< 西片町教会


 2006年7月23日
「それでも人生にイエスと言う」

(ヨハネによる福音書 8:48〜8:59)




「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、
その人は決して死ぬことがない。」(ヨハネ8:51)

  主イエスとユダヤ人との仮庵祭における論争の言葉を、
今朝も読みました。延々と続く論争の主題は何だったの
でしょうか。それは今朝の「あなたは自分を何者だと
思っているのか」(ヨハネ8:53)との問いから分かります。
「イエスとは誰か」。
これが論争物語、さらにヨハネ福音書全体を貫く主題です。
主はこの問いに対して何度も答えて下さいました。主は、
御自身がこのユダヤの仮庵の祭を「更新」する力を持って
いる者だと言われた。仮庵祭とは出エジプトの解放の出来事を
記念する「水の祭」「光の祭」でした。そこで主は「渇いている
人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(7:37)と
大声で言われた。御自身が人間の根源的な渇き・虚無を癒す
ご存在であると言われた。また「私は世の光である」(8:12)と、
人間の虚無の闇を払拭する光そのものであると言われた。そして
今朝の御言葉において「はっきり言っておく(原文ではアーメン、
アーメン)。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
(8:58)と言われました。この「わたしはある」ということも、
既に出てきた言葉(8:24など)で、これも出エジプトの出来事に
深く関わりますが、シナイ山でモーセが神に名を尋ねる。その時
神様はこう答えられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」
(出エジプト3:14)。この「わたしはある」との御名を、イエス様
御自身が「アブラハム以前から存在する」と言われる時にお使いに
なった。つまり御自身を「神そのものである」と断言されました。


 51節でも主は「はっきり言っておく」(アーメン、アーメン)と
決して人間が聞き漏らしてはならない言葉として言われています。
「わたしの〈言葉〉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
神だからこそ言える過激な「言葉」がここにもある。ここに登場する
「言葉」とは原語では「ロゴス」です。「初めに言があった。言は神と
共にあった。言は神であった」(1:1)。この言(ロゴス)とは、
神の言葉そのものである主イエスのことです。イエスは初めから
おられた。神御自身として天地創造の前から存在しておられた。
大工の息子と呼ばれた男が、実は神御自身であって初めから存在していた
「ロゴス」であった。ヨハネ教会が全人類に何を訴えようとしたのか、
それはこの途方もない真実であったのです。ここに教会は命を賭けた。
そして「言の内に命があった」(1:4)、ロゴスこそ命なのです。
ユダヤ人たちが言う、いや、皆死んだではないか、アブラハムも
預言者たちも(8:53)と、そのような現実の中で、しかし主イエスは、
その人間の言葉に逆らうようにして「神の言葉(ロゴス)を守るなら
死なない」(8:51)と断言された。神の言葉そのものであるイエスが
神御自身だからであります。

 私は『人生があなたを待っている』という本を読みました。
これは私どもの教会員・赤坂桃子姉が訳しました新刊です。副題は
「夜と霧を越えて」で、有名なアウシュヴィッツ体験『夜と霧』の
著者ヴィクトール・フランクルの伝記です。精神科医フランクルは、
悩みをかかえる人の治療のために「ロゴセラピー」を追求してきました。
このロゴセラーピーとは「ロゴス」と「セラピー」を合わせた言葉です。
ロゴスを軸にとする心理治療(セラピー)法のことです。ここでの
ロゴスとは「意味」と訳されるものです。人はどうして精神的に病んで
しまうのか。何の不自由もないと思われる人が何故、ひどい虚無感・
ニヒリズムに苦しめられるのか。何故多くの人が自殺するのか。
フランクルは、人生の意味(ロゴス)が喪失している時、人はどれほど
経済的に充たされていても、自分で自分の命を絶ちたいと思うと言う
のです。そして逆に、耐えられないと思うような苦しみの中にあっても、
そこで意味(ロゴス)を見出すことが出来るなら、その苦しみを克服する
ことが出来る。そのようなロゴセラピーは、フランクル自身の収容所
体験によって裏付けられていくのです。

 それでは人はあの苦悩の究極の場である強制収容所、まさに
「夜と霧」のどこに生きる意味・ロゴスを見出すことが出来るか
ということです。これは訳者が後書きで丁寧に説明しているの
ですが、日本では「夜と霧」というタイトルで紹介されている
体験記は新版においてはタイトルが既にこう変わっている。
「それでも人生にイエスと言う」。この言葉はやはり囚われていた
ユダヤ人によって作詞された歌で、収容所の中で歌い継がれて
いました。フランクルがこのタイトルを用いて強調したかったのは
「夜と霧」に包まれた絶望の中にあって「にもかかわらず、人生に
イエスと言える」と言うことです。どのような絶望的な人生も、
その中に生きる意味が隠されいる、その人生の方から課題が私たちに
提示されている。私たちは、過酷な人生には生きる意味はないと
人生を断罪してしまう時、ニヒリズムの海に飲まれてしまうこと
でしょう。そうではなくて、その人生が私たちに課題を与えている。
この中でどう生きるのかと、その問いに応えようとする時、私たちは
生きる意味を発見するのです。生きる力を得る、そのような
ロゴセラピーの核心がこの収容所体験によって確立したのです。

