主日礼拝説教 平和を成し遂げる原理 フィリピの信徒への手紙 3:12−14 2005.10.2 丘昌完 ソウルチェイル教会牧師 21世紀を迎えて既に5年が過ぎました。5年前21世紀を迎えるとき 多くの人は21世紀は和解の時代になると期待しました。何故なら 20世紀は人類の歴史上最も大きな戦争が有った世紀だからです。 20世紀の前半だけでも2度の世界大戦を経験し、それに飽き足らず 20世紀の後半にも朝鮮戦争、ベトナム戦争等 世界大戦に準ずる 大きな戦争をしなければなりませんでした。いくつかの国で戦争が 起こることは人類の歴史上、常だったのですが、20世紀のように 多くの国が一時に戦争に巻き込まれることはありませんでした。 この様な20世紀を終わるに当たって人々は21世紀には最小限、 戦争が無い平和な時代を生きることを望みました。けれども 今まではこの様な望みは水の泡と消えてしまったように見えます。 平和な時代が来るどころかむしろ世界のそこここでテロが発生する など事態はさらに悪化しているようにさえ思えます。 けれども 絶望するのはまだ早いのです。21世紀はまだ95年も残っている からです。 平和はだれかがもたらしてくれるものではなく私達が努力して 成し遂げなければならない課題です。したがって私達は世界の 平和のため常に努力をしなければなりません。神様は‘自ら 助けるものを助ける’ (Heaven helps those who help themselves.) と言う西洋のことわざにもあるように、平和のために努力する 人に神様は平和をくださいます。それ故、私達は気落ちすること なく21世紀を平和の世紀にするために努力しなければなりません。 西片町教会とソウルチェイル教会がこのように“東北アジアでの キリスト者の役割”と言う主題で修養会を持つことも、たとえ 微力であったとしても、東北アジアに平和をもたらし、さらに進んで 世界平和を実現するための努力だと言うことができます。神様は 私達のこの様な努力にお気づきにならない筈がなく、また無視 なさる筈は無いと思います。 米国ニューヨーク州北部の寂しい山の奥に‘ニュー スキート (New Skete)修道院’と言う修道者共同体があります。その修道院は 1960年代初め、東方正教会の伝統に魅力を感じた修道僧が新しい 共同体で、彼等は4世紀始めにキリスト教最初の修道院運動を始めた 古代の砂漠の教父達が示した修道生活の原理を具現化するためその 修道院を建設し、自分達が尊敬する砂漠の教父たちが修道院運動を 始めたスキート砂漠に因んで、自分達の新しい共同体に‘ニュー スキート’という名前を付けました。そのニュー スキート 修道院の修道僧は修道生活についてこの様に話しています。 “私達各個人は霊的生活と言う目標の光の中で変化するため 人生の瞬間、瞬間を持続的に努力しなければならない。変化は 連続的な過程である。 ところで私達は既に変化し既に回心したと いう理由で自分を正当化し ‘私はこのままで良いのだ。感謝 します・・・’と言ってこの変化を拒絶する傾向にたやすく陥る。 けれども・・・修道生活と言うものは一時のものではない。それは 諸々のうそ偽りの幻想を切り抜け歩み続けながら霊的なことに 着実に粘り強く邁進するという意味なのだ。”(ニュー スキートの修道僧たち、“幸福を志す修道院”。The Monks of New Skete, "In the Spirit of Happiness") ニュー スキートの修道僧達が言っているように信仰生活は イエス・キリストの完全さに到達するため絶え間ない自分の 変化を目指して努力する過程だと言うことが出来ます。 ‘私は罪を悔やんで贖われて永遠の命を約束されました。そして イエスを信じる前より言葉や行動が大変良くなりました。 これならいい。私はこのままで良い。’と言い張って現在到達 している水準に安住しようとすることは信仰を持つ者の姿勢では ありません。信仰的な生き方とは完全な真理に到達するまで 休み無く努力する求道者の姿勢を大事にすることを言います。 それ故本当の信仰を持つ人は真理に到達するまで自分が出した 結果に満足することなく、さらに次の結果を達成するため 絶え間ない努力をします。 本当の信仰を持つ人の姿勢はどのようなものなのかについて 使徒パウロも私達に教えてくれています。フィリピの信徒への 手紙3章12節でパウロは自分が既にそれを得たというわけでは なく、既に完全な者となっているわけでもありませんと 語っています。13節では後ろのものを忘れ、前のものに全身を 向けつつ(・・ひたすら走る)と語っています。14節では自分が この様にひたすらはしる理由は自分に神様が下さった目標が あるからだと語っています。 平和は神様が私達全員のために立てて下さった目標です。 全人類が皆一緒に平和に暮らすこと、それが神様の私達に示す 目標であり、課題です。私達が其の目標に到達できるように 私達を助けてくださろうとして神様は既に2千年前にイエス・ キリストをこの世に平和の王としてつかわしてくださいました。 そうして私達がどのようにすれば平和という目標に到達する ことが出来るのか、イエス・キリストの言葉と行動を通して その道を示してくださいました。 平和を達成するために私達がイエス・キリストに習うという 知恵とはいったいなんでしょうか? 其のその回答をパウロは フィリピへの信徒への手紙2章7節で私達に示しています。それは ‘自分を無にする’と言うことです。 自分を無にするということはどういう意味なのでしょうか? 2章3節と4節での説明は、それは謙遜の心を持ち、自分より 他人を優れたものと認め、他の人々の状況と立場に心を配り、 仕えることと言っています。 