第22回日韓合同修養会開会礼拝説教「耕し、守る、我ら」2021年10月9日(土)

https://www.youtube.com/watch?v=ECera_Z2dLc=1s

創世記2:1~15

「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(創世記2:15)

説教者 山本裕司 牧師

 本日、コロナ禍のために一年延期されました日韓合同修養会をオンラインによってですが、このように開催へと導いて下さった主なる神様に心から感謝を致します。またこの会のために準備下さった日韓両教会の委員の方々、そしてこれに今参加下さっておられる全ての「きょうだい」たちに再会の喜びの挨拶と共にお礼を申し上げます。

 この時、私たちに与えられた御言葉は創世記ですが、朗読頂いた少し前の天地創造物語に、人間は「神のかたち」(1:26~27)として創造されたと記されてありました。この「神のかたち」というこの上ない尊厳をもった存在として、私たち人間に動物を支配させる、そう書かれてありました。この人間理解が現在の環境問題の元凶であるという批判をキリスト教は受けてきました。しかし「支配する(ラァーダー)」(1:26)という原語は「正しく生かす」という意味があるそうです。言い換えれば、人間は地上のものをよく世話をすることが求められていると解することが出来ます。従ってこれは、好き勝手に収奪することではありません。むしろ「神のかたち」である人間は、その原初に着手された神の創造の御業を、自らの尊厳を用いて完成に向けて奉仕する使命が与えられていると思います。

 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)。神が私たちをおいてくださった「エデンの園」とは、決して無為徒食の世界ではありません。「耕す」ことが求められているのです。神の創造の御業を受け継ぎ、人間にとっても、他の生命にとっても、より良い環境に「園」をケアしていくこと、それが「耕す」ことです。「里」という私たちアジア人がその心の内に抱く故郷の原風景があるのではないでしょうか。そこには青い山がなだらかな曲線を描き、その下に小川が流れ、水田が広がる。それは決して原始の自然ではありません。それは私たちアジア人が数万年をかけて環境を作り変え、人間にも他の生物にも豊かな生態系を育んできたものです。それが可能だったのは、創世記にある通り「耕す」と同時に「守る」営みが忘れられなかったからに違いありません。

 もし人間が「耕す」ことだけに邁進した時、人の力によって「園」は覆い尽くされ破滅することでしょう。その「人新世」を呼び起こした「資本主義」を鋭く問う経済学者斎藤幸平先生はマルクスの『資本論』を解説してこう記します。「できるだけ早く、たくさん儲けたい資本による農業生産は、無茶な連作に走ります。しかし、植物の吸い上げた栄養を土地が再び自然に回復するには、相当な時間がかかります。資本の時間と自然の時間には大きな乖離が生じるのです。自然の時間に合わせることができない資本は、作るだけ作って「商品」として売り払い、あとは野となれ山となれ。「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」が資本家のスローガンです。「商品」の消費地である都市の生活は豊かになりますが、その裏で、地方の農村は土壌疲弊というツケを払わされ、貧しくなっていきます」(100分de名著「カール・マルクス『資本論』より)。しかも『資本論』が指摘するように「商品」の恩恵を受けている都市でも、労働者は長時間労働で健康を破壊されていく、そうやって資本主義は人間を幸せにはしないと断じられるのです。マルクスが取り上げた農業の話は古典的ですが、資本主義とはありとあらゆる「物」を利潤に結び付けるのがその本質です。従って現在のこの環境危機すらも経済成長の「チャンス」と捉えます。西片町教会も危機を察知したからこそ、太陽光パネルという「商品」を一企業から購入したのです。太陽光発電はかろうじて環境にも貢献出来る選択だったかもしれません。しかし今や車を全て電気自動車(EV)へ入れ替えるという経済活動が計画されています。EVメーカーテスラの株価が昨年大高騰したことは記憶に新しいと思います。SDGsによって「持続可能性」が提唱されますが、これによって気候危機を解消すると同時にさらなる経済成長を成し遂げようと企てるのが資本主義なのです。しかし斎藤先生によると、そのための電池原料リチウムはチリが最大の産出国ですが、その採掘とは大量の地下水を吸い上げてなされます。それが生態系に影響を与え、既にエビを餌にしている動物が減少しており、また住民に必須の淡水が減っているというのです。もう一つ電池に必要なコバルトもアフリカ最貧国コンゴから多くが採掘されますが、やはり水質や農産物汚染を引き起こしているのです。つまり先進国における気候変動対策のために、石油の代わりに別の資源が一層激しく収奪されていると言われるのです。同時に地元の採掘者たちに、奴隷労働、児童労働が蔓延しており、まさに「人新世」を呼び起こす自然と弱者からの搾取なしに、EVは成り立たないと言われているのです(『人新世の「資本論」』82~85頁)。そこで人類の中における分断と格差は増大するばかりです。

