「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、 打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、 働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を 送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」 (マタイ9:35〜38) 主イエスが旅をして御覧になられるところ、 人々は弱り果てていました。打ちひしがれていました(マタイ9:36)。 それは飼い主(牧会者)が不在だからでした。 しかし古屋安雄先生は『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか』の中で、 私たちの国で「弱り果て、打ちひしがれている」のは群衆ではなく、 むしろ牧師、伝道者たちである。群衆は極めて元気である。 最近、不況で、少し元気がなくなっているが、それでも世界的に見て、 こんな元気な国民はいない、そう書いています。 確かに、人々は、昔も今も、表面的には元気だったかもしれません。 ストレスの発散の術をそれぞれに身に付け、案外楽しくやっていた かもしれません。しかし自覚症状なき病気ほど恐いものはありません。 そういう時、現在は、機械が病気を発見するのです。検査結果では、 あなたの内蔵が悲鳴を挙げていると言われても、 本人はきょとんとしているかもしれません。それと似て、 本人は無自覚であっても、その人の魂の奥底から発せられる霊的呻きが、 神的センサーを持つ主の耳には聞こえる。神的スキャンによって 魂が壊死寸前であることが写し出される。多くの魂の病者を検知する。 主もだから、ここで悲鳴を挙げておられるのです。もう一人ではできない、と。 誰か助けてくれ、と。これは主の力不足からくる弱音ではありません。 憐れみの余りの深さからくる悲鳴なのです。主の胸に溢れる 「深き憐れみ」(9:36)、それは、元の言葉では「腸」(はらわた)という字です。 主イエスは、牧者なき人の痛みを(本人に自覚症状がない時も) 御自身の腸で直に感ずるのであります。その痛みの余り、 弟子たちに「働き手を送って下さい」と祈りなさいと求められました。 弟子たちは、そう言われるまで、この祈りを知りませんでした。 何故知らなかったのかと言うと、それはまさに、憐れみが欠けていたからです。 弱り果て、打ちひしがれている人の存在を感じない時、 私たちはこの祈りをしなくなるのです。弟子たちは、 主の切実な願いを聞いた時、ああ何と自分は世の悩みに鈍感だったことか、 と気づいたと思います。それから、お弟子たちは、毎日祈ったと思います。 そんなある日、主の招集がかかります。ついに神様が選んで下さった 働き手の名前が発表される時がきました。そこで思いがけないことが 起こります。自分の名が呼ばれた。新任牧者は、誰でもない自分自身であった。 そういう物語になっていくのです。お弟子たちは当惑したのではないでしょうか。 この私が、イエス様のような牧者になるのですか、と。 「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。 …あらゆる病気や患いをいやすためであった。」(10:1)は 「イエスは…ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(9:35) とほぼ同じ言葉です。つまり、9:35と10:1、は同じ言葉を用いながら、 前者を主のお働きについて用い、後者を使徒たちの権能について用いまいした。 その福音書の意図は明白です。使徒たちはイエスと同様の存在になったということです。 お弟子たちは、これまでは、精々自分に出来るのは、 イエス様の身の回りのお世話くらいだと考えてきたと思います。 しかし主は、それだけでは、もう足りないとおっしゃる。それだけでは、 私のこの世に対する憐れみの心は満たされない、と。この焦るような御心から 12使徒が生まれました。これが教会の源流です。ということは、 私たちの教会も、単なる人間の組織ではありません。キリストの分身であり、 現在の地上におけるキリストです。そうであれば、何と大きな使命を、 私たちは与えられていることでありましようか。こう聞けば、聞くほど、 お弟子たちと共に、私たちも怯むと思う。 選任された12名のリストを見て、私たちはピンとこない人がいます。 福音書にも記録が出てこない人が多いからです。マタイ福音書は 主が天に帰られてから約40年後に成立しました。教会が歴史を編纂する時、 数十年前の信徒、その当時は教会のために随分奉仕した人であっても、 具体的にどんな働きをしたのか、よくわからないことは多いと思います。 12使徒の多くも、そういう平凡な人たちだったと想像されるのです。 しかし例外はありまして、後の時代にも知られている人たちも リストにはありました。筆頭に「まずペトロ」(10:2)と呼ばれて 登場する人がいます。しかし、このペトロについての伝説が 『黄金伝説』の中にあります。教会最大の指導者と既になっていたペトロです。 