聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに 重荷を負わせないことに決めました。(使徒言行録15:28) 教会は会議をよくします。私たちの教会も毎月の役員会、年一度 の教会総会を開催しています。また各教会が属する教派においても 代表を集めて会議がもたれます。私たちの教会も、属する北支区 総会、東京教区総会、教団総会に議員を送っています。 古来、教会においてどれだけ多くの会議が開かれてきたのか 数えることも出来ません。その最初の記録、最初の世界教会会議と なりました会議が、使徒言行録第15章に記されているのです。まだ 余り広い地域ではありませんが、既に生まれていた世界各地の教会に 呼びかけられ、代表者たちがエルサレム教会に一堂に会したので あります。 どの注解者もこの会議が教会にとってどれほど重大なもので あったかを語って止みません。その一つ表現にこういう指摘が ありました。この使徒言行録15章は同書28章のほぼ中央に当たって いる。いやそればかりではない。新約聖書全体の中でも中央に 位置していると言うのです(新共同訳では新約聖書は480頁 ありますが、この会議の箇所は242頁)。緻密な学問的研究を してきた注解者が、ちょっと思いがけないことですが「これは 偶然ではない」とはっきり書いています。これはまことに 象徴的である。エルサレム会議は聖書の中央にあえて置かれる ことによって、これが教会の「分水嶺」であったことを言い 表しているのだ、と言うのであります。 分水嶺とは、例えば本州中央を貫く山脈の分水嶺において、 降った雨の一滴が右か左のどちら側に落ちるかで、それはもう 全く反対側に流れていくことになる、そういうことです。 雨粒の落ちた位置は山脈のほんの10センチの違いかもしれない。 その紙一重で、雨粒の行き先は日本海と太平洋、まるで逆の 運命を辿ることになるのだ。この会議はそういう天下分け目の 分水嶺だったのです。これによって、教会は滅びの川に流れて 行ってしまうのか、それとも、神の国を目差す滔々たる流れに 身を任せることが出来るのかが、決まるのです。 議題は、人が救われるためにはキリストを信じるだけでなくて、 なお割礼や律法遵守が必要であるかどうか、ということでした。 「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように 命じるべきだ」(15:5)との意見が決議されたら、その後教会は どうなったでしょうか。おそらくユダヤ教の一分派として数十年 続いただけで消滅したのではないでしょうか。そうなったと したら、紀元後二千年の人類歴史は、キリスト教なしで営まれた ということです。世界は想像出来ないような恐るべき違いを 見せたと思う。そう思えば、最初の世界教会会議と申しても、 私たちの教団総会にも及ばない小さな会議の決定が、教会の 盛衰を超えて、むしろ全人類の命運を握っている分水嶺で あったことが分かります。だから教会会議を疎かにしては ならないのであります。西片町教会がなす会議は本当に小さな ものです。しかしその会議が、実は、歴史の分水嶺であるかも しれません。命の命運を握っているかもしれません。だから 誠実に事に当たらなければならない。 では誠実とは何でしょうか。ここで、割礼、律法を主張した 者たちも誠実であったから妥協しなかったのです。皆誠実 だったから「激しい意見の対立と論争」(15:2)に突入した のです。 教会会議に臨む私たちの誠実とは、決して、自分の主張に どこまでも誠実であれなどということでありません。ある人は、 教会会議とは「御前会議」(天皇出席のもとに重臣が催す会議) であると言いました。私たちの会議は、それに似て、常に 主イエスキリストの「御前」でなされているのです。また ある人は、教会会議は、デモクラシー(民衆の支配)では なくクライストクラシー(キリストの支配)であると言いました。 その点で、デモクラシーにおける多数決も限界をもつと言うのです。 そうであれば、私たちは会議において、人間の思いを追求する のではなく、ひたすら主イエスキリストの御心がなることを 祈りつつ進めることが求められているのです。 日本基督教団「総会議事規則」議事第1条は「会議および委員会は 祈祷をもって開閉される」とあります。この第1条を守らない会議は、 主イエス不在の「人の声のみしげき」(讃美歌21-497)会議となる でしょう。私たちは「細きみ声を聴きわけうる静けき心」が与え られるよう祈らなければなりません。 