日本プロテスタント・キリスト教史とその課題
(韓国基督教長老会ソウル老会主催講演会)
2013年8月23日(金) 山本 裕司 牧師
1. 悲劇の会津藩
今、NHKで、大河ドラマ「八重の桜」が放映中です。私のレジデンスでは、NHKが映るので、その連続ドラマをソウルでも観ることが出来て嬉しく思っています。これは東日本大震災の被害を受けた東北地方を励ますために企画されたドラマです。舞台は会津(原発事故のあった福島県の西部)、時代は幕末(1860年代)です。その時、260年間続いた徳川幕府の支配体制を倒したのが、薩長土肥〈薩摩(九州・鹿児島など)、長州(山口)、土佐(四国・高知)、肥後(九州・熊本)〉の4藩でした。この者たちは天皇を担ぎ、明治維新という革命の勝利者となり、以後、明治政府の主要官職の身分、地位をほしいままにしました。*1 一方、あくまで徳川幕府に忠誠を誓った藩は、反天皇(朝敵)の汚名をきせられるのですが、その中心勢力こそ会津藩でした。そのため官軍(天皇の軍隊)より、会津藩は賊軍とされて、徹底的に痛めつけられました*2 会津城での籠城戦も空しく会津は官軍に降伏*3しましたが、その後も、官軍と明治新政府から残虐な扱いを受け、*4 何もかも収奪されました。*5それは、歴史的に見て、後に大日本帝国と日本軍(官軍)が韓国や中国で行った蛮行と極めて類似しています。官軍の乱暴狼藉、強姦などの屈辱を恐れて多くの武家の女子が自害しました。*6「八重の桜」の中で、会津藩士が錦の御旗を掲げる官軍に対して、このような台詞を語るシーンがあります。「お前たちが作る新しい国は、踏み出したその一歩から既に歪んでおる!」、その言葉通り、歪んだ道を近代日本は邁進し、徹底した天皇制、軍国主義のもとキリスト教を弾圧し、結局、1945年8月15日に自壊したのです。
*1 薩長土肥により作られた明治新政府は、廃藩置県によって旧藩主(約260藩あった)の権力を奪うとともに日本陸軍を創設したが、この軍隊の誕生はその後の日本が軍国主義へと進んでいくことを決定付けた。伊藤博文、山縣有朋に始まる長州閥による日本支配は実に、1965(S40)年以後まで続くこととなったと言われる。
*2 会津藩主松平容保(かたもり)は徳川家にどこまでも忠義を尽くすという家訓にしたがって、新設された京都守護職を受諾した。会津藩は一途に「尊皇佐幕」の姿勢を貫き、京都における長州藩による傍若無人な騒乱を静めるために身を粉にして尽くした。そのため孝明(こうめい)天皇と徳川慶喜からは絶大な信頼を受け、最も頼りにされる存在となった。にもかかわらず薩長から朝敵・逆賊の汚名を着せられ、日本史上、まれに見る残虐さで会津城下を蹂躙された。
*3 1868(M1)年9月22日
*4 明治政府軍は、会津戦争の戦死者・犠牲者の埋葬を禁止したため、長期間放置された老若男女の死体は風雨に晒され、鳥獣に食い散らかされた。半年経ち疫病の要因になる等の理由から、ようやく埋葬を許された。死体処理に、藩士や村人を許さず、被差別部落民を使い、墓ではなく罪人塚という形で認められた。
*5 会津藩領は明治政府に占領され、会津藩士は下北半島(現在のむつ市)に移住させられ、斗南藩を立てた。しかし、痩せた土地で農業は振るわず、雪害で家屋は潰れ、病疫と飢餓により多くの死者を出し、次第に離散していった。この斗南藩の置かれた青森県下北半島は、現在、半島全体が核工場のようになっている。六ヶ所村にはウラン濃縮工場、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター、低レベル放射性廃棄物埋設センター、この他、東通原発、大間原発、むつに中間処分施設建設計画、核関連施設が集まると同時に、三沢米軍基地、防衛省・自衛隊の施設があり、沖縄と類似の問題を抱えている。
*6 1968年8月23日、新政府軍が若松城下に進攻した時、城下では自刃した婦女子が多くいた。家老・西郷頼母邸では妻千重子は幼い娘を刺し殺し、母、娘、親戚たちと共に自害した。第二次世界大戦下の沖縄で起こった集団自決を思い出させる。
2. 殿様に代って真の主・イエスを得て
ドラマの主人公八重は、会津藩士・砲術指南の家に生まれ、女性でありながら、鉄砲の技術に長けていました。会津城籠城戦では男装にスペンサー銃という姿で戦い、幕末のジャンヌ・ダルクと呼ばれました。生き残った八重は敗戦後、失意のうちに兄のいる京都に赴きましたが、そこで新島襄との出会いを経験します。やはり侍であった襄は、1864(元治1)年、20歳でアメリカに密入国し、アメリカで受洗、10年後、1874(M7)年、アンドーヴァー神学校を卒業し宣教師として任職されます。その時、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で説教者に指名された彼は、訴えました。「今、我が国・日本で革命が起こっている、しかし新しい国家は、方針を未だ見つけてはいない。我が同胞の幸福は、物質文明の進歩や政治の改良によってもたらされるものではい。自分は日本にキリスト教主義大学を作るつもりである。その資金が得られなければ日本に帰れないのだ。」*7 (この説教シーンが、まさに、この前の8月18日のNHKドラマ「八重の桜」で放映され、とても感激しました。)
