先ほど、ずっと読み続けていますマルコ福音書に合わせて、 旧約聖書・出エジプト記20章に記されますモーセの「十戒」 を読んで頂きました。この十戒はシナイ山で、神御自身が 板に刻まれ、筆跡も御自身のもの(出エジプト32:15)ですが、 それは二枚に分かれていました。 その場合、第一戒の「あなたには、わたしをおいてほかに 神があってはならない」から第五戒「あなたの父母を敬え」 までが、つまり第一戒から第五戒までが、一枚目の石版に 記されていたと思われます。そして第六戒「殺してはならない」 から第十戒「隣人の家を欲してはならない」までが二枚目の 石版に記されていたと想像されるのです。どうしてそう思うのか。 それは、五つ、五つで丁度半分に分けられるということが ありますが、それ以上に、第一戒から第五戒までの前半には、 神様に対する掟が記されているからです。そして、後半の 第六戒から第十戒までは、人間に対する掟が記されている。 つまり前半の板には「信仰」について記されてあり、後半の 板には「倫理」が記されている、そのような理解です。だから 二枚の板なのです。その後、この神の書かれた戒めは人間の手に よって枝分かれてしていきまして、人間の生活の隅々にまで 触手を伸ばし、その行動を細部に渡り規定する数百の律法に 広がっていきました。またその数百の律法をさらに解釈する 律法学者が必要となりました。しかしそのことによって、 人はただその数百の律法を守ることだけに汲々として、その 律法の中心を忘れてしまった。それは例えば、プールに一本の ワインをみな流し入れてしまったようなものかもしれない。 どんな豊潤なワインも、確かにその一滴、一滴はプールの中に 変わらず存在してはいるのですが、そこでは本来の香りも色も 味わいも失ってしまう。日々、数百の律法の解釈に明け暮れ、 しかしそれはプールの水を飲むような味気ないものになって しまっていた。神の言葉の豊かさが薄まってしまった。 そのことで心悩ませていたのかもしれません、一人の律法学者が 来まして「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 (マルコ12:28)と尋ねました。それに対して主がお答えに なられたのが、まさに、この十戒の二枚の板に律法を「要約」 するというより、「収斂」(薄まってしまったものを、濃縮しなおす) するお答えであったと思う。主イエスはその一枚目の板、第一の掟、 それは、神を愛することであると言われた。そして第二の掟は、 二枚目の板に記される、「人間に対する愛」の掟なのだ、そう 言われた時、律法学者は喜びに溢れた。それは、よく映画で フィルムを逆回しするシーンがありますが、その反転シーンの中で、 プールに流し込まれたワインが再び一本のワイン瓶の中に戻るように、 薄まってしまった律法が、再び濃縮し始め元のシナイ山からとられた ままの、神の筆跡がそのまま見えるほどに戻る。そこに無味乾燥だと 思われていた掟が、豊潤な味わいを甦らせる。つまり命を取り戻すので あります。掟の命とは何か。本来の香りとは何か。それは「愛」で あります。愛の香り、愛の色合い、愛の味わいであります。 律法学者には一度流されてしまった掟の命が復活する、フィルム 逆回しの奇跡のシーンを見るように見えたのだと思う。だから、 律法学者は歓喜の声を挙げたのです。「先生、おっしゃるとおりです。」 (12:32)と。 ところで、今私は、二枚目の板を隣人に対する戒め、とは言わずに、 「人間に対する戒め」と申しました。どうしてかと言いますと、それは、 二枚目の板のことを、31「隣人を自分のように愛しなさい」(12:31)と 主が言い換えたのですが、その掟には、隣人だけでない、「自分」と いう人間も含まれているのです。そのことを忘れてはいけない。つまり、 ここで主イエスは、最も大切な掟とは、愛である。つまり神への愛と 隣人への愛と、そして自分自身への愛なのだ。