2005年9月11日 「嵐に堪える望み」
(使徒言行録27:13〜37)




 使徒言行録27章、これは旅の物語です。パウロは既に三度の
伝道旅行を行ってきました。今回は伝道旅行ではありません。
パウロは無実の罪で捕らえられている囚人としてローマへ
送られることになりました。パウロの希望通りローマ皇帝の許で
裁かれるためでした。それは都ローマの教会と福音を分かち
合いたいというパウロの強い願いがあったと同時に、主イエスの
ご計画でもありました。

 かつてエルサレムにおいて捕らえられ、不安な一夜を過ごした
とき、主はパウロのそばに立って言われました。

 「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証しした
ように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)。

 神の言葉に裏付けられたパウロの願いが叶う時が来ました。
ローマへの船出の夏がやってたのです。しかしその航海は
困難を極めました。逆風に悩まされます。航海全体の半ばに
当たります地中海に浮かぶクレタ島に到着した時は予定を
大幅に遅れ、もう秋の終わりとなっていました。クレタ島で
越冬する他はなくなりました。この時停泊していた
「良い港」(27:8)は名に反して条件の悪い港でした。
僅か65qほど西に島を回れば、北風が吹き込みにくい越冬に
相応しい「フェニクス港」(27:12)がありました。そこで
船長を初め、大多数の者がフェニクスに回ることに賛成
しました。しかしその中にあって、使徒パウロだけは、この
「良い港」から動いてはならないと主張したのです。勿論、
囚人パウロには何の権限もありません。彼は船の素人に
過ぎない。だから皆パウロの意見を無視しました。

 南風が静かに吹いています。舟はスルスルと港を出ます。
ところがその直後、「エウラキロン」(27:14)訳せば
「北東風」と呼ばれる暴風が、島から吹きおろしてきまして、
舟はあっという間に沖へ流される。それからは修羅場です。
船乗りたちはあらん限りの知識と力を奮って風と戦い続ける。
しかし勝てません。

 古代イスラエル人にとって、海は怪獣の住む不気味な
世界と覚えられていました。その得体の知れない姿がここにも
現れるのです。「南風−」(27:13)それは、まるで舟を
誘っているかのようです。

 しかしこのような不気味さとは、私たちの人生行路にも
あるのではないでしょうか。私たちの人生にも甘い南風の
ようなものが手招きすることがあります。そこに行けば
もっと楽しくなると思って船出していった時、流され
溺れてしまうことがある。また「大多数の者の意見」
(27:12)ともあります。人間の経験、知識、そして
多数意見、そこに生まれる揺るぎなき確信、それもまた
甘い罠になります。本日は、国政選挙があります。街頭で
大声が連呼される。多数決で決する。しかしそれが大声と
甘い罠で定まる時、どんなに危険な選択が生じるか。

 最初これはパウロの伝道旅行ではないと申しました。
しかし伝道者はいつでも伝道するのです。24時間、いつも
神の言葉を帯びるのがキリスト者であります。パウロは
その神の知恵をもって、その船出の危険な罠を見抜きました。
「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や
船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の
損失をもたらすことになります。」(27:10))

 この船に伝道者一人は乗っている。27:1には、
「わたしたち」とありまして、この箇所が「我ら章句」で
あることが分かります。ですから、ルカ、そしてテサロニケ
出身のアリスタルコ(27:2)がここに同船している。
少なくても3人のキリスト者はいた。彼らは少数です。
専門家でもない。しかし船(家庭、人生、国家)が難破
しないために、キリスト者の取り次ぐ神の言葉を聴き、
神の知恵を求めることが危急の際どんなに大切なのか、
ということが既にここで言われているのです。

 ある人は、ここで、何故、船長、船主たちが、少しでも
クレタ島の西へと主張したのか。それはただ人命の安全と
いうことではなくて、実は、船に積んでいる商品を春、
どの貿易船よりも一番先にイタリアに届け有利な商売を
したいと願っていたからだと注釈しています。そうかも
しれません。人間はそのように、一番大事なものを後回しに
して、実はさほど大事でないことを、最優先事項として
突き進むことがあるのではないでしょうか。