平和を達成しようとするなら、まず第一に、私達は謙遜な心を 持たなければならず、自分より他人を優れたものとして認める ことを知らなければなりません。家庭に平和をもたらそうと するなら夫婦が互いに謙遜でなければなりません。 相手が自分より優れていると考え、したがって自分は運良く 私より優れた人を配偶者にして幸福な結婚をしたと考え なければなりません。夫婦がこの様な謙遜な心を持てば家庭は 平和なものとなるでしょう。これと同様に東北アジアに平和を もたらそうとするなら日本と中国と韓国が謙遜であることを学び、 各国が他の国の存在を認め、その長所を高く評価しなければ なりません。けれども今、東北アジアの3国は自国、自民族の 優越性を前面に押したてようと過去の歴史を隠蔽し、操作し、 歪曲するなどしています。そうして自国を押し立てるため 他国に犠牲を強要し、他民族を傷つけることを躊躇していません。 自分より他人を優れたものとして認めるどころか、自分より 他人は劣ったものとして見下げる競争をしているのです。 この様な覇権主義と帝国主義を克服しなければ東北アジアに 平和を期待することは難しいでしょう。 自分を無にすると言うことは、2番目に、謙遜の次元から一歩を さらに踏み出し他の人々の立場と状況に関心を払い、助ける ‘仕える(奉仕)’を意味します。自分を無にするということは 自分の安逸だけを考えることではなく他の人々にも関心を払い、 他の人々の幸福のため喜んで自分の不利益と不便をも甘受する ことを指しています。 自分だけを考えれば私達はいくらでも現状に満足することが 出来、現在の不義や不便に目をつぶることが出来ます。けれども 他の人々を考えればキリスト者としてはこの様なことは 出来ません。私達の周りには平和を享受することが出来ずに 生きている人々があまりにも多く、我慢しなさいと言うことが 出来ないくらい悲惨な状況に置かれている人々があまりにも 多いからです。したがって本当のキリスト者は、私が平安 だからこのままでいいのだとは言えないのです。本当の キリスト者であるなら、あなたがもっと幸福になるためには 世の中がどのように変わればいいのかと隣人に聞くことが 出来なければなりません。そうしてあなたがもっと幸福に なるためにはわたしがどうしたらいいのかと隣人に問い、 隣人の本当の幸福の助けになるなら少しは自分に害になる ことがあってもそのようにしてあげることが出来なければ なりません。 けれども今、韓国では朝鮮が統一されれば北朝鮮を援助し なければならないので統一せずこのままにしておくのが良いと いう人が少なくありません。北朝鮮の人々が私達の同族で なかったらよかったと考える人もいます。これはキリスト者 だという立場からは抱いてはならない考えです。いわんや自分の 幸福のためにあなたは抑圧も甘受しなければならず、私の 代わりに犠牲を払わなければならないと考えることはキリスト者 であるなら想像してもいけないことです。政治的に偏狭な 国粋主義と自国利益優先主義を克服しない限り東北アジアに 平和をもたらすことは難しいのです。 東北アジアで他国、他民族を犠牲にして自国、自民族のみ 幸福を実現できる道はありません。自国だけのためのことは 決して自国のためになることは有り得ません。それは結果的には 自分の国も亡ぼすだけです。 ‘一人笑いは半笑い’という 言葉があります。他の人と一緒に分け合うことのない喜びは 本当の喜びにはならないと言う意味です。言い換えれば他の 人を泣かせて自分だけが笑ってもそれは空しい笑いにさえも なりません。それは呪詛を受けることになるだけです。 私達はまだ自分だけ幸福になる道、自分達だけが生き残れる 道があるという考えにとらわれています。私達は自分を含めて この様なまちがった考えをしている人たちを説得しなければ なりません。隣人と一緒に喜ぶことが出来なければ私達は 本当の喜びを味わうことができないと言う事実をもっと多くの 人たちに知らせなければなりません。どんなに成果が見え なくても絶望してはならず、諦めてはいけません。平和は 私達が招命をうけた目標であり、その目標にはパウロが 語ったように神様が与えてくださる賞があるからです。 20世紀の大混乱を経験した後21世紀に足を踏み入れて 人類はようやく平和が神様が私達全ての人類に備えて くださった目標、人類が生き残る道だという事実を悟る ようになりました。私達はより良い平和、より多くの人が 一緒に味わうことの出来る平和を達成するためにより多くの 努力をしなければなりません。今は成功か失敗かを論議する 段階ではありません。私達は今私たちの目標に目を向け 始めたばかりであり、今やっとその目標にむかって走り 始めたに過ぎないからです。 西片町教会とソウルチェイル教会も東北アジアの平和のために ここで小さな一歩を踏み出しました。結実がないように見えても この歩みを続けようではありませんか。もうすこし自分を 低くする謙遜な姿勢で、もう少し自分を投げ出すという 仕える姿勢で平和のために努力いたしましょう。私達の 小さな努力が中断されずに続けられれば東北アジアにきっと 平和が訪れることでしょう 祈祷いたします。 ご在天の父なる神様、私達が平和を実現するために招命を 受けたことを悟らせてくださったことを感謝いたします。 そうしてどのようにすれば平和が達成できるかも教えて くださり感謝いたします。またこの様に二つの教会の 兄弟姉妹をあつめ、平和のために一緒に歩みを始めさせて 下さったことを感謝申し上げます。この歩みを中断する ことがないように私どもを励まし、私どもがまず平和の 果実を味わうことの出来るようにしてください。主イエス キリストのみ名によりこの祈りをみまえにおささげいたします。 アーメン。 →開会礼拝説教 →西片町教会発題 →ソウルチェイル教会発題 |