さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムの ユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネの もとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と 質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしは メシアではない」と言い表した。(ヨハネ福音書1:19〜20) 20世紀最大の聖書考古学の発見に「死海写本」や クムラン教団遺跡があります。このクムラン教団は、 ユダヤ教・エッセネ派に属する大変禁欲的な教団でした。 彼らは、堕落したエルサレム神殿を嫌い、都を去り体制に 背を向け、死海北西の荒野に住み、厳しい戒律、礼拝、 聖書研究に没頭しました。遺跡を発掘した者たちが興味を もったことの一つは、施設に備えられた大きな浴槽でしたが、 それによる全身洗礼が重んじられていたことが分かっています。 そのクムラン教団と洗礼者ヨハネに共通点があることに、 多くの人々は気づきました。その共通点とは、反体制、荒野、 禁欲、そして洗礼でありました。 従って、ヨハネは出自とは、実は、クムランにあるのでは ないか。あるいは、それに類似した禁欲的修道院の メンバーであったのではないかと理解されるのです。 しかも彼はその一会員に納まらず、ヨルダン川に下り、 独自の洗礼運動を開始する。それは民衆に熱狂的に 迎えられました。この人こそ待ち望んでいたキリスト(メシア)では なないかと期待されたのです。それほどの存在であった。 望みさえすれば、現在、キリスト教と信者数を競っている イスラム教の開祖マホメットのようになることも可能であったと 思います。実際、ヨハネの死後のことですが、ヨハネ教団と キリスト教団とは、しばらくの間、ライバル関係にあったとも 言われる。しかしヨハネは、自分の名があがめられる道を 拒絶し、キリストの証人となったのです。 「彼(ヨハネ)は証しをするために来た。光について証しを するため、また、すべての人が彼によって信じるように なるためである。彼は光ではなく、光について 証しをするために来た。」(ヨハネ1:6〜8) マティアス・グリューネヴァルトの作品・イーゼンハイム寺院における 祭壇画に、証人ヨハネの姿が描かれています。その中心には 十字架の主の姿が描かれている。その横にヨハネが立つのです。 解説者によりますと、まるでこの画家は、人間の肉体のバランスを 正確に描くことができないかのようだと言うのです。ヨハネが、 十字架のキリストを指さすのですが、彼の右手人差し指は、 あまりに均衡を欠いて肥大化している。しかし、解説者は申します。 それはこの画家の稚拙さがなしたことではない。ヨハネは、 その「肥大化」した指に象徴されるように、彼の存在自体が 文字通り「人差し指」そのものになっているのだ、と。 そして私は思います。それはヨハネだけではありません。 全てのキリスト者は皆「指」になる。私たちの存在自体が、 人生そのものが「人(キリスト)差し指」になる。それが 「証し」であります。 恩師は、証しとは、「自分を証しすることではない。キリストを 証しすることだ」と繰り返し教えて下さいました。そして、 人は、キリストを指さしているように見えて、いつのまにか こうなりがちだと、「人差し指」を180度曲げて見せた、 その恩師の仕草を私は今でもはっきり覚えています。 竹森満佐一牧師は言いました。「自分を語ることは、 自分を誇ることである」と。竹森牧師ほど、自分を語ることを しなかった人はいないと言われる。「自分を語ることは、 自分を誇ることである」。絶対にそうだとは私は思いません。 いくらでも反論出来ると思う。しかし、これは、よく覚えて おいた方が良い言葉なのです。私たちは、日常生活の中で、 どれほど自分を語りたがる存在であるかと言うことです。 自己顕示欲という言葉がある。「自分にこだわる思い」で あります。自分を見せたい、大きく見せたい。この欲望こそ、 使徒パウロが戦った「ほかの福音」(ガラテヤ1:6) そのものである、律法主義と深く関わるのです。 その思いに支配されてしまった中で、教会で何か 話しなさい、書きなさいと言われた時、並の人が 言わないような特別のことを言いたい。皆が感心するような、 新しいことを言いたい。ここにいる誰も行ったことない 不思議な国の話をしたい。自分の信仰深さ、頭の良さを 見せたい。そしてそれが出来ないと思うと、頑なに 拒否するのです。「信仰のみによって義とされる」との 福音とは、まさにそのような「自意識過剰」からの 解放なのではないでしょうか。 ある夕の祈祷会の立証で、一人の姉妹はこう語り始めた。 「私は、この証しが決まった日から悩み始めた。 何を語ってよいか、とても悩んだ。こんな苦しい思いを したことはない。しかし、ふと気づいた。それは、自分は 何かここで格好いいことを語りたいと思っているのだ、と。 だから、こんなに、証しが重荷となり、苦しんでいるのだ。 そうではない。格好いい必要はない。そう思った時に 語る言葉は、これだけです。私は、ただ礼拝に出席することを 大切にしたい。そこで神の言葉を聴き続ける、そのことに よって生かされていきたい、ただ毎週、休みなく礼拝に 出席することが出来るように、それが私の今の祈り。 しかし、これでは時間が短すぎるから、これから少し 蛇足をつけるが…」と言われてもう少し話されましたが、 私たちは良い証しを、今夕もまた聴くことが出来たと喜びに溢れました。 これは平凡な証しだったとのか。この人の優秀さにしては、 芸のない言葉だったと言うことになるのか、とんでもない 話だと思う。自分ではない。ただ神の言葉を聴く、 そこに生きるすべを求めていきたい、これほどの証しはない。 祈祷会の立証に神様によって選んで頂いた、この 大きな恵みを得た時、私たちはどう語れば 良いのでしょうか。「何でもいいからしゃべればいい」などと いうことではないことは、明らなかなことです。