都エルサレムの羊の門の傍らにベトザタの池(口語訳 「ベテスダの池」)がありました。そこは広く知られている 癒しの奇跡の場でした。5:3b〜4節が抜けていますが、そこには、 この池の説明が書かれてありました。一番最初のオリジナルの 福音書では、その当時、誰でも知っていることだったので、 書かなかったのでしょう。しかし後の時代にこの福音書を 読んだ人は、この池のいわれが分からなくなってしまったので、 ある写本家が配慮しまして、その説明が福音書の中に 挿入されてしまった。つまり元の福音書にはない言葉が 聖書に入り込んでしまった、そのように学者たちが 判断しましたのが以下の言葉です。 「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが ときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が 動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気に かかっていても、いやされたからである。」 聖書の言葉を後の人が書き加えたり削ったりすることは 厳禁です。しかしこの場合、私たちにはこの言葉が あることで、本当に助かったわけです。病人がイエス様に 以下のお答えをした意味がよく分かるのです。「主よ、 水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人が いないのです。」(5:7) この池には五つの回廊があって、3節に記されている ような、医者に見放された患者たちが、最後の手段と して大勢横たわっていました。その池は不治の病を 癒す力を持つ。でもいつもというのではない。時々天使が 池に降りて来て水が動かす。その時一番に水に入る者は 癒されると言うのです。しかしその信心は、一見希望の ようであって、この病人たちを逆にひどく縛り付ける こととなりました。何故なら、水はいつ動くか 分からないのです。その時一番に入らなければならない。 それは病人たちにどのような緊張、ストレスを日々与える ことでしょうか。一刻も安んじることが出来ない。そして 水が動く度に見られるのは、回廊の修羅場です。 押しのけ合って、我先に水に向かう人びとの目を 背けたくなるような姿でした。 祭のために都に巡礼されたイエス様がその回廊で 御覧になった人は「三十八年も病気で苦しんでいる人」(5:5) とありますが、この38年という言葉から注解者が連想するのは 申命記2:14の言葉です。「カデシュ・バルネアを出発 してからゼレド川を渡るまで、三十八年かかった。」 イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から脱出して、 約束の地カナンを目指して荒野の旅を致します。2年ほどで、 カデシュ・バルネアに着く。その地からカナンに偵察隊を 派遣した場所ですから、約束の地は近い。しかし、民は 約束の地・カナンが目の前にありながら、国境「ゼレド川」を 越えられなかった。その期間こそ「38年」です。それと 似てこの病人が、救いの水は目の前にありながら、 イスラエル同様にその水を越えられなかった。その 思わせぶりで期待はずれの荒野の38年を過ごしたのが、 このベトザタの池に横たわる男であった、そう暗示されるのです。 それとの関連で、この時主が巡礼されたお祭とは、 秋の仮庵の祭ではなかったかと言う人もあります。 「 あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。 …これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から 導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの 代々の人々が知るためである」(レビ記23:42〜43)。 イスラエルの荒野放浪時代に、民は「仮庵」に住む他は なかった。この男もまさにこの回廊が荒野の仮庵に なってしまった。 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れて くれる人がいないのです」(5:7a)。この人には、 彼の病気を共に担い助けてくれる隣人がいませんでした。 しかも「わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行く」 (5:7b)という荒れ果てた世界でした。結局、人は皆敵で しかなかった。普段はそれなりに慰め合っていたかも しれません。しかしいざ水が動いた瞬間、本性が現れる。 人間の隠されていた真の姿が露わになる。その本性を 夏目漱石は「エゴイズム」と呼びました。「人間は誰でも いざという間際に悪人になる」(『こゝこ』より)。こうして 、最も励まし合い、慰め合うことの必要な社会にも、先を 争う競争原理が支配していたのです。 競争とは「白い巨塔」に見られるような、トップエリートの 間だけに見られる話ではありません。弱者の間にも全く 同じように見られるのです。名もないような小さな組織の 中ですら、人は小さな権力を奪い合って生きているのです。 ホームレスの間ですら、決して仲間に漏らさない秘密の 場所がある。自分だけが食物を得るためなのだそうです。 人は上から下まで、誰もが競争とエゴイズムに支配されて いることが分かる。