今朝朗読頂きました、マルコ福音書の御言葉は、 いささか長かったかと思います。何故長くなったのか。 それはお分かりになられたように、二つの物語が 組み合わされているからです。一つはイエスの服に 触れる出血の止まらない女の物語があります。 そしてこの物語をもう一つの物語が、つまり会堂長ヤイロの 物語がサンドイッチのように挟み込んでいるのです。 会堂長ヤイロは、主イエスの足下にひれ伏し、 娘が死にそうです。どうか命を助けてください、と 願い出ました。その姿一つとっても、ヤイロがどんなに 娘を愛していたかが分かると思う。主イエスは既に 会堂おかかえの律法学者たちとの対立が始まって いたからです。そのイエスに会堂責任者である ヤイロが跪いてお願いしたら、彼は学者たちから 批判されるのは当然であった。あの男も焼きが 回ったものだ、と。しかしヤイロは娘の命への愛おしさは、 もうそんなことはどうでもよくなっていたのです。プライドも かなぐり捨てて、どうか後生ですから、主よ、 私と来て下さい、と願い出ました。 イエス様は直ぐヤイロの家に向かって歩き始めて 下さった。ヤイロはどんなにほっとしたことでしょうか。 「娘よ、待ってろよ、この父が、イエス様を連れて 行くからな、速く、速く」と。そこまではよかった。 しかし、そこで邪魔が入ったのであります。 今、私は今朝のマルコ福音書は、いささか長かったと 申しました。しかしその長さを、本当に長く感じたのは、 この会堂長ヤイロだったと思う。ヤイロと一行の救いへの 行進が、道半ばで止まってしまったのですから。 私たちもまた、似た経験をするのではないでしょうか。 祈りを聞いて下さったはずの主の足が、ある時、ふと 止まってしまわれるように感じられる時がある。一時、 主にあって、よくなったと思った病気がまた悪くなってくる。 祈りが叶って急に深まった二人の愛が、ある日、もう動かない。 どんなに押しても引いても。恥も外聞を捨てて神に迫っても。 その時の失望の闇は深い。最初から思わせぶりな、 光へ向かう行進など始まらなかった方がよかったと思うほどに。 この時一行を止めてしまったのは、一人の病気の女でした。 主は立ち止まって衣に触れた者を見つけようと見回している。 やっと、一人の女が震えながら進み出てきた。そんなことを している内に、時間はどんどんたっていく。「イエス様、私の方は どうなったのですか。」ヤイロは叫び出したかった。こうしている 内にも、娘の命の灯火は消えていく。私が先だ。 女が割り込みしたのだ! イエス様が女と話している内に、会堂長の家から使いの 者が走ってきて言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、 先生を煩わすには及ばないでしょう」(マルコ5・35)。 会堂長は茫然自失した。彼は立ち尽くした。最近の テレビニュースで、最愛の家族を失った父が言ったように。 「私の時は、あのときから止まったままです。」しかしその時、 主イエスは再び道を進み始めるのです。 「恐れることはない。ただ信じなさい」(36)と言って。今度は、 逆に主の方が会堂長を引きずるようにして、家へ 急がせたのかもしれない。まだ間に合う、と。 子が死んで、何故、間に合うのか。ある牧師は申します。 主のなさる奇跡とは、死なないで助かるという奇跡 のみなならず、死んでも生かすという奇跡だからである、と。 私たちが病気になった時、求める奇跡は、いつでも 「死なないで助かる」という奇跡なのではないか。しかし 主がここでなされようとしている奇跡とは「死んでも生きる」と いう奇跡なのであります。それは一切の可能性の喪失の中で、 なお立ち現れてくる神の真の奇跡のことなのであります。 「イエスはその話(使いの死の知らせ)をそばで聞いて」(36) と福音書は書きました。死の知らせを、私たちも会堂長のように 聞く瞬間がある。私は牧師となって、何度そういう電話を受けた ことでありましょう。それは本当に恐ろしい。しかしある人は 書いています。ここで福音書は、死の知らせを「そばで 聞いてくださる」お方がいる、と教えようとしているのだ、と。 