創世記と環境問題


深刻な環境問題に対するキリスト教の責任ということが叫ばれて
います。その責任追及は、キリスト教を超えて、聖書そのものにまで
及んでいます。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、
地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1・28)

 この御言葉に基づく、人間中心、人間優先の自然観こそ、環境破壊
元凶だと言われるのです。そして人間と自然と渾然一体と理解する
東洋的宗教にその克服を見るあり方が主張されます。しかし、そうで
あれば、聖書とキリスト教の影響が極めて低いこの東洋日本で、
いわゆる欧米のキリスト教国家に勝る凄まじい自然破壊が(海外に
まで輸出されながら)進んでいるのはいったい何故でしょうか。

 「国破れて山河あり」と私たちは、なおあの未曾有の敗戦の後で
すら歌うことが出来ました。しかし、私たちは今「山河」すら
失おうとしているのです。これは日本の第二の敗戦なのではない
でしょうか。そうであれば、自然破壊の原理は聖書にあるのでは
なくて、もっと別のところに見なければならないのではないでしょうか。
むしろ創世記は環境破壊の元凶どころか、この日本の悲劇を数千年前に
預言し、警鐘を鋭く鳴らしてきたのではないでしょうか。

 「ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄で
さまざまの道具を作る者となった。」(4・2)

 自然に手を加えるための鍛冶の始祖トバル・カインは、その名の
通り、エデンの東に追放されたカインの血統から生まれた者です。
このカインは、自分に対する神のなさりようを許すことが出来ず、
自分自身が「善悪の裁き主」となって弟を殺害しました。それは、
まさにその両親から脈々と流れている「神のように善悪を知る」(3・4)
「自己神格化」の罪が表に噴き出した瞬間であったのです。その
血統から、自然改変のための鍛冶職が生まれたと聖書が記す時、
それはこの後の環境世界へ振るう人間の暴力に対する危惧が表明されて
いるのではないでしょうか。つまり自然破壊を行うのは、神と良き
交わりの内にいた「堕落前の人間」ではなく、神を棄て、自己神格化
した「堕落後の人間」によるものだと、主張されているのです。

 創世記にある「洪水物語」は、現在、地球温暖化による海水面の
上昇を恐れる私たちにとって、身につまされる神話です。その洪水は
「ネフィリム」(天使と娘との混血=超人)の出現と連関されて
描かれているのに注目しなければなりません。それは、やはり
自分たちの能力に驕り高ぶった超人(現在の我々はまさに古代人から
みれば超人であろう)誕生によって「悪が増し」(6・5)、それが
理由となって、大洪水が引き起こされるのです。これは、まさに
現代世界を預言しているのではないでしょうか。

 確かに創世記は、人間と自然を渾然一体と捕らえる世界観を
提唱しません。人間は、他の動物植物とは全く異なる存在として
創造されるのです。生物界における人間の特別な地位は、強調しても
しすぎることは決してありません。他の動物とは異なり、私たちは
環境を人為的に造り替える力が神から与えられているのです。

 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人が
そこを耕し、守るようにされた。」(2・15)

 しかし、この「エデンの園を耕す」特権、この神の付与は、堕落前の
人間に与えられたものであることを忘れてはなりません。そして、
問題の「地を従わせよ。…支配せよ。」(1・28)との命令も、同様に、
堕落前の人間に与えられた権威なのです。つまり、自己神格化して
いない、神との良き交わりの内にある人間への命令なのです。

 「支配する」=「ラァーダー」というヘブライ語は、「正しく活かす」
という意味があるそうです(森野善右衛門)。人間は「神のかたち」と
して創造され、特別な賜物を与えられました。しかしそれはタラントンの
譬えにあるように、あくまで神から「預かった」ものであり、自分の
勝手気ままに用いてよいものではありません。その賜物を、自分の
欲望のために謳歌するのではなく、神の御心に従って「神と隣人と
環境」のために用いなくてはならないのです。人間に与えられたこの
生態系における特別な地位とは、神からの委託に応え、神の天地創造の
業を継承・継続していくための力だったのです。それは私たち人間には、
この環境世界に対する無限と言ってもよいほど大いなる責任があると
いうことであります。神の御心を問いつつ、神に服従しつつ、アダムに
与えられた命令の通り「耕し」、同時に「守る」、つまり環境の改良と
保護を弛まずなしていく使命が与えられているのです。

 そのためには、全ては「自分のもの」だと思う自己神格化の原罪を
悔い改め、神に立ち返ることから始めねばなりません。神に立ち帰る
とは、安息日を守ることであります。主日には仕事を離れて礼拝を
することであります。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、
安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(2・2〜3)

 自己神格化と限りなき利益追求の貪欲のために、人間が安息日を
失う時、環境世界もまた安息日を失い、環境は疲弊しその生命の
回復のための時間とゆとりを失ってしまうことでありましょう。

 七年に一度、畑を解放する「安息年」の戒めは、その地で「野生の
動物」が食物を得るためでもあると記されています(レビ25・7)
現在の日本において、自然林の伐採、ダム、道路、ゴルフ場の乱開発に
よって、山林を失い村里に下りてきた熊が安易に射殺される事件が
後を断ちません(熊の肝などは高額で売買されるらしい)。安息年律法に
よって、野生動物の生命への配慮を謳った聖書の言葉を、今こ
私たち日本人は信仰に立ち返り、聴かねばならないのではないでしょうか。

(了) 


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