。「分からない」それは当然のことだ。彼はマザーテレサが感じているキリストへの吹き出すような愛を少しも理解することができないからだと。そしてこのキリストへの愛が、この貧しい者への献身の全てのエネルギーだということに、この日本人は気付いていないのです。従って、これは単なるヒューマニズムでない。単なる隣人愛でない。キリストへの愛なのです。そしてこのキリストへの愛なしに、人は実は隣人にも正しく仕えることはできないのではないかと私は思う。こんなことも、この本には書かれています。アジア宗教者平和会議、その閉会式にやっと間に合ったマザーは、一〇分ほどの短い講演を行った。会場には不思議な感動が溢れた。そこには多様な宗教の代表者がいた。ところが、マザーの言葉は、全く抵抗なく皆に受け入れられ感銘を与えた。そう聞くと私たちはこう思う。きっとマザーはキリスト教的なことは言わず、いわんやカトリックなどという言葉は出さず、ただヒューマニズムを語ったに違いない。だからどんな宗教者にも抵抗なく受け入れられたに違いない。しかし事実は反対なのだ。話されたことは、まさにキリスト教の話だった。カトリックのことばかりだった。万人向きの話じゃない。自分の信仰を語ったのだ。しかし、それが全ての宗教者の心を打ったと言うのであります。あるいはこうも書いてある。「死を待つ人の家」を取材している時、そこで働いているシスター達は夕方に皆引き揚げてしまう。後は協力者に任せてしまう。カメラマンはそのことが解せない。人は夜中に死ぬ率が高いというのに、臨終を看取るべきシスターたちは帰ってしまう。帰って何をするのか。まず聖体拝領、夕食、夕べの祈り、それから眠るのです。カメラマンは夜も「死を待つ人の家」にいるべきだと言う。しかしその時マザーは言うのです。「私たちはソーシャルワーカー(社会事業家)じゃない。私たちはキリストのもの。私たちは貧しい人たちの中におられるキリストに仕えるのだ」と、言うのであります。

 私はこのマザーのことについて書かれた一冊の小さな本は、このマタイ福音書25:31~26:13までの、この上ない最良の注解書に思えます。私たちの全てはこの主イエスに向かう。それ以外のどこででもないのです。主イエスのことは差し置いて、さあ貧しい者に仕えましょう、と言っても実は人間にそんなことはできないのです。時に、この25:31以下と、26:6以下の香油の注ぎの話は矛盾していると思われてきました。しかし、私は今回初めてはっきり分かったような気がします。この二つの言葉は少しも矛盾していない。それは一枚のコインの裏表だと。これは表裏一体です。真実に、全てを注ぎだして主を愛することと、貧しい者に仕えるということは、一つのことです。どちらか一方なんてことはない。要はヒューマニズムじゃない。キリストへの熱烈な愛です。

 どうしてこんなに主を愛したのだろうか。マザーが、あるいはこの香油を注いだ女の人格が高尚だったからからでしょうか。私はこう思う。それは主が私たちを本当に激しく愛して下さり、その愛の故についに私たちのために命の全てを注ぎ出して下さったことを知ったからだ。そのことを知った感謝のためです。ただそれだけです。そして「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(25:40)と貧しくなられた主が言われるのですから、貧しき人々に仕えるのです。主イエスの献身、それが私たちの献身を生み出しました。それが隣人への愛となる。教会への愛となる。私たちがもし献身ということ、奉仕ということが苦手だとしたら、それは私たちの心が醜いからじゃない。そうでなくて、分からない、分からないと頭を抱え込むカメラマンのように、まだキリストがこの私にして下さったことの万分の一も分かってないからだと思う。キリストのほとばしり出る憐れみを本当に知ったなら、私たちもきっと、真に小さなことかもしれない、しかし愛に生き始めることができる。

 ただ今から聖餐に与ります。この女は香油を全て注ぎました。しかし主イエスは、御自分の血潮を全て注ぎ出しておしまいになられた。そして干からびておしまいになり「渇く」と呻かれました。その血潮を私たち全ての者に与えて下さったのであります。ですからマザーは語ります。「私たちの奉仕の源泉は聖体です」。聖体が生活の中心。だから死にゆく人をほっておいても、夜だけは教会に帰って来て聖体を頂かなくてはならない、と。惑星が太陽を中心とした軌道から外れることがないように、全てはキリストの聖体を中心に回る。しかし、それがどんなソーシャルワーカーにも、社会主義者にもできない、貧しい者への奇跡のような愛を生み出したのであります。この上ないヒューマニズムがそこから生まれる。バッハの音楽もそうです。それは音楽を超えていると申しました。バッハの心にあるもの、それもキリストへ全てを注ぎ出す愛以外の何ものでもない。ところが、それが自分の栄光のために美しい音楽を作ろうとする音楽家のどんな音楽よりも、美しい歌になる。ここに信仰の秘密がある。全てのこの世の美しいものは、神からくるのです。人間だけでは駄目なのです。神の私たちに対する愛の光を映し出す時、私たちも輝くことができる。そのために主の聖餐に私たちは、何を差し置いてもこの一年与からなくてはならない。ここが全ての中心なのであります。人生の中心なのであります。熱と光の源泉なのであります。


 祈りましょう。  主よ、あなたは、私たちのために、全てを与えて下さいました。生命を全て注ぎ出して下さいました。その愛を反射して輝いた無数の人々を、あなたは次々に起こして下さいました。その人たちの教会への愛と隣人への献身が、この世界を闇から救っていることを覚え、あなたに感謝を捧げます。しかもその多くの人を生かしたその同じ光を私たちもまた浴びていることを信じることができますように。そのために今、聖餐に与らせて下さい。その恵みに押し出されて、私たちもまた、自分の全てを注ぎ出す熱い心にこの新しい年、生きることができますように。

(1997/1/5)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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