 私がこの伝記で最も感動した物語は以下です。フランクルは
ゲットーからアウシュビッツに送られることによって全てを
失います。自分の分身と覚える渾身の著作原稿はゲットーから
密かに自分のコートに縫いつけて持ってきました。しかしその
コートも没収されました。その時彼はこの喪失が自分の人生を
無意味にしてしまうのではないかと自問しました。しかしそれに
対する答えは直ぐに与えられました。彼は自分の服の代わりに、
既にガス室送りになった別の収容者のぼろ服が与えられました。
彼はそのポケットの中に引きちぎられたヘブライ語祈祷書の
一頁を見出すのです。それはユダヤ人にとって一番大事な祈り
「シェマーイスラエル」つまり「 聞け、イスラエルよ。我らの神、
主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、
力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4〜5)
という教えであった。この言葉をフランクルはこう理解するのです。
「つまり艱難であれ、たとえ死であれ、どのようなことに直面しても、
人生に対して『イエス』と答えよという教えだとこれは解釈出来る。
原稿が出版出来ることによって、その意味が左右されるような
人生ではなく、この引きちぎられたたった一枚の紙切れの内に、
自分の原稿に代わる神からの使命を見る。」

 主イエス御自身がこう言われたことを思い起こします。
「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、
わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのは
わたしの父であって…」。(8:54)

 確かに自書の出版とは、大きな生きがいを与えるものです。
しかしフランクルはそれを人生の本当の「意味」にするのは
まだ小さい、と言っているのです。それに気付いたのはその原稿と
引き替えに与えられた「神の言葉」です。神を愛することを
使命とせよ、生きる意味とせよ、という神の言葉(ロゴス)です。
ここに彼は究極の生きる「意味」(ロゴス)を見出すのです。

 また彼をこの過酷な状況から救ったもう一つは、愛する母と
妻との再会への希望でした。ここを解放されて自分を待っている
二人に再会した時、どういうポーズを取ろうかと夢想し続ける、
その瞬間を思い浮かべることによって、この試練に耐えていく
のです。家族への愛が彼を支える。つまり彼の命を守ったのは、
先の「シェマーイスラエル・神を愛すること」そして「隣人を
愛すること」、まさに主イエスの言われた「最も重要な掟」
(マタイ22:36)、この神の言葉・掟を守った時、これが
彼に人生の究極の意味を与え、彼は生きたのです。

 「わたしの言葉〈ロゴス〉を守るなら、その人は決して
死ぬことがない」(8:51)!

 「ロゴス」それはヨハネ福音書において、イエス・キリスト
御自身のことであります。夜と霧のただ中で、なお囚人たちが
歌い続けた歌、それはドイツ語では「それでも人生に〈ヤー〉と
言う」です。しかし私はこれを日本語で「それでも人生に〈イエス〉
と言う」と聞く度に、この「イエス」とは、イエス・キリストの
ことと聞こえてならない。試練のただ中で、もう何の希望もないと
思わざるを得ない中で「にもかかわらず人生にイエス・キリストと
言う」。真の「肯定」(イエス)とは「イエス・キリスト」から
来るのです。

 フランクルは書いています。「強制収容所で気付いた。
意味−将来の進路、愛する人、超越的な存在−を知っている
被収容者は自殺しようとしない。同じ状況でも、彼らは生き延びる。
生き延びるのは人生の意味を知っている者なのだ。」
 
 超越的な存在であります。私たちのこの宇宙すらいつか滅びると
聞きました。海の泡のように表れ、泡のように夜と霧の永遠の彼方に
消滅していく私たち。そのような中で、どうやって人生の意味を
見出すことが出来るでしょうか。超越的存在にしかないのです。
主は言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを
信じる者は、死んでも生きる。」(11:25)

  フランクルはこうも書いています。「地球上のいかなる力も、
私たちが経験したものを奪えない。…すべては永続的に蓄えられる。」

 例え死んでも、宇宙が滅んでも、なお超越的な存在の内に私たちの命は残る。
主イエスキリストの御心の中に、私たちの人生の全てが憶えられる。そして
それは消えることはありません。フランクルが草稿を失ってしまったように、
私たちの業績の一切が葬られても、しかし主イエスキリストは記憶して下さる。
世界が破滅しても憶えていて下さる。主は「わたしはある、わたしはあるという」
お方だからであります。このお方との愛の交わりの中に、私たちの人生の究極の
意味と希望が生まれる。「アーメン、アーメン」(訳せば「イエス、イエス」)と
褒め称える他はない!

祈りましょう。 どうかあなたの目映い光によって、私たちの「夜と霧」を
吹き飛ばして下さい。