演説が終わるや、たちまち5千ドル余りの寄付が集まりました。最後、新島の前に貧しい服装の老農夫が近づいてきて、2ドルを差し出しました。この2ドルは、彼が家に帰るための汽車賃だったのです。「歩いて帰るつもりです」と農夫は言いました。そういうアメリカ人の厚き信仰と善意によって、新島は、1875(M8)年、京都に同志社英学校を創立することが出来たのです。この神学部からは今も優れた牧師たちが輩出しています。
帰国した襄に導かれて八重は、京都で最初のプロテスタントの洗礼を受けた日本人となりました。約260年間、キリスト教(カトリック)は弾圧されてきたので、京都では特にキリスト教は嫌悪されていました。そのため学校建設が頓挫しかけた時、襄に協力したのが、八重の兄の山本覚馬でした。覚馬は、1868(慶応4)年の鳥羽・伏見の戦い(この戦いで弟の三郎が戦死)に際して、薩摩藩に捕われて同藩邸に幽閉され、失明するなど大きな苦しみを受けました。しかし、彼は、1875(M8)年春、当時大阪で伝道中のアメリカン・ボード宣教医M・L・ゴルドンから贈られた『天道溯原』を読んで感動します。そして、キリスト教こそが真に日本人の心を磨き、進歩を促進する力となり得ると感じて後、日本におけるキリスト教の発展に尽しました。*8
このように、日本における伝道は、士族たちを真っ先に捕らえました。プロテスタントは自らが聖書を読むことが推奨されます。その時、漢文聖書が読めるのは、知識階級であった旧士族たちです。*9特に伝道初期においては佐幕派(親幕府)出身者がキリスト教に入信することが多かったのです。明治維新において、薩長土肥が勝利を得た時、それに対立した会津藩などの佐幕派出身者らは政治の中枢に入る余地は全くありませんでした。当時の横浜には、これら、失意の青年たちが新しい道を求めて、宣教師の英語塾に集まってきました。*10こうして入塾した若者たちの多くが、結局、神に捕らえられたのです。*11 日本最初のプロテスタント教会は、日本基督公会(後の日本基督教会)横浜海岸教会ですが、これは、オランダ改革派宣教師・ジェームズ・バラの英語塾を母体に、1872(M5)年3月10日に組織されました。入塾した少年の一人に幕臣の子・植村正久がいましたが、やはり没落し身を立てるため英語を学びますが、結局、彼も1873(M6)年5月に受洗、後に日本基督教会最大の指導者となります。本多庸一(よういつ)は佐幕派の弘前藩士であり奥羽越列藩同盟に加わりました。しかし形勢不利と見た弘前藩が、会津藩を裏切り官軍に寝返ったのに憤り、脱藩して庄内藩軍に加わり戦いますが敗北します。後にやはりバラ塾で学び受洗し、日本メソジスト初代監督、青山学院院長となります。井深梶之助は会津藩士の子であり、15歳の時白虎隊年少組として八重らと共に会津戦争に加わりました。敗戦後、彼はブラウン宣教師より受洗し、植村正久と共に日本基督教会の指導者となり、明治学院総長として活躍します。
また、江戸の幕臣たちは、元々、徳川家の天領(江戸幕府直轄領)たる静岡に数万人規模で移住させられました。 *12 その藩校にはカナダ・メソジストの宣教師のお雇い教師デイヴィッドソン・マクドナルドが英語教師として雇われたのです。やはりその学校から多くのメソジスト派の伝道者が生まれ、「静岡バンド」が形成されました。*13
佐幕派旧士族は「浮世の栄華に飽くべき希望を有せざりき」となり、「新信仰を告白して天下と戦ふべく決心した青年」(山路愛山*14)となったのです。彼らは殿様に代わって真の主・イエスを得、儒教に代わって福音を得ました。彼らは、キリスト教こそ近代日本の基礎となると確信し、皆、伝道者となりました。
侍がプロテスタントに入信した、もう一つの理由を、司馬遼太郎はこう指摘します。「明治時代はふしぎなほど新教の時代ですね。江戸期を継承してきた明治の気質とプロテスタントの精神とがよく適ったということですね。勤勉と自律、自助、あるいは倹約、これがプロテスタントの特徴であるとしますと、明治もそうでした。」つまり上質な侍とは実に真面目だったのです。それがピューリタン的倫理に「我が意を得たり」ということになったのです。*15
*7 新島は、1874(M7)年、宣教師として帰国し、日本の近代化のリーダーとなる人物の育成を目ざした。
*8 覚馬は維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地(6000坪)を学校用地として新島に譲渡したが、この校地は、現在の同志社大学今出川キャンパスとなっている(「同志社」は覚馬の命名といわれる)。1885(M18)年に妻時恵とともに受洗、1890(M23)年、新島が他界した時、覚馬は同志社臨時総長として、同志社の発展に尽力した。
*9 笹森建美『武士道とキリスト教』84頁、本多庸一は、1869(M2)年に、中国経由で漢訳聖書を密かに入手している。神道には八百万の神がいるのに、聖書の中では万物の創造主である神が一人しかいないのに驚く。禁教令が廃止されたのはこの4年後である。
