今朝はイースター・復活際です。昨年の10月9日よりヨハネ福音書を 最初から読み始めて、今朝、6:41以下にさしかかりました。 この連続講解説教の欠点は、時に教会暦と合わなくなってしまう ことです。そのためお祭りの日には連続講解をお休みするという やり方がとられます。しかし今回はそんなことをする必要は少しも ありませんでした。むしろ神様が最初から計算されて、今朝、 ヨハネ6:41に至るようにして下さったと思えるほどです。 真にイースターにふさわしい御言葉が与えられました。 どこがふさわしいのか、今朗読を聴いた全ての人がお分かりに なったと思います。イースターとは「命の祭」です。主イエスが 死に打ち勝たられて復活されたことを祝う祭です。死が勝つのではない。 命が勝つ。その命の勝利をお祝いするのです。そしてそれはイエス様の 身の上に起こったことに止まりません。その主の御復活は、 今ここにいる私たちをも、その永遠の命の中に「引き寄せて」 下さる力なのです。 「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」 (ヨハネ6:47)。主イエスを信じる者です。しかしそれは ただ頭だけで信じるのではありません。永遠の命のためには、 それだけでは足りない、という話に続く。「わたしは、天から 降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、 その人は永遠に生きる」(6:51)。主イエスという「パンを 食べるならば」と言われています。信じるとは、パンを食べる ことと一つのことだと言われるのです。 どうして、この日の礼拝にこの御言葉はまことにふさわしいと 呼んだのか、そのもう一つの理由は、今朝は主の食卓、まさに パンを食べる聖餐がこの前に用意されているからです。しかし まことに残念ですが、まだ洗礼を受けておられないために、 この食卓の前に来ることがお出来にならない方がおられます。 日本基督教団の教会法で「聖餐にはバプテスマ(洗礼)を受けた 信徒があずかる」と定められています。しかしそれは一種の 差別だと、フリーと呼びますが、洗礼を受けていない人も、 この聖餐を受けることが出来る、そういう教会が増えてきました。 しかし私たちの教会はそうは思いません。そのフリーを主張する 人たちが、よく取り上げます聖書的根拠が、多くの者がパン五つと 魚二匹で満腹した、その奇跡物語です(6:1)。この人たちが 皆洗礼を受けていたとは考えられません。少なくても、主イエスに 献身した弟子たちだけが、この食事に与ったというのでは ありません。全員食べたのですから、これは所謂フリー聖餐では ないかということです。主イエスこそフリー聖餐の創始者である、 との主張です。 しかしこの食事の奇跡の物語はハッピーエンドではありません。 この後の話では、この奇跡を見た者たちが、主を王とするために 夢中になって追いかけ回した。ところがいよいよ、主が、この 奇跡が指し示す、本当にお語りになりたかったことを明かされる。 それこそ今朝私たちに与えられた6:53以下の御言葉なのです。 どうして「本当に」主がお語りになりたかった言葉と分かるかと 申しますと、それはとても簡単なことです。主が「はっきり 言っておく」(6:53)と言われたからです。これは、原語では 「アーメン、アーメン」です。「本当に、本当に」「真実です。 真実です」と直訳されます。私たちが祈りの最後に唱える言葉 ですが、主はそれをとても大切なことを言われる時、一番先に 言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その 血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を 食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を 終わりの日に復活させる。」(6:53〜54) この最も大切な主のお言葉が語られました直後、多くの者は これを聞いて言いました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を 聞いていられようか。」(6:60)「このために、弟子たちの 多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(6:66) という事態が起こった。まるで潮が引くように、満腹の奇跡に 与った夥しい者たちが、イエスの回りから雪崩のように流れ 去って行った。そしてはっと気付いて見回した時、もうそこには 12人の弟子しか残っていなかったのであります(6:67)。何という ことでしょうか。教会にもこういうことが起こるのです。 フリー聖餐によって、その深い意味を知らないままそれを受けた 未信者も、やがてその真実を知る時が来ます。その時、私たちが 食べているのは、ただのパンとジュースではない。主イエスの肉を 食べ、血を飲むとことだったと知った時結局「実にひどい話だ」 (6:50)と去っていくのではないでしょうか。