ヨハネ福音書7:40〜52には、主イエスは登場されていません。 「この言葉を聞いて…」(7:40)とあって、仮庵祭の中で主イエスの 御言葉・説教を聞いた人々の態度が記されている箇所です。 私はこの物語を読んでいて、いつの間にか二枚の絵画を思い出して いました。その一枚は、ビュルナンの作品「復活の朝、墓へ急ぐ ペトロとヨハネ」(オルセー美術館所蔵)です。高久眞一氏がその著 「キリスト教名画の楽しみ方」でも紹介している、忘れがたい作品です。 そこにも復活の主は描かれていません。二人の弟子たちだけが描かれて います。復活の朝、マリアから「墓に主のお身体が見当たりません」と 聞いた瞬間、弾かれたように走り出した二人の弟子の姿です。脳裏には かつて言われた主の御言葉が響き始める。「私は死んで、そして三日目に 復活する。」弟子たちは走る。深い恐れと激しい期待の中で。繰り返し 申します。ここに復活した主は描かれていません。しかしこの二人が 朝焼けに照らされて、全身を傾けて走る姿、まさに「命に向かって 走る」姿の向こう側に、既に一人の人の姿が見えるのです。そうです。 朝日に輝いて両手を大きく広げて二人を迎えようとしている復活の 主のお姿が、私たちにはもう額縁の外に見えてくる、そういう絵です。 同様に、ヨハネ7:40以下も、御言葉を聞きその光に照らされた 群衆の姿だけを記したのに、主イエスの朝日のように輝くお姿が 行間にやはり浮かび上がってくる。ある意味で主が登場しないだけに、 益々鮮やかに主イエスのお姿が印象付けられると言ってよいかも しれません。そして思いました。伝道とはそういうことではないで しょうか。私たちが主の言葉をここで聞き、生活の場でその御言葉に 向かって身を傾けて生きる時、周辺の人々にも主イエスの姿が いつの間にか見えてくるのではないでしょうか。私たちが毎日曜日・ 小イースターを覚えて、どんなに雨が降っても、この教会に 走ってくる。前傾姿勢で走ってくる。通行人は、その私たちが 「命に向かって走る」姿の向こう側に、復活の主の姿をもう見る ことが出来るのではないでしょうか。 もう一枚思い出したのは名画は、レンブラントの「病人たちを 癒すキリスト」(国立西洋美術館所蔵)と呼ばれる銅版画です。 これは宮田光雄先生が丁寧に紹介しています。ここには光を放つ イエスのお姿が描かれています。その主を大勢の群衆が取り囲んで いる、そのような絵です。群衆たちの反応は様々です。その様々な 主に対する態度によって、イエスとは誰か、本当は誰なのか、と いうことがやはり浮かび上がってくるのです。 この銅版画の内で、世の光イエスは、生き生きとした光を 放ちます。そしてイエスを求める群衆たちもその暖かい光に 照らされて浮かび上がります。しかしその左側に主を冷たく 拒絶しているファリサイ派たちも同時に描かれています。この 銅版画は、今朝私たちに与えられている福音書の出来事を そのまま絵にしたのではないかと思われるほどです。主の 御言葉の光に照らされて「この人は、本当にあの預言者だ」(40)、 「メシアだ」(41)と、もう主の真実に接近している者たちが 現れている。預言者とは解放者のことです。イエスとは狭い暗い ところに押し込められている私たちを光に向けて解放して下さる お方だと告白しているのです。メシアとはキリスト・救い主の 意味です。この人々は、そうやって信仰告白の第一歩を踏み出して いる。ところが、祭司長、ファリサイ派の人々という宗教の 専門家たちは、主を決して受け入れようとしませんでした。 どうしてこのような違いが起こったのでしょうか。信じた 者たちは、何かイエス様の神々しさに打たれたとか、奇跡を 見たというのではありません。今朝の聖書箇所で大変強調されて いるのは何よりも「言葉」です。福音書はそれは御言葉を 聞いたか、聞かなかったかにあると言っているのです。