その三次元なのだ、 そう言っておられるのではないでしょうか。 何故、自分に対する愛をも、主はここで暗に求められたのか。直ぐ 気づくと思う。私たちはどんなに自分を真実の意味で愛することを 知らないか。誤った仕方では愛するかもしれない。しかしその誤った 愛とは、最初は甘い蜜のようであって、いずれ苦くなる。自分を いずれ滅ぼし殺す愛でしかない。誤った愛の末に、自分が自分で 本当にいやでいやでたまらなくなる、私たちはそれをどれほど、 これまで経験してきたでありましょうか。愛されることだけを求め、 愛されることに慣れた人が、その中でどんなに虚無的となるか。 むしろ少しでも人を愛することが出来た時に、人は人生の真の充足を 知るのです。そこで、人は自分を真に愛し、大切にする仕方を知るの ではないでしょうか。 マルチン・ルーサー・キング牧師は『汝の敵を愛せよ』という 説教集の中で「全き命の三次元」という素晴らしい説教を残しています。 その説教は、ヨハネの黙示録21章の、ヨハネの見た、天から来る新しい エルサレムの姿の描写から始まっています。その新しい神の都とは、 「長さと幅と高さとが、いずれも同じである」と御言葉には記されて います。それは完全な都との意味です。そしてキング牧師は、その 新しき都とは、私たちの姿であると、こう語り始めるのです。 「長さ」とは、自分を発展させることである。自分を長く伸ばす ことである。われわれは、自分の仕事において、優れたことを成し 遂げるために、努力するよう求められている。全ての人が芸術や 科学の分野で天才の高みにのぼるわけではない。しかし意義のない 仕事というものはない。全ての労働は人間性を伸ばすのだ。ある人が 街路掃除人として召されたら、その人は、ミケランジェロが描き、 シェークスピアが詩作したのと同じように、街路を掃除したまえ。 その人は、御使いが、そこで立ち止まって「自分の仕事を立派に 行った偉い街路掃除人がここにいた」と述べるほど、立派に町を 掃除するべきだ、これが人間の生命の「長さ」なのだ、そう言うのです。 しかし、人間は「長さ」だけでは、駄目だ。「幅」が必要である。 「幅」のない「長さ」は、外洋に出るはけ口のない、孤立した流れに 似ている。このことは、わが国が直面している人種問題の危機には っきり見て取れる。白人の兄弟たちの多くが、生命の「長さ」 −つまり彼らの経済上の特権的地位、政治的勢力に関心を持ちすぎて いる。もしも彼らが、一次元的な「長さ」に二次元の「幅」を、 つまり自分を大切にする次元に、他を顧みる次元を加えることが 出来たなら、わが国の中にある不協和音は、兄弟愛の美しい交響曲に 変えられるであろう。「長さ」に「幅」を加える必要は、国際関係に おいてもそうだ。どの国でも一国だけで生きてはいけない。国家も 個人も孤独の内に生きてはいけないからだ。その国家の歴史も人の 人生も平面に広がっていかねばならない。 そして、終わりに、完全な生命のためには、もう一つの次元が 残っている。「高さ」である。上方への広がりである。天の永遠なる 存在との関わりである。「長さ」と「幅」に「高さ」を加える時、 私たちは完全な命を持つ。「長さ」と「幅」だけの人は、ついには、 自分自身を神であると結論してしまうほどになるのだ。私は諸君に 対して、神を求めることを優先的に実行するように勧めたい。 高き所にいます、神を仰ぐことなしに、われわれのあらゆる努力は 灰燼に帰する。アウグスティヌスは言った。「あなたはわれわれを あなたに向けて造り給た。われわれの心は、あなたの内に憩うまで 安らぎを得ません。」 ある老牧師が、大学の卒業式に臨席して説教をした。彼は 説教が終わった後、卒業するクラスの学生たちと語り合った。 そこで、ロバートという才気優れた卒業生と話した。「君の将来に 対する計画は何かね」と尋ねました。「僕は直ぐ、法学部の 大学院へ行くつもりです。」とロバートが言う。「それから どうするね、ロバート君」と牧師は尋ねた。