ですから、教会は、 主の御言葉にアーメンと応え、聖餐によって、自分に永遠の命が 与えられるのだと信じ、洗礼を受けてから、聖餐に与るべきだと 考えるのです。 今朝、報告しなければならないのは、私たちとずっとこの命の パンに与る生活をしてきた五味好枝姉が、この朝、死去された ことです。そうであれば、イースターの朝早く、命ではなく死が 来たのでしょうか。そうではありません。主イエスははっきり 言われた。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の 命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6:54)。 そうであれば、五味好枝姉は永遠に生きる。どうしてか。この 人はイースター(1980年3月30日)に受洗されました。それ以来、 この教会でパンを食べてきたからです。主イエスというパンを 食べてきた。だから永遠に生き、そして終わりの日に復活するの です。どうしてそんなことが言えるのか。私たちはよく説明 できません。私たちも悪魔の誘惑を受けると、主の食卓の前に 立ち、小さな食パンのかけらを見ながら、これがいったい何の 役にたつのか、と疑うのです。そのパンの小ささに躓くのです。 その誘惑に耐えさせるのは主への信頼です。主イエスが「この パンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6:51)と 言われたが故に信じるのです。 主は言われました。「わたしは天から降って来たパンで ある。」(6:41a)それを聞いた時、ユダヤ人たちは 「つぶやき始め」(41b)と書いてあります。主が言われた 「アーメン、アーメン」に対して「アーメン」と唱和出来ない。 主の「アーメン」に対してつぶやきをもって答えてしまった。 あんなどこにでもいる父と母をもつイエスを食べ飲んで、 どうして我々に永遠の命が与えられるのか。どうして復活 出来るのか。人の目に見えるイエスの小ささの故に疑ったの です。その疑いを振り払う力こそ信頼の心です。まだ良く 理解出来ないことはある、主イエスの謎も全て今解けては いないけれども、主を信頼し、もうつぶやくのを止めて、 主の「永遠の命はここにある」との言葉を信じて洗礼を 受ける。その時、神は御手をもって、私たちを主の食卓の 前に「引き寄せてくださる」(6:44)のであります。 洗礼を受け、聖餐に与ることが出来る、そのためには、 確かに学ぶことも必要でしょう。教会もそのような受洗前 教育を大切にしています。しかしよく学んだから洗礼、 聖餐を受ける資格を得たなどということではありません。 あるいは、キリスト者として徳が高いとか、誤解を恐れず 言えば信仰深いから、聖餐の前に出る資格があるなどと いうことはありません。むしろ話は逆です。「はっきり 言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、 あなたたちの内に命はない」(6:53)と主は言われたの です。聖餐を受けるとは、私たちが御体と血潮なしに 生きることが出来ないということを認めたということです。 自分が余りにも弱い罪人であることを知り、だからこの命の パンであるキリストを食べなければ、死ぬ他はないと 覚えたからです。その意味で、主イエスを食べなくても 元気な人たちの方がより強い、強靱であると言わなければ ならない。私たちは罪の故に自分は死んでいると気付いた 者たちです。そこから甦りたいと願ったのです。 イースターの朝復活して下さった主イエスにしがみついて 甦らせて欲しい、ただそう願ったのです。旧メソジストの 伝統では、聖餐の時、人は主の食卓の前に歩み寄ります。 それはまさに、この主の食卓の前に「引き寄せ」(6:44) られた姿を表しているのではないでしょうか。 どうして、このような小さなパン、小さな杯を飲んで 復活が起こるのか。主が言われたからです。神学的に教会は 出来るだけ説明しようとします。しかし最後にはこの主に 信頼するしかないのです。信仰とは信頼です。主イエスに 対する信頼です。このお方についていけば大丈夫なのだ、 このお方の言葉だから受け入れる、という信頼です。 井上良雄先生はこうドストエフスキーの言葉を引用して います。「私は、たとえイエスのもとに真理がなくても、 イエスを愛するだろう。」イエスが私たちに真理を与えたり、 真理を教えてくれなくても、私はイエスを愛する、と 言うのです。極端な言い方です。主は真理を与えて下さる お方です。しかしドストエフスキーは、この極端な言い方を 通して、信仰の神髄がどこにあるかを語っているのです。 イエス・キリストなしに生きられない、その思いが、 他の何を失っても、例え真理さえも失っても、主イエスが おられれば命を得る、この確信が揺るがぬ信頼のこの 言葉を生んでいるのです。 ただ今から洗礼式、聖餐が挙行されます。つぶやきを 捨てて、主の言葉にアーメンと心から唱和しつつこの恵みの 座に引き寄せれる喜びを味わいましょう。 祈りましょう。五味好枝姉の死の知らせの中の イースター礼拝であります。しかし五味姉は滅んだのでは なくて、主のパンを食べたが故に、永遠の命を得られたことを 信じることが出来ますように。 |