それこそが荒野なのではないでしょうか。 病気が荒野を作り出しているのではないのです。罪 (エゴイズム)が荒野を作り出しているのです。 ある説教者はこの「わたしが行くうちに、ほかの人が先に 降りて行くのです」(5:7b)という痛切な言葉を読んだ後、 ぽつんとサルトルの言葉を引用しています。「地獄とは、 他人のことである。」人間関係こそ地獄なのです。人間関係 こそ砂漠なのです。救いの場にすら、この競争原理は 入り込む。「救済」とは最も良きものですが、それを 根本から腐食してしまう「競争」という病原菌が、その 「救済」のただ中に(こそ)侵入してくる。そして人を 勝ち組から負け組までランク付けをする。それに連れて、 足の引っ張り合いと妬みが起こる。救いの場、それは 「宗教の場」です。最も人が優しくなるはずの場で、しかし そこでこの上なき激しい争いが起こる。まことに逆説的で あります。しかし罪とはこのような逆説を生み出すのです。 最も良きものを、最悪のものに反転する悪魔的力、それが 罪(エゴイズム)なのです。 主イエスがこの病人をお癒し下さった後、5:9bからは、 主とユダヤ人との間で安息日論争が起こっています。 律法では安息日に仕事をしてはいけない。だから癒されて 床を担いだ元病人も、癒したイエス様も安息日律法を 破った違反者となった。では、どうして律法違反を してはならいのか。それは救われないからです。神様は 律法を守る人しか救わないというのが律法主義でした。 この律法主義から起こることは、結局、競争です。律法主義で 一番になった者が、神に最も近い最上層におり、その 律法遵守の生活が緩むにつれて、神様から遠くなって いくのです。そして、罪人、徴税人などは、存在自体が 律法違反であって、もはや救われることなき宗教的最下層が 存在する。病人もまた因果応報の教理から、簡単には 救われない存在でした。そのような序列の理解に倣って、 このベトザタの回廊で、一発逆転の最後の競争が、しかも 最も激しい競争が、残されていたのです。律法主義とは こういう世界を生み出すのです。そのような「五つの回廊」に 主が入って行かれたとは、どういうことでしょうか。 それはまさに、福音をもって、律法主義の競争を打ち 壊すためではないでしょうか。この「五つの回廊」も 暗示的でして、それは旧約聖書の「モーセ五書」(律法の書)を 連想させると言われます。主はその「五つの回廊」を前に、 挑戦しておられる。「律法ではない、福音によって」と。 だから主イエスは、私が水を動かして、そこにあなたを 一番に入れてあげようと、そのような癒しを行われたの ではありません。「起き上がりなさい。床を担いで 歩きなさい。」(5:8)と御言葉のみによる癒しを 行われました。つまり池を無視されたのです。水が動こうと 動くまいと、一番先に入ろうと入るまいと、そのような ことは、福音の前に、何の関係なかったのです。主が 来て下さった。安息日に「もう競争はいらない」と真の 安息を与えるために、病人の所に来て下さった。その時、 律法主義の回廊が崩れ始めるのです。 関谷定夫先生が『聖都エルサレム 5000年の歴史』と いう大著を出版されました。私はこの書を、水曜日の 列王記下の研究でも、このヨハネ福音書の研究でも 必読の書としていますが、このベトザタの池についても 大変詳細に記されています。それによると、後の時代の 古シリア語写本「クレトン写本」ではヨハネ5:2はこう 書き換えられているそうです。「エルサレムには アラム語で、ベート・ヘスダーと呼ばれるバプテストリ (洗礼槽)があった」。それを引用して関谷先生は、これは、 初期キリスト教時代にこの池がバプテスマ用に使用された ことを意味している、そう書いています。使徒言行録 2:41には、ペンテコステの日、聖霊に満たされて使徒ペトロが 説教したところ、3000人が悔い改めて洗礼を受けたと あります。そのバプテスマとは、このベトザタの池で なされた可能性がある、とも書かれてある。その時は もう一番に入った一人のみが救われるんじゃない。 3000人が今度は、押しのけ合うどころか、逆です。 誘い合って、手と手を取り合って、助け合いながら池に 入っていく。その情景を見た人は圧倒されたのでは ないでしょうか。これまでは怒号が飛び交う中、獣のように 病人が、水に飛び込むシーンばかり見せられていた。 しかし同じ池で、今人びとは穏やかに優雅にしずしずと 水に入っていく。まさに安息と静けさがここを支配して いる。かくして、池の意味がすっかり変わってしまった。 「他人は地獄である」から「他人は天国である」へ。 「競争社会のストレス」から「安息」へ。関谷先生は、 やがてこの池の上に教会が建った、それは、「足の 不自由な男の教会」という名前だったと書いています。 とうとうこの律法主義の池を福音の教会が覆い包んで しまったという事実の指摘です。 現在日本のベトザタの池も、教会が覆い尽くす時、 イザヤの預言が成就するのです。 「そのとき/ 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった 人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に 川が流れる。」(35:6) 祈りましょう。 主よ、教会が現在のベトザタの 池を覆い尽くし、変革し、そこから溢れ出る洗礼の 水をもって、人びとを安息の中に招くことが出来ますように。 |