*10 作家・司馬遼太郎はこう語る(『「明治」という国家』106頁、111頁)。「1871(M4)年の廃藩置県とは、明治維新以上に深刻な革命的社会変動でありました。日本に君臨していた260の大名たちが、一夜にして消滅したのです。士族とその家族の人口は190万人で、当時の人口が3千万としますと、6.3パーセントにあたります。これらが一斉に失業しました。これが他日、各地に士族の反乱をよび、また1877(M10)年の西南戦争という一大反作用を生む原因になりました。明治維新は、士族による革命でした。多くの武士が死に、諸大名は自腹を切ったのです。何のための明治維新だったのかと彼らは思ったのです。士族の子弟は自らを救済する道として、学校を選んだということに注目したいと思います。日本人の学校好きというのは、江戸時代よりも、廃藩置県後の士族という階層の共通した癖でした。"勉強すれば食える〟というふしぎな信仰が、彼らの信念でした。このような気分によって、大正時代までの日本の官界・学会といった学歴社会は、ほとんど士族出身者で占めていました。その理由は、士族には学問をするという家々の文化があったこと、廃藩置県によって、勉強をして学校へゆく以外に自分を窮状から救い出す道がないと考えられたからです。」
*11 安田寛『唱歌と十字架』117頁、著者はそこでの若者と宣教師の会話をこう想像している。「わたしは御校において実用向きの英語を教えてもらいたい。承るところによれば、この学校は耶蘇教の学校だそうだが、耶蘇教は私の大嫌い、耶蘇教を教えてもらっては困る。英語だけを学びたい。」「あなたよろしい、英語だけでよろしいあります。」しかし、若者たちはたちまち熱心なキリスト教徒になってしまったのだ。
*12 1867(慶応3)年10月の大政奉還による江戸幕府の崩壊を予期し得た人物は、討幕派首脳以外ごく少数だった。まして大多数の幕臣やその家族にとって、まさか現実になるとは思いもしない出来事であったに違いない。しかし崩壊は彼らの生活基盤をも一挙に危ういものとした。朝敵にされた徳川家は、かろうじて家名存続が許されたが、幕府時代の1割にすぎない駿河・遠江(とおとうみ)70万石の領地しか与えられなかった。前将軍徳川慶喜も謹慎生活を静岡で送ることになった。旧幕臣たちは無禄でも徳川家に従い新領地に移住する道を望んだ者も多かった。しかし縮小された静岡藩に任官できた者はごく一部にすぎない。大部分の者は、江戸の役宅から退去を迫られ、1868(M1)年8月~ 10月頃までの間に、先の見込みがないまま家族共々静岡に移り住んだ。1871(M4)年段階で県内に在住した旧幕臣総数は13,764人余にのぼるので、その家族や従者も含めれば数万人規模の移住が行われたことになる。
*13 勝海舟が静岡における旧幕臣のための学校を設立した時、アメリカ人教師・E・W・クラークを、1871(M4)年、静岡学問所に招いた。クラークは洋学の他、日曜日には自宅でバイブルクラスを開いた。次ぎに、1874(M7)年4月、カナダ・メソジスト教会の宣教医のデイヴィッドソン・マクドナルドが、学問所閉鎖後に設けられた私立英学塾・賤機舎(シズハタシャ)の教師として赴任した。彼は毎週日曜日に牧師館で聖書講座を開催したところ、9月27日に11名の英学生らに洗礼を授けて、静岡教会を組織した。静岡教会で洗礼を受けた人は、ほとんどが徳川静岡藩の旧幕臣であった。マクドナルドは1878(M11)年に一時帰国するまでの4年間に129人に洗礼を授ける。この弟子たちは「静岡バンド」と呼ばれた。
*14 やまじあいざん、1864(元治1) -1917(T6)、幕臣・山路一郎の子として、江戸淺草の天文屋敷(「頒暦所御用屋敷」、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るために観測を行うところ)に生まれた。1868(M1)年、父は幕府方として彰義隊に加わり上野に籠り、後に箱館で政府軍と戦った後敗北、彼は祖父母とともに静岡に移り、マクドナルドより英語を学び、静岡教会で平岩愃保より受洗。東洋英和学校を卒業後、静岡で3年伝道師として務めた。「護教」の主筆。
*15 明治初期の教会は、戒規の適用に熱心であった。教会では繰り返し倫理的問題が取り上げられている。瞥見すると、姦淫、賭博、詐欺、悪風聞、時に離縁も罪と定められ、陪餐停止、放逐、除名などの裁きを行った。明治期の日本プロテスタント教会の特徴の一つは厳格なキリスト教倫理であった。これは聖書の掟に立脚し、ピューリタン的伝統の中で培われた生活の規律であったが、儒教倫理や武士道によって近似の価値観が日本人の中に既に存在していた。それを徹底し、高次にレベルアップしたかに思えたキリスト教倫理は、当時の日本人上層階級の一部には熱烈に受け入れられた。特に、男女や夫婦の倫理、節制や勤勉の道徳、安息日の厳守といったことは、激しく強調された。しかし、それに耐えきれず教会から除名、脱会を余儀なくされた者も多かった。日本基督教会の場合、1881(M14)~1890(M23)年までの受洗者は9,850名であったが、除名脱会者は983名、また1891(M24)~1899(M32)年までの受洗者7,770名に対し、除名者は3,795名であり、実に1割から5割は脱落者となるという有様であった。