2002年11月10日 「二人組の伝道」(マルコ6:6b〜13)




主イエスは、とても伝道を重んじられました。福音書に
おける主イエスの旅路は、全て伝道のための歩みでありました。
主イエスは故郷ナザレでも熱心に伝道をされました(マルコ6:1)。
しかし受け入れられず、故郷を追われるように出てこられる。
しかしなお忍耐強く付近の村を巡って伝道を続けられた、その
主のお姿が描かれています。後に伝道者パウロはこう勧めました。
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。
とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」
(テモテ二4:2)。それはこの主イエスのくじけない伝道の姿勢を
受け継いだ言葉だったと思う。

 人間は大昔から常に、自分を生かし喜ばす良きものを隣人に
教え伝える努力を惜しみませんでした。教えること、伝えることに
全力を尽くしたと言っても良い。私たちが今、空気のように
享受している有形無形の文化、技術は、みな遠いご先祖から、
あるいは外国から教えられたものばかりだと思います。良き物を、
伝え、教える、そこに既に「隣人への愛」が溢れています。
隣人に無関心だったり、敵意を持っている人は、良い情報を、
決して教えず、むしろ自分たちだけで独占するでありましょう。

 私が何を申し上げたいか。それは今、世間では当然であり、
何となく教会の中にすら広がっている考え方、伝道とは、
おせっかいだ、よけいなおせっかいだ、という考えは間違って
いるということを申し上げたいのです。どうして間違っているのか。
それは私たちが信じる主イエスが伝道に生きられたからであります。
まことに単純な理屈なのであります。
「イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。」(マルコ6:6b)

 主イエスが何故、額に汗して、折が良くても悪くても伝道の
旅をなさったのか。それは、まさに古の文化を伝えた人々の
情熱に匹敵する、いえ、それ以上の、隣人に対する、隣人の
命に対する愛の故であります。伝道こそ、隣人に対する最大の
愛の行為なのです。

 主イエスの伝道の情熱は、余りにも激しいものであられた。
それが故に、主は御自身一人でそれをなすのではなく、12人の
弟子・使徒をお立てになられる。主の伝道の情熱がそうやって、
弟子たちに広がっていくことをお求めになられたのです。
「そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことに
された。その際、汚れた霊に対する権能を授け」(6:7)
られたのです。この権能や宣教とは、まさに主イエスが
その伝道においてなさったことです。その主の業が、12人の
使徒たちにそのまま委託される。そしてこの12人の使徒とは、
教会の源流であります。私たちもまた全く同じように、主から
権能が与えられて、人々のもとに遣わされていくのです。

  何と大きな伝道の職務を、私たちは与えられていることで
ありましようか。それはまさに主イエスがなさることを、
私たちの教会がするというこということに他ならないのです。
しかし、こう聞けば、聞くほど、私たちはそんなこと言ったって、
という気持ちになるかもしれない。

 それはこの12名の弟子たちも同じだったと思います。既に
これまで主イエスから様々な教えを受け、また訓練も受けて
きた弟子たちでありました。にもかかわらず、弟子たちは、
相変わらず失敗ばかりで、それを何度でも繰り返し記さねば
ならない福音書記者のため息が、そこから聞こえてくるかのようです。

 しかし、そこで私たちが注目しなければならないのは、
こういう弟子たちを主は選ばれ、伝道に派遣されたということ
なのです。しかもそういう弟子たちが、結局、伝道に失敗しました、
と続くかと思ったら、そうではない。「多くの悪霊を追い出し、
油を塗って多くの病人をいやした」(6:13)。ナザレの郷里伝道に
おいて、主は「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、
そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(6:5)
とある。主イエスのお働きは「ごくわずか」であり、弟子たちの
成果は「多い」。これでは話は逆ではないかと思うのですが、
ここでは、信仰弱く、役に立ちそうもない弟子たちが、
主イエスより、大きく用いられるのです。

 どうしてか。福音とは貧しい者を生かす力だからであります。
私たちは持ち物の多さによって生きると考えます。その時、
弟子たちはこの世の常識に逆らって、自らの持ち物の多さに
よってではなく、逆に少なさによって生かされるのです。
「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の
中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして
「下着は二枚着てはならない」と命じられた」(6:8〜9)

 私たちを健やかに生かすものは、主イエスの恵みだけなのだ、
主イエスの愛のみなのだ、持ち物の多さによらない、と身を
もって証しするために、彼ら、貧しき者は選ばれたのであります。

