2003年12月28日 「灰は残る」
(マルコ15:47)




マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を
納めた場所を見つめていた。(マルコ15:47)

 私たちは先週の二度クリスマス礼拝を守りました。この季節、
二度続けて礼拝を守る、それは何気なく出来ることではありません。
そのための多くの祈りと具体的な準備が必要です。兄弟姉妹たちが
そのために献身的にご奉仕くださいました。そして、もっと
大事なことは、主日のクリスマス礼拝は勿論のこと、冬の夜の
イブ礼拝にもこの礼拝堂に皆さんが馳せ参じて来られたこと
でした。御体調が許さなかった人も、その時を覚えて、祈りに
おいてクリスマス礼拝に、参加下さったと確信します。こうして
一切を投げ出すような思いの中で、御子を礼拝するところ、
そこに教会が教会としてこの地に立っていることの唯一の
意義が現れて来るのです。

 そう言うのは、世界で最初のクリスマスにおいて、御子イエスを
礼拝する人たちがどんなに少なかったかを思い出すからです。
旅先の宿屋の主人たちも御子をお迎えする余地はありませんでした。
時の王や祭司長、律法学者も民衆も誰一人として礼拝に
来ませんでした。そのような中で、その人たちから差別されていた
羊飼と、異国の学者が馬小屋に訪れ、小さなクリスマス礼拝を
開いたのです。クリスマスを演出する華やかな舞台装置はありません。
貧しさの極みでした。しかし小さいけれども、本当に美しい
クリスマス礼拝が守られました。もし、この羊飼いと学者たちが
この世に存在しなければ、その夜、クリスマス礼拝を献げる人は
ただの一人もなかったのです。少年イエスは、何度も、母マリアから、
この夜のことを聞いたと思います。「旅先の馬小屋では、誰も
あなたの誕生をお祝いしてくれないと思ったのよ。でも羊飼いが
探し当ててくれたのよ。遠い国から占星術の学者たちもお祝いに
来て下さったのよ。」それを聞いた時、主イエスは喜びで溢れたと
思います。天を捨てて、人を救うために、地に降ってきた御自分の
捨て身の献身に応えてくれる人は、それでも残る。全ての者から
捨てられても何かが残る。この最初のクリスマス礼拝の御記憶が、
苦しみに満ちた御子イエスの30年の献身の生涯を支え続けたの
かもしれないと思う。そして私たちが、それから2003年後の
クリスマス礼拝に先週駆けつけたのは、この羊飼いと学者の
心を少しでも受け継ぐためであります。見栄え高き世界に心が
満員となり、誰も西片町教会の地味なクリスマス礼拝に魅力を
感じなくなる時が来ても、御子を拝する残されたただ一人に
なるために。

 連続講解説教の故に、御子イエスの誕生を祝うクリスマス礼拝の
直後、もう御子が死なれ埋葬される記事を読むことになりました。
余りにも早すぎると思われるかもしれない。しかし既にこの季節何度も
申しました。飼い葉桶と十字架は一つのことです。クリスマスの
御言葉は語ります。「暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)。
御子は最初から最期まで理解されない「光」として歩まれたのです。
円形グランドのスタートラインとゴールラインが一つであるように。
男弟子たちは、十字架と埋葬の時ゴルゴタの丘に来ませんでした。
それは言い換えるなら、春の受難週の礼拝に参列も協力もしなかった
ということでしょうか。しかしクリスマスの夜、すんでの所で、
幼子イエスを礼拝する者が到着するように、この時も、残りの者が
登場するのです。それが「アリマタヤ出身の議員ヨセフ」(15:43)
でした。弟子ではありません。ユダヤ最高議会サンヒドリンの議員の
一人だったと思われます。その者が、勇気を奮い起こし総督ピラトの
所へ行き、ご遺体をもらい受ける許可を得ます。その時、
ヨハネ福音書では、もう一人が、この丘へ駆けつけるのです。
それはニコデモというファリサイ派の一員でやはりヨセフと同じく
議員でした。一度だけ、夜、イエス様を訪ねて、真理についての
教えを受け、しかし離れていってしまった者です。彼は没薬を
携えてくる。その姿は、クリスマスプレゼントもって駆けつけた
東方の学者の姿を思い出させるのです。ここでも、駆けつける者が
残ったのです。

 私は先週、ビデオで「灰の記憶」という映画を観ました。
アウシュビッツ強制収容所で起こった事件に基づく映画です。
そこでナチスは、「ゾンダーコマンド」と呼ばれるユダヤ人による
「特別労務班」を編成していました。彼らは同胞であるユダヤ人を
騙してガス室に送り、その死体処理作業を手伝う「特別任務」に
就いています。彼らの代償は、食事の特別待遇と4ヶ月の延命で
あった。彼らは同胞に対する裏切り行為の罪意識にさいなまされ
つつ任務を果たしていく。