日本において、その伝道の熱意のわりにキリスト教が国民各層に広く受容されなかった理由の一つが、この倫理性の高さにあったと言われる。実際、1890(M23)年、日本基督教会・大洲教会が中会へ提出した教情報告「教會の信用」の欄に「厳格なる者と信用すれども自ら入ることを好まず」とあり、大洲でも事情は同じだったのである。当時は民権論者でさえ妾を囲い、一般社会では売春が公然と行われていたが不問に付されていた。女性の不品行はもともと許されることはなかったが、男子の姦淫も厳格に裁いたキリスト教倫理は、男子には特に厳しく感じられたことであろう。(山本裕司『流れのほとりに植えられた木 大洲教会百年史Ⅰ』81~82頁)
3. 明治維新と天皇
明治維新とは、藩ごとに独立国があるようなバラバラの状態だった日本を、一つの国家にまとめ上げるための革命でした。その日本国統一のための最大の、そして決定的な政策こそ「国家神道」の創設でした。この国家神道は、日本に元々ある神社神道と、皇室神道を結びつけて成立した「新興宗教」でした。明治維新とは、一刻も早く鎖国から脱却して開国し、ヨーロッパの科学や技術を学ばなくては、日本は滅ぼされるという危機感をバネに起こった革命です。しかし開国すると、鎖国政策最大の原因であったキリスト教が、技術と一緒に入ってきてしまいます。技術、科学は輸入したいのですが、キリスト教は入れたくありません。そこで言われたのが「和魂洋才」です。開国後、太平洋から押し寄せてくるキリスト教の大波*16 をブロックするために、キリスト教に換わる宗教を必要としました。それこそが国家神道だったのです。ヨーロッパにおいては、キリスト教によって国民が統一されていました。そういう権威あるものが、明治国家は喉から手が出るほど欲しかったのです。しかしキリスト教のような強力な宗教が日本には見当たりません。それで自前の国家神道を作りました。そこで担ぎ出されたのが天皇です。
明治憲法第一条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治する」、第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」と謳ったこの冒頭について、神学者・古屋安雄は、これは天皇をキリスト教の神のごときものとしようと意図したものだと断言します。*17 国家神道・天皇制とは欧米のキリスト教の日本版でした。天皇は神であり、日本のキリストでなくてはならなかったのです。従って、1890(M23)年に「明治憲法」が施行され、国粋主義の時代が到来した時の象徴的事件は、1891(M24)年の内村鑑三不敬事件でした。これ以降、世論は、キリスト教を国体観念に合致しないと攻撃をするようになりました。それに対して、キリスト教界は天皇制国家主義者が唱える「忠君愛国」思想にキリスト教は矛盾しないことを必死に抗弁し、また合致しないと思われるところは自己規制をするうちに、自ら進んで天皇制に奉仕する宗教に変節していったのです*18
*16 古屋安雄『日本の神学』92頁、1872(M 5)年に28人だった宣教師の数は2年後には、66人、その3年後には99人に増えている。日本人で最初のプロテスタント信者は1864(元治1)に1人、12年後の1876(M9)年には1000人をこえ、その9年後には、10倍の1万人をこえた。この計算なら、10年で、当時の人口、3500万人に達する、とまで考えられたのだ。
*17 前掲書35頁
*18 土肥昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史』116頁、参照
4. 「議論する教会」(知識人の教会)の誕生
台湾の教会が「賛美する教会」といわれ、韓国の教会が「祈る教会」といわれているのに対して、日本の教会は「議論する教会」と呼ばれます。*19韓国のキリスト者人口は、現在30%くらいでしょうか。中国でも5〜10%(1億人)といわれているのに、日本は1%未満に留まっています。その理由を、古屋は、これまで述べてきたように、日本では幕末の知識階級・士族、豪農などの特権階級にキリスト教が浸透したからだと言います。そのため教会は、先にも述べたように「くそ真面目」な侍気質もあって、一般大衆にとっては「敷居が高い」所となりました。武士階級は知識階級であったために、日本の教会は、知識偏重、神学偏重の教会となります。礼拝説教も大変難しい説教が重んじられました。上、中流階級中心の教会を形成した植村正久は「我輩の教会に車夫、職工の類はいらない」と言って下層階級、肉体労働者層を排除したのです。栃木県にあります農村指導者養成校・アジア学院には、アジアやアフリカから農業を学びに来る牧師、信徒が多くいます。日曜日に近くの日本基督教団の礼拝に連れて行くと、彼らは、あれが日本の教会なら、もう行きたくない、あんな葬式のような礼拝よりも、自分一人で祈る方が良い、と言うそうです。彼らの故郷では福音の喜びを、歌や踊りで表現する結婚式のような礼拝だそうです。*20 それに対して、日本の教会は説教中心であり、信仰は観念的です。*21従って昔から夥しい「卒業信者」を出しました。教会も学校のように学び終えれば、卒業する所なのです。ある東京の教会で、信仰の平均寿命を調べたら、2.8年だったそうです。*22しかも最大の問題は、教会からの離れ方で、そこには、何の背教意識、罪意識も起こらないと言うのです。
