そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。 すると間もなく、舟は目指す地に着いた。(6:21) 今朝は4月2日の主日、新しい年度の始まりの日です。 満開の桜の下で、入学式や入社式が至るところで開かれて います。文字通り華やかな季節の到来ということですが、 しかし一方、この季節は転機の時であり、挫折を思い 知らされる時でもあります。望んではいなかった所へ、 この4月から毎日通わなければならない。ずっと準備していた 結果が、思ったようにはいかず、期待はずれの4月が こうして始まる。憂鬱な春です。あるいは愛していた場所から 追い払われ、ついに4月となる。進むべき道がもう 見えなくなってしまった。「目指す地」(6:21)という 言葉があります。そこに着かない、どうしても手が届かない。 そのような苦しみの春を迎えた人もいると思います。 何よりも、私たちがこの「春の苦しみ」と聞いた時に、 思い出すのは、今、レント40日間の季節を歩んでいると いうことです。主の御苦しみを思う40日、その主の苦しみに 自らの苦しみを重ね合わせる春であるかもしれません。 最近親しくなったある友人から昨日メールが来ました。 「受難節・レントに起きた、この一連の出来事、それに 対して、直接何もしなかった私自身の態度や、犯した 罪を悔いつつ歩みます。」そのメールを受けた時、私は 丁度、ヨハネ福音書6:16〜17を読んでいました。夕方に なって弟子たちは湖の向こう岸の町カファルナウムに 船を漕ぎ出しました。不思議なことに、マルコの 並行記事は、目的地を「ベトサイダ」と書いています。 何故、ヨハネでは目的地が変わってしまったのか。ある 注解者は「カファルナウムへの偏愛」と書いている。 特別な愛です。偏るほどの愛です。カファルナウムは イエス様の主要な活動地だった、それがその理由で しょうか。いえ、理由より何よりも、愛が先にある のです。ただ愛している、その理由だけで、偏愛の 目指す地へ舟を進めたのです。私たちにも身に覚えが ある感情です。 夕方に漕ぎ出しました。「既に暗くなっていた」 (6:17)と書かれてあります。航路が見えないのです。 迷うのです。先ほどのこのような闇に捉えられる経験を した友に返事を書きました。「レントの40日間、しかし そこに主日が含まれていないように、受難の闇の ただなかにも光の日は何度も訪れています。」そう やって私たちは励まし合って今朝を迎えました。 ここで教会暦について説明しますと、今年のレントは 3月1日の灰の水曜日から始まりました。そして4月15日まで 続きます。すると46日間もある。「レント40日」と 言われるので、常々おかしいと思っていた人もいるかも しれません。それは、レント中の6回の主日をその40日に 加えないからです。日曜は常に復活記念日、小イースター だからです。長いレントの最中にあっても、光の朝・ 主日は繰り返し来る。目指す地が見えない長い夜も、 しかしそのただ中に光は来る。その主の光を見るために、 私たちは今この礼拝の席に座るのです。 この福音書の物語は、目指す地を失う人間の絶望感の 深さを描いています。それがどこに表れているか、 直ぐにお分かりになると思います。先ず、今言い ましたように6:17「既に暗く」とある。そして18 「強い風が吹き、湖は荒れ始めていた」。19「25ないし 30スタディオン」の沖での出来事とあります。これは だいたい5〜6qで、それは丁度この湖の中間であると 言おうとしているのかもしれません。これもまた 私たちが4月に経験することではないでしょうか。 飛躍しようと思う。新しい世界に飛び込む。しかし そこで溺れてしまうのです。帰りたい、出てきた 場所の方がまだましだと気付いた時は、もう帰り道の 扉は閉められている。そして17節に決定的とも言える 言葉があります。「イエスはまだ彼らのところには 来ておられなかった。」信仰者の絶望はここで 極まると言わねばなりません。 夜。湖のど真ん中。嵐の海。そしてイエスが来て 下さるわけがない場所・人間は歩けない水の上。 そこに自分たちはついに放置された。「舟板一枚の 下は地獄」の頼りなさを弟子たちがひしひしと感じて いる、という意味です。その確信が、19節で、 主イエスが湖の上を歩いて舟に近づかれた時、喜ぶ どこではない、益々恐れた。イエスがこの場所に 来て下さるなど全く信じていなかったからです。 主の御力を信じていなかった。だから他の福音書に あるように幽霊だと思った。 夜の荒れた湖の上を歩くイエス。これは単なる 奇跡のことを言っているのではありません。ここには だけは絶対に主は来ない。来ることが能力的にも 出来ない。だから、ここには絶対に救いは来ない。 そう私たちが思う所、何か来たら幽霊としか思えない。 この絶望の岩の如き確信の場。にもかかわらず、 キリストは来る。歩いて来る。闇の中も。水の上も。 イエスは全能の神だからであります。 ヨハネ福音書を生み出したヨハネ教会の人びとは こういう物語を書きながら、何を思ったのでしょうか。 