私は 皆さんの日頃の経験談や旅行の珍しい話を聞くのが 大好きです。時間を忘れておしゃべりします。しかし、 それは他の交わりの機会がいくらでもあるのではないでしょうか。 祈祷会では、キリストを証しすることに集中するのです。 しかし、それは竹森牧師のように「自分のことを語っては ならない」と言うほど、私は厳格でも禁欲的ではありません。 自分のことを語ることを通して、証しになるということは いくらでも起こるのです。洗礼者ヨハネも自分のことを 語らないわけではない。既に「わたしはメシアではない」(ヨハネ1:20)と 公言した時、ここで「わたしは」と言っているのです。 彼もまた証しにおいて「わたしは」と語るのです。「わたしではない」と 語ることを通して、「キリストのみ」と証しするためであります。 そうであれば、「わたし」という言葉を除いて、証しとは 生まれないのではないでしょうか。 使徒パウロもまた「わたしは」と自分を語ることを 躊躇しませんでした。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、 滅ぼそうとしていました」(ガラテヤ1:13)と。しかしそれは、 自分を見せるためではありません。それは「わたし」の 罪の告白であり、悔い改め(方向転換)のためでありました。 自分自身に向けられていた指が、180度回転してキリストを 指し示す指に変わる。この方向転換であります。私は弱い、 しかし神は強い、そう神の栄光を証しするためであれば、 私たちは、益々大胆に自分を語ることが許されているのであります。 「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、 また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」(ヨハネ1:7)。 「彼によって」とある。「洗礼者ヨハネによって」ということです。 「私たちによって」であります。私たちによらなければ、伝道にならないと 言っているです。しかし、この「よって」と訳される言葉は英語では、 しばしば、through「通り抜けて」という意味の前置詞で訳されるそうです。 私たちを通り抜けて、あちら側の神の恵みが見えてくる。 私たちはそのために、時には自分のことも語りますが、人々の視線が、 自分に止まってしまうことなく、そこを通り抜けて、キリストが 鮮やかに浮かび上がってくることを祈り求めつつ語るのです。 「私たちを通って、人は信じるようになる」。何と素晴らしいことで ありましょう。それは私たちがこの世に生まれてきた意味が あるということであります。自分を通り抜けて、キリストが人々の 前に現れ出るのです。証しすることこそ、ヨハネ同様、私たちの 人生そのものなのです。そしてそれが伝道になるのです。 ですから、これをさせて頂くことは、神様の素晴らしい恵みであって、 深い喜びであって、人生が最も充実する瞬間なのであります。 証しとは難しいことでしょうか。信仰がない人にはとても 難しいことです。しかし、信仰がある人にとっては、こんな 易しいことはありません。何か人がおもしろがるような話を しながら、証しを成立させることも可能ですが、しかしこれは とても難しく、同時に危険です。キリストが私たちの影に 隠れてしまうかもしれないから。 そういう方法を取らなければ、証しはとても簡単です。 ヨハネは、キリストを証ししようとする中で、「預言者イザヤの 言葉を用いた」(ヨハネ1:23)と記されています。ですから、 証しにとって一番の「要」は御言葉です。御言葉の引用です。 ですから、祈祷会の証しにおいても、先ず立証者は御言葉を 朗読することから始めるのです。そして、聖書の話をそのまま すればいい。「私は最近、この御言葉を読み、こういう恵みを受け、 生かされています。」何の賢しらな解釈をする必要もない。 何の工夫もいらない。それは誰でもできるのです。 神様は、私たちが地球の裏側に旅した時だけ現れて くださるのではありません。普通の生活の中に、キリストは おられるのです。どこよりも礼拝です。礼拝で、御言葉が 読まれ説教がなされます。そここそ、私たちがキリストと 出会う第一の場であります。そこで見せて頂いた神様を 証しすればいいのです。そこで聴き、自分を救った御言葉を、 そのままなぞるように引用し、その受けた恵みを喜べば、 この上なき証しなのです。皆が覚えている御言葉だから、 退屈させてしまうだろう、などというのは杞憂です。珍しい テキストを引っぱり出す必要もない。永遠の福音を語るとは、 いつも同じことを語るということでもあるのです。しかし、 その同じことを、あなたが語る「私もまたこの御言葉によって 生かされている者の一人です」、この証しを聴く時、 祈祷会出席者の心は燃える! 本当言えば、祈祷会で絶対に立証がなければならない、 ということでもありません。御言葉が語られ、そして皆が祈る。 そこで必ず、今聴いたばかりの御言葉に対する応答が 込められています。素朴な応答の祈りです。ある人は 言われました。水曜日の夕、最後に一人一人が祈る、 ここに確かな証しがある、と。ここに神の存在が鮮やかに 証しされている、と。本当にそうだと思いました。 どうか、愛する兄弟たち、愛する姉妹たち、「祈るため」に 祈祷会に来てください。あらたまって立証を用意して来る 必要もない。何の準備もいらない。身一つで来てください。 水曜日の夕の一時、短い御言葉を聴き、讃美歌を歌い、 共に祈りましょう。御言葉が与えられたことを感謝しましょう。 病んでいる人たちの癒しを求めて祈りましょう。戦争や飢えに よって苦しむ人たちのことを覚えて平和を求めましょう。 重責を担う者のために。家族のために。隣人のために。 教会のために、次週の礼拝が祝福されるように願いましょう。 何よりも、神様にのみ栄光があるように。御名が あがめられるように、と。主イエスキリストがこう祈れと 教えてくださった主の祈りを、心と声を合わせて祈るために、 集まりましょう。これこそが、私たちのなす 精一杯の証しなのであります。 |