一方、天皇制との戦いが、常に、日本の教会にはつきまといました。それは先に言った通りで、近代日本において、天皇は欧米のキリストの位にあり、両者が対立するのは必然です。最初期の日本の教会は、「神の国」の類比を求める、社会的発言や実践も行われていました。しかし、天皇制が強化されるにつれて、内向きに引き籠もっていきます。「神の国」という福音書の言葉は、日本では全く同じ言葉で「天皇の国」、「神国日本」を表現するために、両者は衝突する概念となりました。そのため、戦争中、教会の説教などで「神の国」という聖書の言葉は言及されることがなくなったのです。*23日本の教会はアジアでは珍しく弁証法神学が1930年代から研究されていました。しかし、そこではバルトの言う「神の超越性」が強調され、社会に対して「超然」と構えるという態度となりました。当のバルトはナチスと戦っているにもかかわらずです。こうして、日本の教会は「塩気」のない教会となりました。福音といえば超越的な救いの教理、「贖罪論」が強調され、個人的な「倫理」(真面目さ)は重んじられても、救われた者が、社会でどう生き、どう行動し、どう証しするか、という「社会倫理」は語られない宗教となっていきました。*24最近、特に憲法を改悪し、天皇元首化と戦争放棄の「九条」の骨抜き、そして原発輸出、再稼働を訴える安倍政権の台頭で、混迷を深める日本の状況があります。しかし、教会は内に籠もりがちで、右旋回を憂える市民たちとの連帯や、その期待に応えることが出来ないままです。
*19 古屋安雄『なぜ日本にはキリスト教は広まらないのか』59頁
*20 古屋安雄 前掲書46頁
*21 日本の礼拝の中で感情表現は希である。今、世界中の教会で、礼拝の中に「平和の挨拶」が行われるようになったが、日本人信者はこれがとても苦手である。
*22 古屋安雄 前掲書58頁
*23 古屋安雄 前掲書50頁 1935(S10)年、高倉徳太郎の信濃町教会の献堂記念礼拝の説教は「神の国と教会」であった。「教会は神の国の牙城でなければならない」とまで言っているが、翌年から、高倉は神の国について語らなくなる。満州事変(1931年)が始まり、15年戦争に入っていたからである。
*24 古屋安雄 前掲書96頁
5. ホーリネス教会への弾圧と富田満
昔、織田楢次(ならじ)という人がいました。彼は日本人による朝鮮人差別を目の当たりにして、自分は朝鮮の民衆と共に生きたいと願い、朝鮮に渡りました。既に祭神を天照大神と明治天皇とする朝鮮神宮が、ソウルに建立され、*25神社参拝が強要されるようになっていました。織田はソウルのホーリネス神学校で学び牧師となり、平壌の伝道集会で「キリスト者の神社参拝は十戒違反である」と大変率直に語りました。そのため治安維持法違反で捕らえられ、激しい拷問の末に、やっと解放されたのは、1938(S13)年6月30日でした。同じ日、織田が、半年前、神社参拝批判をした同じ平壌の教会では私服警官臨席のもと、日本基督教会大会議長・富田満が来ていました。彼は、神社参拝を拒否する朝鮮の長老教会牧師・長老たちに「神社は宗教でなく、国民儀礼であって罪ではない」と講演したのです。*26 この富田の言葉に憤激したのは高名な朱基徹(チュ・ギチョル)牧師でした。彼は織田同様に「神社参拝は第一戒を破っているのに、どうして罪にならないのか」と富田と論戦し、爾来、反対運動に生命を賭すこととなります。朝鮮耶蘇教長老会は第27回総会で神社参拝受容を決議しますが、これに反対した2000名の牧師信徒が検挙・投獄されました。これによって200以上の教会が閉鎖され、朱牧師以下50余名の牧師等が殉教の死を遂げたのです。
一方、日本では1943(S18)年4月、文部省の日本基督教団・第六部、九部(旧ホーリネス教会)処分決定を受けて、教団統理・富田満は、*27獄中にある教師と家族に、教会設立認可の取り消しと、教師の自発的な辞職を求める通知を発送しました。そして、日本基督教団内のホーリネス系の教会は強制的に解散させられたのです。
その直前、青森県弘前で伝道していた、やはりホーリネス出身の辻啓蔵牧師*28は、1942(S17)年夏、治安維持法違反容疑で検挙され拘置所に入れられました。その留守宅には、富田の名によって、留守家族に謹慎を命ずる通牒が送られ、教会は解散させられました。父は刑務所、家族は守ってくれるはずの日本基督教団から逆に追い打ちをかけられるように謹慎させられました。牧師家庭はどうなるでしょうか。極貧の生活となったのです。このホーリネス裁判に証人として召喚された神学者・桑田秀延(日本基督教神学専門学校校長、後の東京神学大学学長)は、やはり日本基督教会出身者であり、日本における最初期のバルティアンでした。彼はそこでキリストの再臨は霊的なもの、精神的なものに過ぎないと述べ、事実としての再臨を信ずるホーリネスの被告人を狼狽させました。*29