「はい、結婚して 家庭生活を始めます。その上で、僕は弁護士を開業して安定した 生活をたてます。」「それから」、「それから、僕は弁護士業に よって莫大な金を儲け、それをもって、多少早目に隠退したいんです。 そして多くの時間を世界旅行に使いたいと思っています。それが僕の いつもしたいといと考えていることなので。」牧師はしかし、尋ねる ことを止めなかった。「それからどうすの。ロバート君。」「はい、 これが僕の計画の全部です。」そこで牧師は、父親のような思いやりを もって、言いました。「君の計画は余りにも小さすぎる。それは せいぜい75年か100年の範囲でしかない。君は、神を含むほど大きく、 永遠を包み込むほど遠大な人生の計画を立てなければならない。」 この青年の計画は、水平面の上を動いているに過ぎない。永遠の 垂直面が欠けている。あなたの人生を天の主に委ねなさい。 主イエスキリストに。そう言って、キング牧師は続けるのです。 これは愛のことを言っていたのだ。自分を愛しなさい。それは、 生命の「長さ」なのだ。また隣人を愛しなさい。これは生命の 「幅」のことなのだ。しかし、「心を尽くし、精神を尽くし、 思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。」 という第一にして最大の戒めを忘れてはならない。これは生命の 「高さ」なのだ。この三つの次元を得る時、われわれは完全な 立体的な生命に生きることが出来るであろう。そういう説教であります。 キング牧師はそう言う。そして私たちも納得する。それは 本当のことだ。三次元の愛が私たちには必要だ。しかし、 ではキング先生、どうしたら、その三次元の愛の掟に私が生きる ことが出来るのですか。そう牧師に聞きに行きたいような衝動に かられるのも、また事実です。自分が嫌いで、隣人も好きな人も いるけど嫌いな人も多い。そして神をどれだけ愛しているだろうか 本当に心許ないのです。どうしたらいいのか。この生命の三次元、 つまり完全な生命を持ったのは、この世界でただお一人しかいないと 思う。主イエスキリストであります。主イエスだけが、この最も 大切な掟を実行されました。そして愛に欠けた私たちを、主イエスは その全き愛によって愛して下さったのです。マルコ福音書はここで 書いています。今、主は十字架へ向かっている、と。隣人も神も 愛さず、それ故に、自分自身が少しも愛することが出来ない、 完全な三次元どころか、何もない、何の次元も持たない私たち 罪人のために、主は今、十字架に向かって進んでおられる。 その十字架の姿は、不思議なことに三次元を示している。長さと 幅と高さを、その形は指し示しているように思われる。主イエスが 体を張って、私たちにその三次元の愛を指さしているかのように。 その完全な十字架の愛によって私たちの干からびた魂を主は 充たして下さる。その時、私たちの魂の器にその愛が充たされる。 その愛が魂の器に充たされた時、私たちの愛もまた溢れてくるかも しれない。グラスに豊潤なワインが充たされた時だけ、ワインの 甘い香りがそこから溢れてくるように。そこで、主イエスキリストの 愛の断片であっても、そのかけらであっても、私たちは愛に 生きるようになる。だから、その主イエスの愛の教えを受け入れた 律法学者に対して、主は最後に言いました。「あなたは、 神の国から遠くない」(12:34)。主イエスを受け入れる。 主イエスの十字架の愛を受け入れることが出来た時、神の国は近いのです。 自分の中に、何の愛もなくても、この主の愛を充たして頂くことを 求めることは出来る。そのことを祈り求めることによって、神の国 そのものである愛の三次元は近い。そう主は約束して下さる。 祈りましょう。 何よりも先ず私たちの人生における高さを先ず 求めさせてください。その高き愛に充たされて、幅の世界に 目開かれて喜び、どうかその充たされた喜びの中で、長さである 自分を好きになる道を歩んでいくことが出来ますように。 |