まことに騒々しかったと思うエルサレム会議が、ついに 「全会衆は静かに」(15:12)なる時を迎えます。その沈黙前後に 立証がありました。最初に使徒ペトロが立証しました。「神は、 わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、 彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです」(15:8)。 続いてパウロたちが「 神が異邦人の間で行われた、あらゆる しるしと不思議な業について」(15:12)証ししました。 ここで異邦人伝道を推進してきた伝道者たちが証ししたことは、 異邦人伝道の主役は、決してペトロでもパウロでもなく神様 ご自身なのだ、ということです。異邦人の間で、神様が律法も 割礼も用いず、ただ恵みだけで、どれほど豊かに人々を生かして 下さったかを語った。異邦人伝道は、我々人間の野心によって 始まったことじゃない。これは「神の宣教」なのだ。神様の お気持ちがはっきりこの世に現れたのだ。私たちはその証人に すぎない、そう言っているのです。神様がお一人で先に始められた 業を、我々教会も今追認し受け入れ、神様と共に伝道しよう、 そう証しがなされた時、議員たちは沈黙したのです。 もう一つ教会会議において大切なことは、議員たちが聖書を 読んでいるかということです。それなしに、今ここにおける 神のご意志を知ることはとうてい出来ません。 エルサレム教会の指導者ヤコブは、異邦人伝道に及ぶ「神の宣教」 を指摘された時、聖書に記される預言者の言葉をはっと思い出した のです。 「その後、わたしは戻って来て、…人々のうちの残った者や、/ わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」 (15:16〜18)。これは旧約聖書・預言者アモスの言葉です。 この言葉の直前でアモスはこうも言っています。「イスラエルの 人々よ。わたしにとってお前たちは/クシュの人々と変わりが ないではないかと/主は言われる。わたしはイスラエルを エジプトの地から/ペリシテ人をカフトルから/アラム人を キルから、導き上ったではないか。」(アモス9:7) ここに記されていることは「神はイスラエルの民族神では なかったのだ」ということであります。イスラエルがずっと 拝してきた神とは「全世界の神」だったのだという発見が 記されているのです。神様の目からみたら、イスラエルは クシュと何も変わらない、イスラエルが経験したエジプト脱出の 素晴らしい出来事と同じことを神様は「ペリシテ人、アラム人にも してきたのだ」。そう言ってヤコブが引用した言葉(使徒言行録 15:16〜17)に続くのです。イスラエルは一度罪を犯して滅んで しまったが、神様はそこを立て直して下さる。そこに再び イスラエルの残った者を集めて下さる。しかし今度はそれだけ じゃない。もう私はイスラエルだけの神でない。異邦人もまた主を 求めるようになる。新しい神の民がここに生まれるのだ。このように 大昔の預言者アモスにおいて、神は異邦人の神でもあられることが 既に言われている。聖書を開いて分かったことは、実は神様の 御心の内では、昔から、異邦人は異邦人のままで、割礼も律法も なしに、神の民になることが出来る、それは決まっていたこと だったのだ。そう言って、ヤコブは宣言しました。 「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。」(15:19) ついに教会という雨粒は、分水嶺において、正しい側に落ちた のです。しかしそれもまた人間の力ではありません。「聖霊」 (使徒言行録15:28)ともあります。この会議には御霊が臨在 されていた。御霊の風は、その一吹きによって、会議に臨む 使徒、長老たちの心を動かして、教会を神の国へと流れ込む 川へちゃんと落として下さった。その意味では私たちは余りに 気張って会議に臨む必要もないかもしれない。御霊がきっと 導いて下さる。確かに @祈ること A証しを聴くこと B聖書を読むこと この三点を忘れずに教会会議に臨むことが、私たちの誠実で あります。しかしその誠実すらも超えて、いざというとき 御霊が風を送って下さる。その風に吹かれて御心に叶った 決議が成る、その信頼を失う必要はありません。 祈りましょう。 神様、時に、教会政治は、ただ人間の思い、 我が儘のみが支配しているのではないかと疑うことすらあります。 静まってあなたの御声に聴くところから会議を始めさせて下さい。 どうか聖霊の風を議場に送って下さい。 |