富田満統理は、自ら進んで伊勢神宮を参拝して、日本基督教団の発足*30を報告し、今後の発展を希願しました。彼は教団統理者として皇室に招かれ「破格の栄誉」を受けたと歓喜しています。敗戦後も天皇への忠誠心は変わることなく教団総会で「天皇陛下の御意志に従って国体護持に励むように」と指令を出しました。戦後初の教団常議委員会で一議員から問われ「余は特に戦争責任者なりとは思わず」と言い切りました。戦後もキリスト教界の要職を歴任して78歳の天寿を全うしたのです。
しかし、それから約40年後の1984年、日本基督教団は、第六部と第九部の処分の誤りを認めて、関係者と遺族を教団総会に招いて公式に謝罪せざるをえませんでした。
*25 1925(T14)年
*26 石浜みかる「信徒の友」2006年11月号より
*27 1941(S16)年6月24日任職
*28 1990年前後の日本基督教団議長辻宣道牧師の尊父
*29 辻宣道『嵐の中の牧師たち ホーリネス弾圧と私たち』68頁
*30 1941(S16)年6月24日-6月26日に富士見町教会にて創立総会を開催。創立総会は、「君が代斉唱」、「宮城遥拝」、「皇軍兵士のための黙祷」、「皇国臣民の誓い」の国民儀礼を以って開始された。創立総会は「われら基督教信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一とす」と宣誓。日本基督教会大会議長の富田満牧師が教団統理者に就任。教団統理は宗教団体法に基づく権限が与えられており、勅任官待遇であった。
6. 韓国併合時の朝鮮伝道と天皇制
① 日本組合教会の場合
時代は遡りますが、先に挙げた、新島襄に由来する組合教会は、第26回総会〈1910(M43)年10月〉における信徒大会で「新たに加えられた朝鮮同胞の教化」に着手することを決議しています。海老名弾正らは朝鮮総督などを訪ねた後、ソウルや平壌に教会を設立しました。この後10年で、およそ教会数150、朝鮮人信徒数15000人を得ます。これは驚くべき成長ですが、この急激な拡張のために伝道資金を必要としました。募金は信徒だけではまかなえず、政財界に求められ、さらに総督府が機密費より年間6000円が寄付されたのです。また「三一独立運動」の後、憲兵や巡査は、キリスト教を信じるならば、組合教会に行くようにと勧めました。総督府がこのように組合教会を援助したのは、日本の植民地支配に批判的な外国人宣教師を朝鮮人キリスト者より切り離すためであり、組合教会の伝道が「同化政策上」有効であるとみたからです。
三一独立運動に対して組合教会朝鮮伝道部は「時局運動宣言」(1919〈T8〉年4月)を公にし、独立運動を起こすような思想、行動を「矯正」し、「偏狭頑迷なる信仰」を排し、「遊惰荒廃の空気」を一掃し、「健全なる信仰」を育成すよう促しています。要するに組合教会は三一独立運動を予断と偏見でとらえ、官憲の唱える秩序維持に奉仕し、植民地支配の精神的擁護者の立場を取ったのです。*31
*31 土肥昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史』310~311頁など
② 日本基督教会の場合
日本組合教会が事実上、総督府の手先となる中で、日本基督教会の牧師たちは対照的で、良心的でした。*32しかし既に言及したように、この日本基督教会こそ、約20年後、富田満を立て、神社参拝を強制し、日朝両国における信仰的節操を喪失させた中心的教派となるのです。こうなってしまう理由こそ、その信仰が観念的であったこと、*33 また同時に天皇制の強固な呪縛のために、明治期より元々、日本基督教会も含めて日本のキリスト教界全体が、結局「日本的キリスト教」*34 、もっと言えば「天皇教キリスト派」に止まってしまったことが挙げられます。
日本基督教会の地方教会・大洲教会の記録を見ると、1903(M36)年11月3日、天長節感謝会が朝山加寿百長老の司会で初めて開催されています。以来、毎年欠かさず、教会はこの日、祈祷会や祝賀会を行うようになりました。*35 また、明治天皇大喪の折、朝山長老が「羽織袴(和服における男子の第一礼装)は必ず着用すべき事を公示」したところ、佐藤六郎牧師が「貧困にして服装なきは不敬にあらず、無きものは飾ずとも差支へなし」と反対したことが朝山の逆鱗に触れているが、このような形で、天皇制ナショナリズムは教会の中に浸透していきました。また天皇祭祀が日曜に重なることも多くあります。そのような時、教会は迷わず日曜学校を休校にし、大洲教会が天皇制国体に忠実であることを内外に示しました。1920(T9)年10月31日の週報を見ると、その礼拝順序の中に「君が代」、「天長節礼拝」が組み入れられ、また天長祝日のため日曜学校が休校にされている、との記事があります。このように日本基督教会もまた、天皇制に忠実な宗教であることを公にしてきたのです。*36
この結果、日本の教会は、社会的不正義と差別、そして国際関係悪化の元凶である「天皇制」と戦う姿勢が著しく弱い教会として形成されていかざるを得なかったのです。