  主イエスは言われました。「人は、たとえ全世界を手に
入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の
命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)

  船乗りたちは、波に飲まれそうになる中、最初は何とか
して積み荷を守ろうとしたに違いありません。ところが
翌日になると、事態はさらに厳しくなります。人々は、
積み荷を海に捨て始めました。そして三日目には、船具までも
投げ捨てる事態になりました(27:19)。せっかく遭難初期に、
流されないように必死で確保した小舟も、綱を断ち切って
流しました(27:32)。命を守るためにはどんな大事な財産も
投げ捨てなければならない時があるのです。平穏なときには、
自分に幸福と豊かさを与えてくれると思われたものが、
嵐の中で、実はそれこそ、私たちを溺れさせる重荷に
過ぎなかったことが暴露されてくるのです。

 実は、私たちの人生を襲う「試練」とは、このように、
私たちの人生にとって、実は何が一番大切なものなかを
指し示すための神の愛の鞭なのではないでしょうか。

 「人の命は財産によってどうすることもできない
からである。」(ルカ12:15)

 「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹き
すさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようと
していた」(27:20)。船乗りが依り頼んでいた太陽、
星の位置による航海技術が全く役たたなくなったことが
示されています。しかしそのように人の知恵が、人の言葉が
力を失った時、神の言葉が立ち上がるのです。使徒パウロは
立ち上がってこう言いました。「わたしが仕え、礼拝して
いる神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう
言われました。『パウロ、恐れるな。…神は、一緒に航海して
いるすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」
(27:23〜24)。

 神様はいつも私たちを愛しいつも見守り、傍らにいて
お言葉をかけていて下さるのです。しかし私たちが自分の声、
多数の声、つまり人間の大声の大合唱の中にいますと神の
言葉が聞こえないのです。

 「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を
砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。…火の中にも
主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が
聞こえた。」(列王記上19:11〜12)

 滅びは「必然」である。死な「ねばならない」。しかし
その時、パウロは全く逆の意味の「必然」と「ねばならない」を
語り始めます。「あなたは皇帝の前に出頭しなければ
ならない。」(27:24)「わたしに告げられたことは、その
とおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げ
られるはずです。」(27:25〜26)

 神の「ねばならい」、神の「そのとおりになる」、神の
「必然」であります。破滅の必然に、抗う神の救いの必然で
あります。破滅の「必然」でなく、神の「必然」が勝利する。
神の計画のみが勝つ。それを変えることの出来るものは
ないのだ。一切を支配される神の力。全てを越えて進む
神の計画、その信仰が告白されているのです。

  「大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。
さらに力強く、高くいます主。」(詩編93:4)

 パウロはその神の言葉の希望の中で、船の中にいる一同に、
食事をするようにと勧めました(27:33)。もう14日もの間、
人々は不安のために何も食べていませんでした。ここはもう
危険が去ったから安心して食事を取ったということでは
ありません。なお嵐のただ中の出来事においてです。

 今は嵐のような毎日で、祈るゆとりはありません。礼拝に
行く時間はありません。聖餐も受けません。いつの時代にも、
そういう声が聞こえてきます。しかし、その忙しさがもし
隣人の生命の安全を守る愛以外の理由、ただ、先の船主の
利得のための忙しさだったとしたら、やはりそこで、一番
大切なものとは何かが見失っているということなのです。
この嵐の中の食卓に与る時、船員たちは、何が本当に大事
なのかということを知ったのではないでしょうか。人生の
危機の時に、つまり最も心忙しい時に、真っ先にしなければ
ならない最優先のことは、何を差し置いても、主の食卓、
聖餐に与ることだ、ということであります(27:35)。
それが私たちをいかなる試練のただ中においても元気に
するからであります。「そこで、一同も元気づいて食事を
した。」(27:36)
 
  祈りましょう。 主よ。教会という船も時に難破しそうに
なります。奢り高ぶりの故に、自らの言葉に酔い、御言葉を
かき消してしまう罪を思います。しかし私たちの船のマストは
主の十字架であることを覚え、それが故に、罪贖われた者と
して立ち直り、再び神の国を目指す航海を続けていくことが
出来ますように。