 最近の「信徒の友」を読んでいたら、こう書いてあった。
 「多くのクリスチャンが悩んでいる。私が立派なクリスチャンで
ないから、家族を導けない、と。いいえ。立派でないほうが
伝道効果あり。あれでもクリスチャンと言われるかもしれない。
しかしクリスチャンって堅苦しくなくていいんだ。駄目人間でも
許されているんだ。そう分かると安心する。それだけで、家族や
友人が教会に来る敷居が低くなることだろう」と。

 しかも主イエスは、私たちのその貧しさ、弱さを思いやって、
伝道に遣わす時に、二人ずつ組にして遣わせられました(6:7)。
聖書はしばしば、「ふたりづれ」について語ります。今、
私たちは水曜夜の聖書研究会で、サムエル記を読んでいます。
そこでも、強敵ペリシテ先陣隊を奇襲する王子ヨナタンに、
連れ添う一人の従卒がいたと書かれてある。そして、突入の
決意を披瀝するヨナタンに対して「あなたの思いどおりに
なさってください。行きましょう。わたしはあなたと一心同体です。」
(サムエル上14:7)と答えるのです。

 二人組はこのように、互いに励まし合って神の国建設のために
前進するのだ、と言われているのです。一人が伝道していて、
言葉につまってしまうことがある。自分でも何を言っているか
分からなくなってしまうこともある。途方に暮れる時、もう一人の
者が傍らにいて、頷いたり、アーメンと言ったりして、この人の
言っていることは本当だと支えるのです。神学生の時、伝道実習で
説教を致しました時、一番前に座っているお婆さんが、ずっと
頷いてくださった。それに励まされて、自分でも何を言っているか
分からない説教を最後までやり遂げることが出来た、そういうことが
あります。逆に、斜に構えられると本当にやりにくい。下手な説教が
益々下手な説教となる。説教も、牧師だけで作るものではありません。
会衆と共に作るものではないでしょうか。説教の「聞き上手」と
なることも伝道なのです。その真摯な姿を見て、求道者は、神の
言葉の権威を学ぶことでありましょう。

 もっと深刻なのは、伝道がうまくいかなくてノイローゼになったり、
長い旅をしている間に、自分自身がだんだん福音が信じられなく
なったりすることが起こることです。一人がそうやって、
疲れ果てて倒れる。その時、もう一人が、肩を貸してあげて、
共に伝道の旅を続けるのです。これが教会共同体の姿なのです。

 先ほど、伝道とは、隣人への愛だと申しました。しかし、
伝道とは、それを伝えた伝道者自身をも生かすものであります。
主は「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」
(マルコ10:31)と言われました。伝道した本人が、長い人生の
旅路の中で、躓くことがあるのです。牧師である私が信仰に躓くのです。
親である私が、試練の嵐の中で、信仰を失うのです。しかしその時、
二人組であれば、ちゃんと伝道して家族の中に、友人の中に同胞を
作っておけば、その時、その人は言うでありましょう。あんたは
あの時、私を、どんなことがあっても、くじけてはならない、
くじける必要はないと、主イエスがおられるから、と教えた
じゃないないか。あれは嘘だったのか。もう信じられなくなったのか。
それなら今度は私が言おう。あなたの伝道した言葉をそのまま
お返ししよう。くじけてはならない、と。主の福音があるのだ、と。

 神学者ブルンナーはこう言ったそうです。「人は殆ど全てのことを
一人でやれるが、キリスト者になるということだけは一人ではできない。」 

 キリスト者となるためには交わりが必要なのです。人と人は
組となって、御言葉を交換し合うことによってだけ、キリスト者と
しての旅路を終わりまで全うすることが出来るのです。主イエスは、
私たちの弱さをよく承知しておられる。一人では直ぐ疲れ果てる
貧しい私たちであることをよく知っておられる。しかしそれだけに、
福音が、主イエスの愛がどうしても必要な存在であるのです。
この弱い貧しい私たちだからこそ、その福音を知った喜びは大きい。
その喜びの激しさが、隣人に、福音を伝える情熱となるのです。
そこで伝道は進む。そのために、主は私たちをあえて
選んでくださったのです。

 「わたしは弱いときにこそ強い」(コリント二12:10)。

お祈りを致します。
弟子として選ばれた私たちであります。その使命の大きさの前に、
たじろぐ、貧しき者であります。しかしこの不思議な選びにこそ、
あなたの深い御計画があることを信じ受け入れ、同胞と手を携えて
伝道の旅に出ていくことが出来ますように。