それに よって、人はあのレンブラントの銅版画のように、二つの グループにはっきり峻別されてしまうのです。 そして私たちもまた、毎週ここで神の言葉を聞いている のです。先週は主が大声を出してまでお語り下さった素晴らしい 御言葉を聞きました。「「渇いている人はだれでも、わたしの ところに来て飲みなさい」(7:37)。この言葉を聞いて時、 人は、どういう決断をすべきなのか、それはこの福音書の 登場人物の問題だけではなくて、やはりここで神の言葉を 聞いた、私たち一人一人に向かって迫ってくる問いとなるの です。あなたは御言葉を受け入れるか、それとも拒絶するのか、 という問いです。それは先ほど歌いました讃美歌21-448の 歌詞で言えば4節です。「世に生きるその現場で右左決める時に 御心にかなう道を選ばせて下さい、主よ」。日本に住む者たち、 その多くは、イエスに興味を持っています。それはいろいろな 文化現象となって現れてきています。それぞれにイエスに ついての知識をもって、夥しい人たちが、教会の前を通り、 説教題や掲示板の御言葉を見ながら通り過ぎていると 思います。しかし殆どの人はここに入って来ません。 それが前を通る99%の通行人の選びです。そういう中から 一人でも、神の光に向かって走り出して欲しい。「御心に かなう道を選」んで欲しい、それが教会の願いです。 その道とは「イエスを主と告白」(448-3節)することです。 そのためにどうしたら良いのか、だんだん遡っていく。 「たかぶりの心を捨て」(448-2節)ることです。人は たかぶると主の御言葉を正しく聞きとることが出来ないからです。 レンブラントの銅版画の左端には、イエスの暖かい光を かき消すような、全く別の光、冷たいネオンサインの ようは強い光があります。それは、自らを義とする ファリサイ派の人たちを包んでいる自己義認の光なのです。 その一人は頭をイエスから背け、顔は悪意と皮肉で満ちて います。彼はもう自分で光を持っていると思っています。 全てに満ち足りていて、もはや新しく神の言葉を聞く耳を 持たないのです。あるいは、彼らの一人ですが、背をこちらに 向けて威圧するかのように立つ、がっしりした人物が後ろ手の 不動の姿勢で立っている。自己充足した永遠の傍観者だと 呼ばれます。宮田先生は図像学的にも、レンブラントは周到に 表現していると書いていますが、説教者イエスは中央から人々を 救いに招くように、右手を差し出していますが、その主の 右手から流れ出る線は、あの不動の傍観者と交差して、 ぷつりと断ち切られているのです。自分にはもう十分な 光があると思っている傲慢こそ、一歩も主に向かって動かないで 御言葉の光を断ち切ってしまう理由なのだ、そう福音書に 従ってレンブラントは描いているのです。 しかし、御言葉を本当に聞いた者たちは変わる。ユダヤの 最高権力者、祭司長とファリサイ派は、下役(神殿警備兵)に イエスを逮捕するように命じました。ところが、下役たちは イエスを連行しなかったのです。祭司長たちは怒って 言いました。「どうして、あの男を連れて来なかったのか」(7:45)と。 すると下役たちは答えます。「今まで、あの人のように話した 人はいません」(7:46)。ここでもやはり「話=言葉」で あります。摩訶不思議な奇跡を見たからというのでは ありません。ただ御言葉を聞いた、説教を聞いた、それが 命令違反の理由です。 ユダヤの最高権力者の命令に従わない神殿警備兵、そんな ことが本当に出来るのでしょうか。かつて日本の軍隊でも、 上官の命令は天皇の命令であるとして、無抵抗な敵兵や 民間人の殺害を命令されても、服従しないわけには いかなかったのです。しかしこの下役たちは、主の話を 聞いた時、どうしても逮捕することが出来なかったのです。 それは主を殺すことが出来なかったということです。 