最初、後にヨハネ教会を創立するこの主イエスを 信じるユダヤ人たちは、ユダヤ教の会堂で共に礼拝を 守っていた。しかしその会堂で、イエスをキリストと 信じる者は異端とされた。イエスを神とすることは、 神を汚すことであった。そこで会堂を去り信仰の自由を 求めて旅立ったと思う。ユダヤ教はローマ帝国の 公認宗教で迫害されない。しかしキリスト教会は 認められていません。激しい迫害の嵐に翻弄される。 結局このローマ帝国による迫害は300年続いた。その 歴史の中で、多くの信者たちが思ったと思う。会堂に 戻りたいと、あそこなら、確かに大声で「イエスは 神なり」とは言えない、でも預言者としては尊敬する ことは許されるかもしれない、よく考えたらそれで よかったではないか。それでもイエスの倫理、神学は 語ることが出来る、それで十分だったではないか。 そうやってユダヤ会堂の中で、イエスを重んじる道も あった、と。しかしそれを万が一でもしたら、教会は 永遠に、目指す地を見失うのです。いえ、それは 全人類が、福音、神の国という人類の到達点を 失うことを意味していた。 思想、観念ではない。生ける主御自身が、水(絶望)を 超えて人間と共にいて下さる、その救いのリアリティーを 人類は永遠に失う。これはサタンの誘惑です。戻ること 許されません。だから「25ないし30スタディオン」 なのです。教会は命の不安に怯えながら、地下に潜り、 墳墓の奥に会堂を持ちました。まさに闇に捉えられる 生活です。やがて、もうこんな所に主イエスは来て 下さるわけがないと、多くの者たちが躓き教会を 去った、その痛切な挫折の痕跡も、このヨハネ福音書から 読み取ることが出来ると言われるのです。 しかしそのような恐れる人びとに、主イエスは言われ ました。「わたしだ。恐れることはない」(6:20)。 いずれの注解書を読んでも、この「わたしだ」、という 言葉に注目しています。これは旧約聖書・出エジプト 3:14において、モーセが始めてホレブ山で真の神と 出会う。その時、神は、モーセの求めに答えて御自身の 名を教えて下さる。それがこの言葉です。「わたしは ある。わたしはあるという者だ。」この言葉「わたしは ある」、これは旧約聖書の言葉で書かれてありますが、 これを、ギリシヤ語で翻訳した聖書があります。その 時の翻訳のギリシャ語の「わたしはある」と全く同じ 言葉が、この時、福音書で主イエスが使われた、 6:20「わたしだ」(エゴー・エイミ)と同じだそう です。従ってここで言われていることは、主御自身が、 このホレブ山で現れた神と等しいお方である、イエスが 神であられることを明らかにする「わたしだ」という 言葉なのです。 御名は「わたしはある。わたしはあるという者だ」、 その意味は「わたしは本当にいるのです。本当に あなたと共にいる神なのです」ということです。 迫害の嵐の中で、常夜の闇の墳墓教会で、恐れの虜に なる。疑いの黒雲がわき起こってくる。イエスはここに だけは絶対に来れない。しかしその誘惑のただ中に、 主は入り込んで来て「わたしはある。わたしはいる。 本当にいるのです。」そういう名の全能の神であるが 故に、水をも超えて「わたしはあなたと共にいる」 そう言って下さるのです。 その主イエスの言葉によって、弟子たちの前から 疑いの黒雲吹き飛ばされた。「そこで、彼らはイエスを 舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は 目指す地に着いた。」(6:21)。主イエスを自らの 魂に、思想ではなく、思い出でなく、「全能の神」 「生ける神」「本当にいるお方」として迎え入れた時、 目指す地に着いたのです。特別に愛する地についたの です。ついに愛を得たのであります。そういう物語です。 宗教改革者カルヴァンが書いたジュネーブ教会 信仰問答の問一はこうです。「人生の主の目的は 何ですか」、答「神を知ることです」。これだけです。 人生の目的、何故私たちが生まれてきたのか。何故 私たちが人生という苦しい航海を続けているのか。 その理由、目指す地は、神を知るためなのです。イエスが 神であられる、それを受け入れることが真に出来る時、 私たちが生まれてきた意味が全うされるのです。 皆様もまた、この年度、それぞれに目指す地を求めて 出発されたことと思います。しかし究極の人生の目的地で ある神を知ること、これを求めて礼拝を一週一週重ねて いきたい。試練の夜、いつまで続くのかと呻くような 長い夜にも、繰り返し日曜日の朝はやって来る。 小イースター、常にその日は光の日、命の日です。 レントではありません。そこで神である全能の主と出会う。 それが暗い長い苦しみの季節を耐えさせる、唯一の力 なのです。ただ今からこの年度最初の聖餐に与ります。 思想、観念ではなく、生ける神・主御自身の御体と血潮を 体一杯に受け入れ、それによって恐れを捨て、命甦る 経験を致しましょう。 祈りましょう。2006年度の西片町教会の航海、何が 起こるか分かりません。しかし主は来られる。どのような 絶望の闇の海の上にも。この事実を信じ抜く一年として下さい。 |