ところが、彼はいつも布を胸に入れていて、溢れる涙を拭っていた。 それは、自分が主を否認した時のことを思い出すからでした。 特に彼は未だ暗いうちに鶏の鳴き声とともに起きた。そして激しく泣いた、 と伝えられています。トマス(10:3)は、主の復活を聞いた時、 見るまで信じないと疑ったことで、名を残したような人でした。 また、この福音書を書いたかもしれない徴税人マタイは、 その売国奴的な職の故に人々から疎外されていた人です。熱心党(10:4)とは、 ローマ帝国からの祖国解放を夢見て暴力を繰り返していた過激派です。 徴税人マタイは親ローマであり熱心党シモンは反ローマですから、 同じ主の群れの中にいて、仲良く出来たでしょうか?そして最後のユダ(10:4)は、 裏切り者であった、そうはっきり書いてある。そう考えてみると、 このリストは、まず主を否認したペトロと、最後の裏切り者ユダの枠構造を作っていると 読めないこともありません。つまり罪人のリストです。簡単にキリストの代理と 呼べるような聖人は元々いなかったのです。 その人たちが等しく、神の権能を担う牧者になる。それはどういうことでしょうか。 そこに主の深い選びの秘儀があったのではないでしょうか。福音を 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(10:8)という御指導の言葉もあります。 彼らは霊的、徳目において無一文であった。にもかかわらず、任職されたのです。 それはただ一方的な恵みの選びを意味します。それは、ただで、無料で、 誰にでも恵みを与えて下さる愛の神のお姿を証しするために選ばれたのではないでしょうか。 そうやって、神の憐れみがどれ程深いかを明らかにするモデルに「まず」なるために、 私たち教会員は選ばれたのではないでしょうか。現代人は自分の強さを 増し加えることによって選ばれると信じています。その競争社会の中で傷つき、 「弱り果て、打ちひしがれている」人が多くいます。その時、 教会はこの世の常識に逆らって、自らの強さでではありません、 弱さによって、人を癒す権能を現すために存在するのではないでしょうか。 使徒パウロは主にこう言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント二12:9)。 この伝道者自身の弱さに対する洞察なしに、弱り果てている人々への牧会、伝道は 決して始まらないと思います。 主イエスは「収穫が多い」(9:37)とお語りになられました。この収穫とは 「弱り果て、打ちひしがれている」人々のことです。群衆は、 最近の春の冷気で萎れた野菜のようなものかもしれません。 普通、育たなかった野菜は捨てられることでしょう。事実、 洗礼者ヨハネは「良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる。」(3:10) と叫びました。ファリサイ派にとっても、律法を守らない群衆は 焼き捨てられるべき籾殻に見えたことでしょう。しかし、その同じものを見て、 主イエスだけは「ここに収穫がある。豊かにある。広大な収穫の海だ、 だから一人では収穫しきれない。さあ、早く一緒に刈り入れをしよう」 と言われたのです。ここに既に、主がどのように人間を見ておられるかが分かります。 主は弱り果てた人たちを招く。競争に勝った者ではない。むしろ弱り果ている人たちに、 大きな値打ちを見出している。この弱り果てた者たちこそ、主のもたらせる神の国、 教会の最初の住民になることを知っておられたからです。使徒たちはその代表です。 弱い者の代表です。弱いからこそ弱い者を招き、癒す権能をもったのです。 「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」からであります。 その弱さを用いて伝道した時、実はどんなに強い者もなしえなかったことが起こったのです。 この弱者・12使徒が発火点となった時、教会は燎原の炎のように全世界を覆いました。 先ほど、伝説の中で、使徒ペトロは自分の罪を思い泣いたと申しました。 しかし、その伝説では、もう一つ、彼が泣いていた理由が記されています。 それは、主の大きな憐れみを受けたことを思い出すと、感激で涙が溢れてくるからだと 書いてありました。霊的に弱り果て、打ちひしがれているにもかかわらず、 自分では自信に溢れ胸張っていたペトロを、腸痛む思いで「まず」憐れんで下さり、 牧会をして下さったのがイエス様だったのです。その主を「まず」否認した 自分のような者が、十字架の痛みという深い憐れみを「まず」受けたのだ。 まして、あなたが救われないはずはないではないか。まして、 あなたが憐れみを受けないはずはないではないか。そう訴えてペトロは伝道し続けたに違いない。 それが求道者の感動を呼んだと思う。そこに収穫のための最良の働き手が誕生した。 主の選びに間違いはありません。私たちもそうなのです。 祈りましょう。 まず、あなたが、私たちをお選び下さった恵みに 心より感謝を致します。しかし同時に、私たちに思いもよらない使命が 与えられていることを知らされ、恐れる者であります。しかしここにも、 あなたの深い御計画があることを信じ、この選びを勇気をもって 受け入れる者とならせて下さい。 |