権力者たちは殺すために連行を命じのですから。それでは 彼らは、どのような御言葉を、聞いたのでしょうか。 それは想像ですが「敵を愛し、自分を迫害する者のために 祈りなさい」(マタイ5;44)という言葉に類似した、 およそ暴力や殺人、さらに言えば戦争や軍隊を否定する お教えだったのではないでしょうか。 当時、ユダヤの民は、ローマ帝国の支配からの解放を 求めて、武力をもってクーデターを起こすことをいつも 狙っていました。ユダヤを救う来るべきメシアとは、 だから、イスラエル黄金時代を築いた戦争に強い王・ ダビデの子孫でなかればならなかったのです。それが イエスはメシアでないという判断の根拠とすら なりました(7:41b〜42)。 この下役たちは、兵士として、これまで「平和のためだ」 と教えられ、残酷な命令にも従ってきたことでしょう。 しかしそれが返ってどんなにこの世を悪くしてきたかを 悩んでいたかもしれない。その時、主の言葉、殺しては ならない、むしろ敵を愛しなさい、との言葉を聞いて、 本当にこのような話は今まで聞いたことがないと心を 打たれたのではないでしょうか。ある人は、そうやって 兵士の務めを放棄した下役たち、その姿に「良心的兵役拒否」 の先駆を見ると書いています。そのような読み方も 可能かもしれません。 事実、古代教会において、兵役拒否は主イエスに 服従する者として当然であったと、宮田先生は言って います。洗礼を受けた者は、王の王の兵士となるのだから、 その命令に絶対服従する者こそキリスト者である。 従って、古代教会教父テルトゥリアヌス(150-220)は、 軍人の子として生まれながら、軍国主義を徹底的に 拒否しました。「主が剣をさやに納めよと命じられた、 そこで、どうしてキリスト者が兵士であることが 許されるだろうか。兵士が洗礼を受けてキリスト者と なるなら、直ちに軍籍を離れなければならない」と 言いました。その弟子キプリアヌス(200-258)も 同様でした。「殺人は個人が行うときは犯罪となるのに、 国家が命じる時には勇敢とされる。キリスト者は人を 殺すことは許されない。むしろ、自ら殺されねば ならない」と。何と現代的なメッセージでしょうか。 ファリサイ派の人々は、そのように、主イエスに 従う者は「律法を知らない」(7:49)からだ、 その者は呪われると、言いました。しかしそこに 「知の無知」が生じるのです。光をもっていると 思うから、真の光を求めないのです。その時、かつて 主を密かに訪ねたことがある、同じファリサイ派の ニコデモがこう言いました。「我々の律法によれば、 まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえで なければ、判決を下してはならないことになっている ではないか」(7:51)。ニコデモは、ここで、 あなたは律法を知っていると言う、しかし我々が律法を 本当に知っていると言うのならこのことも分かるだろう。 右左の判断をする時、大切なことは、本人から 「聞くこと」だと言われているのです。ニコデモは ここで、主を信じる者を軽蔑し否定する同僚に対して もっと「イエスの言葉を聞こう」、それから判断 しよう、それこそ律法ではないか、とたしなめて いるのです。 こうして、今朝の福音書の箇所は、繰り返し三度、 御言葉に聞くか聞かないかが、全ての決定的分岐点 なのだ、と訴えているのです。個々人の人生のこと だけでなく、今私たちの教会は九条の会を作って、 まさに初代古代教会の系譜に連なる兵役拒否の道を 探しています。やがて国民投票で、国家が右に行くか 左へ行くかを定める時が来るかもしれません。しかし その時こそ、私たちは御言葉の光に照らされる場所に 立ちたいと願う。 祈りましょう。 自己充足の光の中で御言葉の光を 求めようとしない私たちを、聖霊によって、 悔い改めへと導いて下さい。 |