 そうであれば私は先に天地創造神話を環境破壊の大本と覚える者の存在を指摘しましたが、この資本主義の問題についても、私たちプロテスタントの責任が問われるかもしれないと思いました。それというのも、若い頃夢中になって読んだ、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を思い出すと、まさに改革者カルヴァンの神学から資本主義が興ったと書かれてあるからです。ネットで復習するとウエーバーは、カルヴァンの改革派教理「二重予定説」がその根源にあると言います。信者は神によって自分が救いに予定されているかいないのかは分かりません。しかし一所懸命労働(神からの召命)に励むことが出来れば、真面目な自分は元々救いへと予定されているのだと、自ら信じることが出来たのです。ですから、予定されていない人がやりそうな怠惰と浪費を退け、ひたすら神の栄光のための「勤勉」に生きました。すると結果として金持ちとなります。しかし金は「自分のものでなく神のもの」です。従ってその資本は、隣人愛の発露として、よりよい商品を世に送り出すという社会貢献のために用いられました。それは人々から歓迎され、物は売れ、益々資本が蓄積されて、近代資本主義を成立したと言われるのです。

 それは、今でも私たちプロテスタント信者が人間を見る時の価値観に受け継がれていると思いました。そもそも明治期、鎖国を解いた日本に宣教されたプロテスタントに喜んで入信したのは「侍」たちです。その理由を作家司馬遼太郎はこう指摘します。「明治時代はふしぎなほど新教の時代ですね。(侍たちの)江戸期を継承してきた明治の気質とプロテスタントの精神とがよく適ったということですね。勤勉、倹約、自助、これがプロテスタントの特徴であるとしますと、明治もそうでした。」私たちプロテスタントは勤勉を重んじる禁欲的生き方を、高く評価してきたと思います。しかし言うまでもなく現在、世俗化された資本主義の中に「神の栄光のために」「隣人のために」というプロテスタンティズムはありません。残ったのは「自分の栄光」を求める、神も隣人も「いない」利潤追求のシステムとなりました。それでいて成長のために「勤勉」という倫理は猛威を振るって、過労死や燃え尽きを引き起こします。あるいは「倹約」の倫理は、まさに自然と弱者からの収奪と搾取に転化され、気候変動と分断を同時に招いています。菅義偉(すがよしひで)前総理大臣がお好きな「自助」とは強者にとって「エゴイズム」のことであり、弱者にとっては「放置」であり、そこに「相互扶助」の心はありません。

 しかしカルヴァン主義の眼鏡を外して聖書を読む時、「勤勉」よりも「安息」が強調されているようにも感じるのは怠け者の私だけでしょうか。天地創造物語においても、2:3「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」そうあります。天地創造はその前の六日間よりも、この「第七の日」にこそ力点があると注解する神学者は多いのです。そこで再び土を「耕す」(2:15)という私たちへの使命のことですが、この「耕す」という元の言葉(アーバド)は元々「仕える」という意味だそうです。それは土に力尽くの鍬を振り下ろすと言うより、土に仕え、土を守る意味合いが濃い。そうであれば創世記が言う「耕す」と「守る」とは、相対立する言葉ではなく、実は同義語を並べた、つまり強調と理解出来ると思います。そうであれば、大地の保護、ケアこそが私たち「神のかたち」としての人間への召命だということが分かります。

 そこで「安息」ですが、天地創造物語における神の安息は「十戒」の第四戒・安息日規定の根拠となりました(出エジプト記20:8~11)。さらに、ここから「サバティカル」(安息年)の掟へと拡大されていきます。

 「あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。/ 六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、/七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。」(レビ記25:2b~4)