*32 1919(T8)年5月1日の「福音新報」では、京城の秋月到牧師が「生命の尊重」と題し、堤岩里教会事件に対する正しい報道をなし、日本キリスト者の良心に訴えている。あるいは、伊予新谷出身の鈴木高志牧師は、1915(T4)年、朝鮮郡山日本基督教会、1918(T7)年、釜山日本基督教会を歴任したが、極めて朝鮮に対して同情的だった。彼は1919年に「福音新報」で、三一独立運動等に関して正論を述べている。歴史学者・金田隆一はこの鈴木高志に代表される朝鮮中会に属する日本人牧師たちの三一独立運動に対する理解と連帯感が、当時の日本の教会全体からして、最も優れた告白共同体であったと高評している(『昭和日本基督教会史-天皇制と十五年戦争』236頁)。
*33 古屋安雄『日本伝道論』22頁「教会が実際に困った問題、天皇崇拝、神社参拝などの軍国主義と衝突せざるを得なかった問題を、知的に巧妙に回避している。バルト神学の超越的な反文化主義を盾にそれらの問題と正面から取組むことをしなかった。とくに国家神道というタブーにふれまいとして、バルト神学を、かっこうの隠れ蓑として用いたのであった。」
*34 五野井隆史『日本キリスト教史』290頁
*35 山本裕司『流れの畔に植えられた木 大洲教会百年史Ⅰ』155頁 1904(M37)年2月21日夜、日露戦争のための祈祷会を開催し、「陸海軍のため、従軍遺家族のため」を課題に祈っている。
*36 天皇制とは、国民に対して強権をもって臨み、服従を要求するだけではなく、国民に対する天皇の恩恵をうたい、国民は感謝の思いをもってこれに報いるといったイデオロギーである。1912(M45)年2月25日、政府の呼びかけによる神仏基の「三教会同」が行われているが、これは、この天皇制イデオロギーの宗教界への適用であった。日清、日露の戦争協力に見られるように、キリスト教をそれほど危険視する必要はないと考えた政府は、この会同にキリスト教を加え、国民道徳の振興についての協力を要望した。キリスト教側は、政府の一視同仁の態度を歓迎し、神仏2教と同等の待遇を受けたことを無批判的に喜ぶばかりの宗教となったのである。(土肥昭夫 前掲書133~134頁)
7. 「戦争責任告白」とその扱いについて
このような日本プロテスタント教会の脆弱さ、信仰の抽象性、内向きな姿勢を問い続けたのが、西片町教会牧師の鈴木正久です。彼は、教団に統合される以前の『日本メソジスト時報』編集者として、ドイツの反ナチスの教会闘争を紹介したり、日本の戦争政策を巧妙に風刺して抵抗しました。*37 後に日本基督教団諸教会の体質改善を求め、社会問題に取り組む教会となることを推進し、また教団総会議長となった時、「第二次大戦下における日本基督教団の責任について」(1966年)を発表して、以下のように日本基督教団の戦争協力の罪を懺悔しました。
「しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。」
しかし、この鈴木正久議長に主導された日本基督教団改革路線は、結局、教団を2分することになりました。「戦責告白」に対する反発が底流にあり、またその直後に起こった万国博へのキリスト教会館出展問題から、左派と右派の対立が激化していきます。さらに東京神学大学機動隊導入問題*38 を巡って、いわゆる「教会派」と「社会派」の立場が鮮明となり、歩み寄ることなく現在に至っています。*39 紛争以後、約25年は勢力拮抗か、やや「社会派」が有利であったと思いますが、1996年以後、教会派の小島誠志牧師が教団議長に選出されてから、保守的な「教会派」が主導権を握りました。3年前の教団総会より、選挙制度を自分たちに都合良く変えて、常議委員の全席を「教会派」で独占出来るようにしました。そのため教会の社会的活動は影を潜め、ただ「伝道に燃える教団」というスローガンのもと、低落著しい教勢の挽回だけに邁進する体制が出来上がっています。特にその教団を支えているのが私の属している東京教区です。東京教区は内部に5支区を持ちますが、この中で戦責告白を重んじることを表明して、積極的に社会問題に取り組んでいるのは、北支区のみです。しかし、そのために北支区は東京教区と教団から目障りな存在となっています。
*37 森岡巌・笠原芳光『キリスト教の戦争責任』241頁
*38 東京神学大学が学生によってバリケード封鎖がなされた時、東神大教授会が機動隊を要請してバリケード封鎖を鎮圧した事件。1971年の日本基督教団東京教区総会も左右の対立が先鋭化し機動隊が投入された。以来、20年間、東京教区総会は開けなかった。
*39 昨秋(2012年)の第38回日本基督教団総会で、日本基督教団と教団立神学校・東京神学大学との関係の回復の議案が可決をされた。日本基督教団は「東京神学大学機動隊導入の誤りを認める決議」を第18回教団総会(1974年)で可決している。この決議を一切問題にすることなくなされたこの関係回復は、大きな禍根を残すことになると思う。
8. 教勢低落とその原因