 ところが、いつものようにガス室から死体を運び出していると、
積み重なった死体の底から、奇跡的に生き残った少女を発見するの
です。生きることに絶望し始めていた彼らは少女に最後の希望を
託します。何とか命を救おうと危険を顧みず奔走します。それは
彼らの贖罪の一つでした。そしてもう一つの贖罪は、密かに火薬を
集め、自分たちが毎日山のような死体を焼き続ける巨大な焼却炉を
破壊することでした。暴動の計画がナチスに感づかれ、拷問による
大きな犠牲を払いつつ、しかしついに準備が整い決行の時を迎えます。

 私はそこまで見て、ハッピーエンドを期待しました。暴動は成功し、
少女は救われると。しかしこのドラマはフィクションでない。
アウシュビッツはそんな甘いものではなかったことは、既に歴史で
教えられています。暴動は半数の焼却炉を破壊しましたが、
しかし結局、全員捕らえられ一人残らず処刑されました。そして
最後に彼らの希望の星であった少女も殺害されるのです。そして、
遺体は、直ぐに編成された新しいゾンダーコマンドによって、
残った焼却炉に運ばれていきました。そして煙となって立ち上って
いく。それでこの映画は終わるのです。そこに奇跡は起きません。
何の救いもありません。絶滅施設アウシュビッツの事実の恐ろしい
リアリティーに圧倒され押しつぶされるだけです。

 ところで、この映画は何故「灰の記憶」という題なのでしょう。
これまで、精神的ショックのあまり一言も口を開かないまま焼かれた
少女がラスト語り始める。「残った焼却炉に入り、私は直ぐ焼かれて
しまった。私の身体は濃い煙となって立ち上り、みんなの煙と
混ざり合った。焼け残った骨は灰となり、灰は掃き出されて川に
運ばれる。しかし最後に僅かな私たちの灰が残り、空中に漂う。
灰は塵となって、作業する者の靴や顔に付く。そして吸い込まれる。」
そう静かに語るのです。

 何も残らない。おとぎ話でなくて、希望の一滴も残らなかったという
過酷な現実の中で、全てが失われる中で、しかし残るものはある。
灰は残る。いくら焼いても灰は塵として残る。それを誰も消すことは
出来ない。アウシュヴィッツでさえも。そう言われている、
そう私は解しました。

 主イエスの地上の人生もまたハッピーエンドではありませんでした。
私がそのビデオで甘い期待をしたように、この十字架の出来事に
おいて、最後に何かを期待した者のいたようです。「待て、
エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」(15:36)。
しかしそれは空しい期待であって、その直後、主イエスは息を
引き取られました。悲しい「終わり」です。二人のマリアが、
最後まで「イエスの遺体を納めた場所を見つめて」(15:47)と
記されています。まるで、空しい終わりかたをして消えた映画の
スクリーンに「ジ・エンド」と出ているのに、もう一度何かが
最後に写るのでないかと待つ人のように。こんな望みなき仕方で、
映画が終わったのが信じられない人のように。じっと墓を
見つめています。

 議員ヨセフとニコデモは勇気を出して、御身体を墓に埋葬しました。
しかし考えてみれば、最高法院・サンヒドリンこそ、その前の晩、
主イエスの死刑を宣告したのです。誰か一人でも反対した議員が
いたという記録はありません。ヨセフもニコデモもそこで黙って
いたに違いない。主イエスを尊敬していながら、自分の身可愛さに、
議会で沈黙していたのです。彼らも弟子たちと同じなのです。
英雄ではない。卑怯なのです。彼らは、ゾンダーコマンドに似ている。
同胞を日々裏切って生き延びているその負い目から一人の少女を救い、
勇気を搾り出して暴動を計画する。しかしそれ自体が灰のような
営みに過ぎなかったのです。皆殺しにされ一切が灰にされる。
何事もないかのようにアウシュビッツの営みは続く。にも
かかわらず映画は言う。「灰は残る」と。

 ヨセフとニコデモ、そして残された女性たちの埋葬物語の
続きに復活が起きました。そこで人間の灰にも等しい僅かな献身が、
灰の業が、意味をもち始める。女性たちが何かを待つように、
じっと見つめていた墓石が、終わりを超えて、改めて動き始める。
話は終わっていなかった。この世界は人間だけの世界ではありません。
人間だけでは、「ジ・エンド」であっても、神は来て下さる時、
またフィルムは回り始める。その時、その灰を、ご自身の大いなる
希望の業の一部分に用いてくださる。御子イエスの灰の如き遺体を
光輝く復活のお体に変えて下さったように。だから、私たちは、
こんなことが何の役に立つのかと思うような時も、自分の罪によって、
全てが手遅れだと思われる時も、なお諦めないで、精一杯の礼拝を
献げて今日も生きることが出来る。

 墓を献げたヨセフは「この人も神の国を待ち望んでいたのである」
(15:43)とあります。2003年は幕を閉じますが、私たちが一年行った
灰のような人生、灰のような礼拝、灰のような献身が、しかしそれで
終わるのではありません。神の国が来るからであります。その時、
灰に命の息が吹き入れられる。その息によって、空しさは吹き
飛ばされる。2003年に残った灰は、2004年に命とかわる。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者と
なった。」(創世記2:7)