 さらにサバティカルを七回数えた翌年の五十年目が「ヨベルの年」と呼ばれ、奴隷解放と土地解放の喜びが告げられます(レビ記25:8~12)。信仰無き資本主義による、搾取による格差社会、自然収奪の環境破壊、そこから隣人と土が解放される「ヨベルの年」を設けることを、主は命ずるのです。「時は金なり」との勤勉の徳は、自分だけでなく周りをも疲弊させてしまうことでしょう。だから安息の主は「七年目には全き安息を土地に与えねばならない」と、走り続けるのでなく「休むこと」を奨励されるのです。ソウル老会が「牧師サバティカル制度」をいち早く実践してきたことの意味もここにあると思います。

 斎藤先生は、マルクスがその研究によって発見したことは、環境保護という「持続可能性」と人間の「社会的平等」はワンセットであるということだったと述べます。そこでマルクスが注目したのは蛮族と呼ばれた古代ゲルマン民族の共同体である「マルク協同体」でした。彼らは土地の売買を許さず、木材、豚、ワインなども共同体の外に出すことを禁じました。その強い共同体的規制によって、土壌養分の循環は維持され、持続可能な農業が実現されたのです。そこでは「経済成長」は目指されず、もっと長く働いたり、もっと生産力を上げたりできる場合にも、あえてそうしなかったと言われます。そうやって、組織の中に、権力関係が発生し、支配・従属関係へと転化してしまうことから、共同体を守ろうとしたと言われるのです(『人新世の「資本論」』193頁)。私たちは「もっともっと」という精神状態に支配されている限り、共同体と自然を、同時に破壊することになると言われているのです。

 「もっともっと」という貪欲による破局、それが私たち日韓両教会が、10年間追求してきた原発問題に典型的に表れていると思います。2016年の前々回の合同修養会の福島ツアーでの光景を私たちはもう一度思い出したいと思います。その時、私たちがバスの車窓からの眺めで息を飲んだのは、フレコンバック、土嚢の山です。放射性物質除染のために発生した汚染土壌のフレコンバックの丘は空撮にも収まらないほど福島の地を覆ってしまっていたのです。1センチの用土が生じるためには百年かかる。汚染農地は5㎝を除染のために剥がすので、再びそこが本来の畑になるのは五百年後です。電気がなくても「人間」はその誕生以来、アジア的共同体「里」を「耕し守り」ながら何万年も生き抜くことが出来ました。しかし土がなくなれば、他の動植物と一緒に、創造以前の死のカオス世界に帰らざるを得ません。私たちは自分もそこから形づくられた、その「土(アダマ)」(創世記2:7)への恐るべき「裏切り」の罪を悔い改めることが求められているのです。

 最後に蛇足ですが、斎藤幸平先生はこの文明の行き詰まりに対してマルクスと『資本論』から学ぶことを求めています。私はそれに深く共感しつつ、私が青年時代にしていた、共産主義(中核派)の友達との議論を思い出すのです。友は「共産主義になれば全てが解決するから、君もこの運動に加われ」とオルグ(伝道)するのです。全てとは、社会的矛盾も人生の悩みもということです。だから君が通っている教会も不必要になると言うのです。斎藤先生の本を読んでいると、半世紀近く前のその友人の真剣な顔を何故か思い出すのです。そこで何故自分がそれでも教会に行くのか、上手に説明出来たかどうか分かりませんが、こういう意味のことを答えたように記憶しています。外部の社会制度がどう理想的に整えられても、なお自分の内部の問題が残ると。それは罪の問題です。天地創造神話は、うるわしきエデンの園(環境)と夫妻の関係(共同体)を同時に破壊させたのは原罪であると語ります。資本主義も改革派の信仰が失われた時、悪魔の制度に変貌しました。共産主義も友人が信じたようなユートピアとはなりませんでした。私たちには自らの理想を「裏切る」その罪の問題が残る。それを贖って下さるのは十字架の主イエス・キリストのみ。今回、この危機に際して私たちがなすべき実践が問われています。しかし私たちの第一の実践、それは主日毎に御子に礼拝を献げること以外にありません。それなしに、私たちに真の安息は来ないし、どんな目新しい共同体も持続することはないだろう、そう思います。

祈りましょう。 創造主なる神様、あなたが気の遠くなるような宇宙の広がりと時間を用いて、私たち一人一人の生命、身も心も創造して下さった恵みに心から感謝します。この奇跡のように与えられた生命を、御子の十字架の贖いに与りつつ、あなたと隣人を愛するために、土に仕えるために用いる、その献身を誓い合う日韓合同修養会とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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