それは私たちは一人で、孤独で、死の知らせを聞かなくて すむということであります。主が一緒に死の知らせを受け とめて下さる。そして死の絶望と戦うために、私たちを立たせ、 前進させて下さるのであります。 「聞いて」とは、「聞き流して」とも訳すことが出来るそうです。 主はその希望への行進を止めてしまう知らせを、聞き流して しまわれると言うのです。これは、湖で舟が突風に襲われた時、 艫の方で枕して眠っておられる主の姿を 思い出させます(マルコ4・38)。主は驚かれない。主は平安で あられる。いつも主が冷静かと言われるとそうでもない。少し先に 「人々の不信仰に驚かれた」(6・6)との記事があります。 主は不信仰には驚愕される。しかし主は死の知らせには 驚かれない。信じればいいではないか。信仰があれば、 驚かなくてすむのだ。死や嵐に際しても。そう言われるのです。 しかし死は不信仰な私たちから冷静さを奪い、次々に 激しい感情を呼び覚まします。恐れの後に会堂長の家で 起こったのは「泣きわめいて騒ぐ」(5・38)ことだった。 主は「なぜ、泣き騒ぐのか」(39)と問われました。次は 「笑い」(40)です。旧約聖書の族長の一人にイサクがいます。 イサクとは「笑い」の意味です。どうしてそんな名がついたのか。 それは御使いが妻サラのもとに来て、来年の今頃、あなたに 男の子が生まれますと預言したところ、サラは、ひそかに 笑いました。何故なら、サラは年老いて月のものが止まって いたからです。神はその時「なぜサラは笑ったのか」と 問われました。同様に、甦りを告げる神の子に対する あざ笑いがありました。恐れと涙と笑い、死の前に うち倒された人間の乱れた感情がここにあります。しかし 私たちは皆こうなるのではないでしょうか。その時、 主は手を取って言って下さるでしょう。「タリタ・クム。 少女よ、あなたに言う、起きなさい」(41)と。私たちは もう少女ではないかもしれない。しかし、今朝、主は私たち 一人一人に言われる。一人一人を訪ねて言って下さる。 「あなたに言う。タリタ・クム」と。 この長い物語の終わりに、この少女が 「12歳になっていた」(42)とマルコは記しました。 どうして最後にその歳を明かしたのでしょう。この12ということは、 25節で、一度出てきた数字です。女が病気だった期間も また12年間でありました。マルコはこのような数字を二度、 この物語で語ることによって、何を言い表そうと していたのでしょうか。それはマルコが会堂長の このような証しを聞いたことがあったからではないでしょうか。 私は、途上で止まってしまわれた主を、いらいらしながら 待ちました。どうしてこんなに私を待たせるのか、と恨みました。 しかし今にして思います。本当に待ったのは誰か、ということを。 それはこの12年間、出血の止まらなかった女性だったの ではないか。私と娘が楽しく暮らした同じ歳月を、あの女性は 苦しみ続けてきたのです。どちらが多く苦しんできたのでしょうか。 どちらが長く待ったのでしょうか。会堂長である私は、本当に、 隣人の苦しみが分からない存在であった。ただ自分の 苦しみしか見えない人間だった。自分の苦しみの故に、 世界も、また神でさえも、私中心に私優先に動かねば ならないと思うようになっていた。自分ほど苦しんでいる 人間はいないと思い込んだのです。それもまた高慢の罪で ありました。人はその苦しみにおいて、罪を犯すのです。 社会的地位の高い会堂長である私の悲劇に対しては、大勢が 群となってついてきました。しかし主は群衆の中に隠れて見えない 女性を、その秘かなる苦しみを必死で捜されたのです(5・31〜32)。 それを私は邪魔が入ったとしか感じられなかった。何と隣人の 痛みに鈍感だったことか。主はこの出来事を通して、私の罪を、 教えて下さったのだ。ただ娘を甦らせて下さっただけじゃない。 この奇跡の出来事は、私の信仰者としての復活でもあったのです。 祈りましょう。 自らの苦しみに酔って、隣人の悲しみが 少しも見えなく私たちを憐れんでください。 (表題「もう泣くな、と主は言われる」は、説教前に共に歌った 讃美歌21−110から取られました。) |