日本基督教団主流派の教会は高齢化が著しく進んでいて、年金生活者が多数を占めています。現在の学生、青年たちは、世俗的関心が強く、覗きには来ても、教会に自らを委ねる気持ちにはなりません。明治維新後の「浮世の栄華に飽くべき希望を有せざりき」佐幕派青年、また1945(S20)年の敗戦後の価値観の激変の中で、「神的確かさ」を求めて教会に来た夥しい青少年たちの時代は遠い過去です。子ども、青年、有職者も「浮世の栄華」と「この世の確かさ」を求めて、勉強と遊びに忙しく、教会に来る暇はありません。生活のために苦闘する人々に、かつて教会が与えていた、心躍る物語や、慰めは、あの手この手を使って飽きさせないで、献金もしなくてもいい、テレビドラマやJ/K-POPが代わって見聞させてくれる時代です。
敗戦後、68年間、生涯を通して教会に仕えてきた高齢者たちは、もはや限界です。教団は、10年後には「墜落」とも言える凄まじい教勢低落が起こることは、統計上間違いありません。その原因の一つが、大衆、民衆にキリスト教が浸透しなかったためです。また、自分の家族、特に子どもたちへの伝道が失敗しているからです。絶滅危惧種のようなもので、その生物の生存は未だ確認されますが、子孫を残す力はもはや残っていない、そういう生命力の涸渇が教会に蔓延しています。日本人信者たちが何も必死でよその人に伝道しなくても、自分の家族、特に子どもや孫に信仰を伝えることが成功していれば、今ほどの教勢低落は起こらなかったはずです。古屋は信仰継承が失敗した理由を、ここでもこれまでの論調同様にこう指摘します。「それは、牧師をはじめ信徒たちが知識人らしく、(あるいは自分も知識人の仲間入りをしたくて)、子どもたちを教会学校より塾に行かせたからではなかろうか。また、子どもたちは、親の価値観を継承して、偏差値で人間を評価しているのではないか」*40 と。*41 勿論、これまで指摘してきたように、信仰継承が困難であった理由は多々ありますが、もしこの分析が少しでも当たっているとしたら、やはり教会にとって残念なことです。この教勢低迷を「戦責告白」や「社会派」のせいにする保守派は、今言いましたように、伝道を強調して、既に15年以上が経過していますが、その間も教勢低落に歯止めはかかりません。偉い先生を招いた伝道集会や、トラクト配布で、問題が打開出来るようなレベルの話ではないからです。
それに対して、韓国はキリスト教大国となりました。その理由を、歴史学者・金田隆一はこう指摘しています。「朝鮮キリスト者の神社参拝に対する抵抗と殉教こそ、独立後特に韓国における教会の隆盛の最大の要因であり、70年代の韓国民主化闘争の担い手となったのである。」*42 一方、古屋はこうも指摘します。「日本の主流的なプロテスタント教会は殉教者の出ない教会である。ホーリネス教会などに殉教した牧師たちが数人いたが、主流教会には一人もいない。宣教師にも牧師にも、信徒にもただの一人もいない。これが韓国の教会との違いである。」*43
教団が伝道停滞に悩むなら、これらの言葉こそ、大きな示唆を与えるのではないでしょうか。つまり、形而上的な説教であっても、それが自分たちの生き方、行動の根本的変革を迫るものでなければ、現代人へのインパクトはないと思います。説教が、軽い慰めで終わっているなら、今言いましたように他のもので簡単に代行出来る時代です。今こそ、主イエスから示されている、教会にしか出来ない、使命に立ち帰る時です。私にはこの日韓教会の差異によって、主イエスの御言葉がまさに真実であったことが明らかになっていると思いましたので、最後にこの言葉を朗読したいと思います。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ福音書12:25)
*40 「教師の友」(教会学校教案誌)にこういう記事がありました。キリスト者の家庭で育った、そのY少年は、受験が近付いた中3の時も教会学校に通い続けました。野球部は日曜日も練習や試合があるので入りませんでした。教会学校の同じ学年に、同じく教会員の子どものS君とT君がいた。彼等は中学2年頃から教会へぱったり来なくなった。しかし彼だけは教会へ通い続けた。そして彼等3人は有名なA高校を受験しました。S君とT君は合格して自分は落ちた。次の日曜日教会で教会の子どもについての報告がなされました。その時「S君とT君は、A高校に合格しました」と報告された時「すごい」という声が、細波のように礼拝堂に広がりました。「Y君はB高校には合格しました、おめでとう」と牧師は報告しましたが、会堂は静まりかえっていました。そしてY君は思いました。自分の父母も含めて、教会の大人たちの本音はどこにあるのだろうか、と。Y君は、高校生になったその春から、教会に行くのを止めました。
*41 古屋安雄『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか』133頁
*42 『昭和日本基督教会史-天皇制と十五年戦争』239頁
*43 古屋安雄 前掲書 24頁
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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